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2026.02.15 主日礼拝「律法と割礼の価値」ローマ人への手紙2:11-29


今日は春の足音が聞こえるような1日でしたね。

聖書のみことばや主の御心を知っているだけではなく、いつでも主が喜ばれることを行うものでありたいと思いました。


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。主の復活の日曜日に、主にある希望を共におぼえる礼拝の時が与えられ感謝です。

教会の暦は待降節から始まって、降誕節に入り、間もなく受難節が始まろうとしています。降誕節の最後の期間ですが、イエス様が地上に来てくださって、奇跡や教えを通して、神の国の福音を宣べ伝えてくださったことを思い出しましょう。イエス様は十字架に向かう前に、弟子たちを召し、訓練し、彼らがすっかり誤解していた神の国を、正しく悟らせようとしてくださいました。

イエス様の神の国の知らせの中で、特徴的だったのは赦しです。たとえ話による教えがいくつもありましたが、赦すことを教えるたとえ話がありました。例えばマタイ18章には王の負債を赦された家来が、自分に負債のある仲間を赦さなかったというたとえ話があります。神の国は、王なる主に赦された人々の町です。また自分が赦されたように他人を赦す人々の町です。

教会は神の国とその義を求める人々の群れです。いつも「御国が来ますように」と祈っています。ですから、教会は天の御国がそうであるように、赦された人々の町、赦す人々の町とされることを主に願い求め、その恵みを受け取ろうとします。私たちもまた、聖霊によって作り変えられることを祈り求めましょう。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈り、その祈りに相応しく行動しましょう。

聖書をお開きください。ローマ人への手紙2:11-29(299ページ)【聖書朗読】

ローマ教会にはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンという、2つの互いに裁き合っていたグループがありました。彼らにはそれぞれの教会の見方があり、この分裂は話し合って解決するような問題ではありませんでした。話し合って「私たちはこう考える」「私たちはこう考える」と言い合っても平行線になるだけです。どのようにして、心を一つにし、声を合わせて神をほめたたえるという目的に達することができるでしょうか。それは不可能に思えることだったでしょう。

しかし、ここに良い知らせ(福音)がありました。主イエス様が分裂の間に介入してきてくださって、平和を実現されるという知らせです。エペソ人への手紙にはこのようにあ書いてあります。《実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(エペソ2:14-17)》教会が平和を求めようという時、向かう先は交渉ではなく、合意形成ではなく、裁判ではなく、イエス・キリストの福音です。みんなが福音に耳を傾けようとする時、「すべての人は罪の下にあり、十字架によって救われた」という事実が、私たちをひとつにします。

さて、パウロは過去の負い目を償いたいとの思いを持ちつつ、ローマ教会にぜひ福音を伝えたいと考えました。パウロは2つのグループに交互に語りかけます。ユダヤ人クリスチャンたちに語りかけ、次に異邦人クリスチャンたちに語りかけ、どちらの立場からも福音に向かわせようとしています。今日の箇所はユダヤ人クリスチャンたちに語りかけている部分です。

「神にえこひいきはない」という前回の部分から続いています。ユダヤ人クリスチャンたちには、神である主がユダヤ人を特別にえこひいきしておられるという考えがありました。彼らは律法を与えられていること、割礼を受けていることを誇りとしていました。

律法とはモーセ五書と言われる創・出・レビ・民・申命記のことです。神の民イスラエルは、エジプトで奴隷にされていましたが、主が遣わされたモーセに導かれてエジプトを脱出しました。その後、シナイ山までやってきた時、天におられる主が民とお会いになって、ご自分の臨在を現されたのです。主はその時、モーセを通して民に最初の律法(石板に記された十のことば)をお与えになりました。律法には神の民がどのように社会を形成していくべきかが分かる主の掟が記されていました。それまでイスラエルは400年間も奴隷であり、自立した社会を完全に壊されていました。新しい社会を作り、ひとつの国となるために、神の掟を特別に与えられたのです。1章の後半で、異邦人たちが行っていた罪の数々ですが、ユダヤ人クリスチャンたちはそれらが罪であることを知っていました。聖書に書いてあるからです。「これらのことを主はお嫌いになる。これらのことを主は喜ばれる。」彼らは律法を持っていたので、目に見えない主の御心を知っていたのです。この事実はユダヤ人たちを高ぶらせました。「私たちは神のみこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているんだぞ。私たちは律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているんだぞ。神様から直接教えてもらった神の知恵を異邦人たちは知らないだろう。だから私たちが教えてあげているんだ。」彼らの自己認識は、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師でした。実際には、ただ恵みによって神の知恵と真理を教えていただいただけなのに、まるで自分たちから知恵と真理が出てきているかのように振る舞うとは、おかしなことです。

