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2026.1.25 主日礼拝「神に向かって感謝する」ローマ人への手紙1:8-13



 一年で最も寒いとされる大寒の時期になりました。みなさま体調に気をつけてお過ごしください。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今朝は礼拝後に教会総会がひかえていますので、短く御言葉を取り次がせていただきます。聖書をお開きください。ローマ人への手紙1:8-13(297ページ)【聖書朗読】

教会総会の日には毎年の恒例になっていますが、「聖書の教える神の国と、私たちが寄留している世界の違いを心に留めて、祈りつつ目を覚ましていましょう」とお話しております。ちょうどローマ人への手紙の続きの部分で、神の国を待ち望む教会と、この世の常識の違いが現れていましたので、この箇所から主が語ってくださることに聞き従いたいと思います。

《まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。》パウロは挨拶の後で、いよいよ本題に入っていきます。本題はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンで互いにさばき合っているローマ教会に、互いに受け入れ合い、心を一つにし、声を合わせて、神をほめたたえるようにと教えることです。ローマ教会には問題がありました。しかし、問題を抱えていても、全世界で教会の信仰が語り伝えられているゆえに、神に感謝しますと最初に書いたのです。

世の中のある人々には、「教会は自分たちの汚い部分は隠して、きれいな部分だけを見せるようにしている」というイメージがあるようです。聖書を読んだことあるのかなと思います。旧約聖書でも、新約聖書でも、はっきりと書いてあるのは、神の民はいつも神である主の前に問題を抱えていたということです。福音は良い知らせですが、「教会はすばらしい人たちです」という知らせではありません。「神の恵み、神の憐れみ、神の愛は本当に大きく、私たちにもあなたにも十字架を通して注がれています」これが福音です。私たちが失敗して、神様の赦しをいただく時、私たちは責められ恥をかきますが、際立つのは神様のあわれみの深さです。はるか昔から今に至るまで、神の民の失敗は、主の変わらぬ愛の現れる機会です。こうして福音が全世界に語り伝えられています。

昨年の流行語大賞は「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」でした。神の福音を伝える私たちは「失敗して失敗して失敗して失敗して失敗してまいります」と言いたいところです。私が王寺教会にやってきて5年になろうとしています。これまでコツコツと語られて来たことが、芽を出してきているなと感じることがあります。「王寺教会にも問題があるね」とみなさんがポロポロとおっしゃるようになったからです。しかし、私の予想していなかったことがあります。そうおっしゃる時に、何故かみなさんどんどん落ち込んでいるみたいなのです。これは全く予想外で、どうしてと思っています。私たちの失敗は神の栄光が現れる機会です。イエス様の教会は、人間の抜かりない計画と成功によって進むのではなく、神の愛を受けて前進するのです。信仰と希望と愛は絶えることがありません。私たちの失敗は、神への感謝と喜びに繋がり、主イエス・キリストによる永遠のいのちに至ります。

さて、今日の御言葉から私自身も教えられた大切なことがありました。「神に向かって感謝する」ということです。ローマ教会には問題がありましたが、同時に感謝の理由がありました。そのような時に、私たちは教会のみなさんに向かって、「みなさんの信仰が語り伝えられていますから、みなさんありがとうございます」と言いたくなります。言いたくなるし、何となく教会員としても言われたいとか言われるべきだと感じるでしょう。私も牧師として奉仕していますと、メールや手紙を送る機会、みなさんの前で話す機会が多くあり、「みなさんに向かって感謝する」ことが多いのです。それでこの箇所から、教えられました。神の国には世の中とは違う常識があるんだということです。聖書を旧約も新約も検索して調べました。個人的な感謝は1箇所(ローマ16:4)見つけましたが、他のどの箇所もみなさんに向かって感謝してないんです。「主に感謝せよ。」「神に感謝します。」これは教会に宛てて書かれた手紙です。感謝の理由が教会にあるなら、教会に向かって感謝しますと言うのが社会の常識じゃないでしょうか。でも、聖書ではそのようにしていないですね。

「教会ではこういう風にやっているけど、社会では通用しないよね。」聞いたことがありませんか。私も若い頃はそのように考えたことがありました。でも、イエス様を知るにつれ、聖書から教会が何か教えられるにつれ、それは全く逆だということに気が付きました。「世の中ではそういう風にやっているけど、教会では通用しない」ということです。この世の有り様は、やがて滅びていくものです。神の国はこれから来るのです。この社会の常識から、神の国の常識に移っていくのが私たちです。もちろん成長には時間がかかりますけれども、段々と神の国の常識に生きる者に変えられていかなければなりません。

さて、私たちはこの後、教会総会を行います。教会総会はイエス様が定めた会議ではありません。実際、神の国を生きようとしている私たちにとって異質なものです。この社会の常識では、「聖」と「俗」は分けられるそうです。聖書は礼拝の間に使うもの、教会総会では条例や規則を使います?_ おかしいですよね。《世界とそれに満ちるものはわたしのものだ。(詩50:12)》と主は言われました。どんな時にも聖書が私たちの道の光、足の灯火です。ですから、目を覚ましていましょう。聖書に従い、御霊によって歩むなら、《愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制》の実を結びます。このようなものに反対する条例や規則はありません。

教会は、執行部と総員という図ではありません。ここにあるのは、神である主と神の民という図です。総員の多数決で決まったことを牧師や役員が執行しますというのは、とても変な話です。社会ではそうしているんですけれども、神の国には通用しない常識です。パウロは《あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。》と言っています。私たちは同じ主イエス様の牧場にいる羊であることを思い出しましょう。導くのはイエス様(イエス様によって遣わされた聖霊)です。私たちは互いに励まし合って、神様に向かって感謝する群れです。

お祈りします《まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。》

天の父なる神様。あなたに望みを置く者、主を求めるたましいにいつくしみ深いお方。私たちの主よ。

あなたは人の子らを意味もなく、苦しめ悩ませることはありません。たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれんでくださるお方です。実に私たちは滅び失せませんでした。あなたのあわれみが尽きないからです。それゆえ、私たちは言います。「私は待ち望む。主の恵みを」と。

王寺教会の信仰が語り伝えられているゆえに、主よ、あなたに感謝します。私たちは互いに励まし合うためにここに集まっています。神の愛を帆に受けて、あなたの導かれるままに進ませてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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