神である主がどんなことを喜ばれるのか知っている人が正しいのではなく、主が喜ばれることを行う人が正しいのです。たとえ、主が喜ばれることが何か一度も聞いたことがない人でも、知らないままで(生まれつきのままで)主が喜ばれることを行うなら、主はその人を喜んでくださいます。私は主が喜ばれることとお嫌いになることを知っているぞと言いながら、喜ばれることを行わない人がいたなら、知っていることに何の意味があるのでしょうか。神のさばきの日に、聖書を知っているかいないかは何の意味も持ちません。

ユダヤ人たちは神の民としての割礼という印を身体に刻んでいました。包皮の肉を切り捨てるのが割礼です。それは神の民として、主と契約を結んだ者であることの目に見える印です(創17:11)。なぜ目に見える印として割礼が命じられたのでしょうか。それは彼らが全世界のための神の選びの民だったからです。他の民族の人々が彼らを見て、主を知るためでした。世界中の人々が、割礼を受けた民を見て、彼らの社会が愛と恵みに満ちて、主によって祝福されることを目撃し、主ヤハウェの御名をあがめ、私たちも愛と恵みの社会に生きたいと願うこと。これが主のご計画でした。神の民が主の掟を守るからこそ、割礼には価値が生まれるのです。民が他の国の人たちと全く同じように生きていて、悪を行っていたのなら、割礼は何の役にも立ちません。それどころか、他の人々と何も変わらないような町を形成したユダヤ人を見て、人々はヤハウェも他の神と何も変わらないなと思うことになるのです。《「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」》とエゼキエル書36章に書かれているのは、そのことを指しています。

ユダヤ人クリスチャンは律法を先に知っていたことと割礼が自分たちの肉に記されていることを誇っていました。その誇りをもって、異邦人クリスチャンたちを見下し、さばいていたのです。律法と割礼の意味が旧約と新約で変わってしまったのではありません。パウロは、律法と割礼の元々の意味を思い出してみなさいと語っているのです。

主イエス様が帰ってこられる日に、神のさばきが行われます。その日、私たちが受けるのは筆記試験ではありません。面接でもありません。私たちは試験や面接には馴染みがありますね。試験や面接を受ける場合には勉強をして対策をします。前の日には一夜漬けをするかもしれません。答えを知っているかどうかが非常に大切です。よく知っているということは合格の可能性を大きくしますし、素晴らしいと評価を得るのです。しかし、神のさばきは筆記試験や面接ではありません。私たちひとりひとりの人生の歩みを振り返って、その行いによってさばかれると聖書に書いてあります(IIコリント5:10)。主の掟を知っているかどうかは、主の御心に従って歩もうとする時には役に立つでしょうが、さばきの日には私たちの義に何の効果も与えません。主がご覧になるのは、主の御前に正しいことをこれまでの人生の中で行ってきたかどうか、なのです。

そういうわけで、ユダヤ人クリスチャンたちは律法を知っていること、割礼という印を持っていることを誇っていましたが、異邦人クリスチャンたちを受け入れず、さばいているために神のさばきが下ろうとしていて、誇りは何の価値もないものになっていました。《さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。(マタイ7:1-4)》これは神である主イエス様のことばです。主はご自分の民に律法をお与えになりましたが、それは彼ら自身が主の掟(御心)に生きるためであり、律法を使って他の人々をさばくためではありませんでした。他人をさばくなら、イエス様のことばに逆らっていて、弁明の余地はありません。

私たちはみな罪の下にあるのです。教会に人々が導かれてくるのには、それぞれの導きがあります。人生の早い段階でイエス様を信じる人もいれば、後になってイエス様と出会う人もいます。イエス様の教会には先に入ってくる方と、後に入ってくる方がいるのです。すると当然、聖書の知識に差が生じることになります。ある人は沢山知っているし、ある人はまだ少ししか知らないという状況になります。しかし、先に知っているという理由で称賛されることはありません。主が喜ばれることを行う時に、神から称賛されるからです。他人をさばくことは明らかに主の命令に背いていて、この点で無実である人はひとりもいないのです。

聖書を読み、主の御心を知って、それを確かに行おうとするなら、私たちは必ず罪の意識にたどり着きます。聖書には罪の意識にたどり着いた人々が何人も出てきます。アダムやカインに始まり、ヨセフの兄たち、ヨブ、ダビデ王、預言者イザヤ、弟子のペテロ、十字架の強盗、そしてパウロ自身も罪の意識にたどり着き、私は罪人のかしらだと言いました。しかし、彼らは主の救いを経験しました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われた救い主が来てくださったからです。

この同じお方によって私たちは救われました。もはやこの世と調子を合わせてさばきあうことなく、キリストによってひとつのからだとして、心を一つにし、声を合わせて神をほめたたえるのです。



 

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