礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日も兄弟姉妹とともに主を証しする礼拝の恵みが与えられました。主に感謝します。
教会に宛てて書かれた手紙を読み始めて1ヶ月が過ぎました。みなさまもそれぞれにいくつかの手紙を読みながら、当時の教会の様子や、2000年の間イエス様の教えを守り続けて、今日にまで続いている教会について、思いを巡らせておられると思います。私もローマ人への手紙から続く手紙をじっくりと読んでいました。あるところで、パウロのこのような言葉が記されていました。《私は、手紙であなたがたを脅しているかのように思われたくありません。(IIコリント10:9)》これはIIコリント人への手紙にある一文です。IIコリントは、パウロの手紙の中ではだいぶ後の方で書かれたものですから、ガラテヤ、テサロニケ、Iコリント、ピリピ、ピレモン、コロサイ、エペソあたりは先に書き送られていました。これを読みながら、当時の教会の様子を思い浮かべました。IIコリントよりも先に送られた手紙を読んだ人々の中から「パウロは教会の人々を脅している」という反応があったようです。確かに聖書には旧約聖書にも新約聖書にも、向き合い方によっては脅されていると感じる可能性のある文面がありますね。
しかし、パウロが主イエス様から与えられていた使命は教会を建てあげることでした。脅すためにではなく、彼らを愛して建て上げるために手紙を書いていたのです。手紙の結論部分には、平和の神、主イエスの恵み、朽ちることのない愛、あわれみ、責められるところのない、などといった言葉が何度も出てきます。これらの手紙を受け入れる時に、途中で耳の痛い部分を通るとしても、最終的に教会はあるところに到着します。それはいつも主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりによる平和です。聖書の言葉には、どの一文にも、神様も愛が詰まっているのです。
聖霊は私たちに聖書を悟らせてくださいます。御言葉よって私たちは日々作り変えられていきます。私たちは共に御言葉に心を開いて、神の安息に入るように務めようではありませんか。
聖書をお開きください。ローマ人への手紙1:18-2:11(298ページ)【聖書朗読】
ローマ教会に宛てて書かれた手紙を読み進めています。ローマ教会は過去の経緯から、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に溝ができてしまいました。元々、民族的に違う人たちであり、生活の文化が異なる人たちでしたから、自然な状態では分かり合えなかったのです。それでも教会として同じ道を一緒に辿ることができたなら理解し合って、うまくやれたかもしれません。しかし、ユダヤ人クリスチャンはローマを一時追放され、異邦人クリスチャンは迫害の中で家々の教会を守り続け、それぞれが別の経験をすることになりましたので、何年も経って再会した時に、互いに受け入れることができないという状態に陥ってしまったのでした。
そんな状態のローマ教会に、パウロはぜひ福音を伝えたいと語りました。福音はクリスチャンたちの間にある問題にも、このローマ教会の大きな問題にも救いをもたらす神の力だからです。
さて、パウロは2:1に向けて語り始めます。神の怒りが啓示されていると話し始めました。いくつかのことが挙げられていますが、いずれにしても、神である主が定められた世界のあるべき姿を拒否したことに神の怒りが啓示されたということです。神を神としてあがめず、神に感謝もせず、自分たちは神よりも知恵があると主張し、神は人間や動物と似たようなものだとし、心の欲望のままに自然な関係を捨てて情欲に燃えた。これらは主が世界を創造された時になかったものでした。主はこの世界を救い、あるべき姿を取り戻す計画を立ててくださいましたが、その計画(御心)に反抗する行為がおこなわれているのです。しかしながら、神の怒りは「不敬虔と不義に対して」と書かれています。不敬虔とは神を畏れないこと。不義とは神の掟に従わないことです。主は人に対して怒るのではないということです。こいつは嫌い(あるいは悪者)だから滅ぼしてやろうとお考えになることはないのです。不敬虔と不義に対してお怒りになるのであって、悪者は不敬虔と不義のゆえに滅ぼされるのです。神である主はご自分がお造りになった人間をひとりひとり愛しておられます。
ところが人間はみな罪深く、神の怒りを知った時、神様に同意し、悔い改めるのではなく、罪を否定し、罪を見えないように覆い隠す傾向があります。実際、神のさばきはイエス様が帰ってこられる時まで猶予があるので、罪を否定して、隠していても何事も起こらないように思えるのです。昔、小学生の子が火遊びをして火が燃え移ってしまったことがありました。その子はびっくりして上から布団を被せたのです。しばらくは火が無くなったかのように見えましたが、結局大火事になって家が燃えてしまいました。神のいつくしみと忍耐と寛容を軽く見て、本来はすぐにでも投げ捨てなければならない不敬虔と不義を、しっかりと抱えたまま突き進んでしまうならどうなるでしょうか。全体が大火事になります。でも、良い知らせがあります。主の思いは、人を滅ぼしたいということではないのですから、不敬虔と不義をすぐさま捨ててしまえば良いのです。
1:18-32を読んでいた時、ローマ教会のクリスチャンたちは、おそらく首を縦に振っていたことでしょう。特にこれらの習慣は異邦人たちがしていたことでしたから、敬虔なユダヤ人クリスチャンたちは「そうだそうだ」と思っていたでしょう。「彼らは神を神としてあがめず」そうだ。私たちは古来からまことの神を礼拝してきたぞ。「彼らは感謝もせず」そうだ。私たちは神殿で感謝のささげものをしてきたぞ。「彼らは神の栄光を偶像と替えてしまった」そうだ。それが異邦人のやったことだ。「彼らは自然な関係を捨てた」本当に異邦人の習慣はとんでもない。神の怒りが下るのは当然だ。(旧約聖書を思い出してみれば、事実は違ったじゃないかと思いますが、ユダヤ人自身の認識はそんなところだったでしょう。)
また異邦人クリスチャンたちも、ユダヤ人クリスチャンほどではないにしろ、イエス様を信じてクリスチャンになったのですから、クリスチャンではない人々の行いを見て、神の怒りは彼らにあると思っていたでしょう。ですから、ユダヤ人クリスチャンにも、異邦人クリスチャンにも、そうだそうだと思える事を最初に語っているのです。
そこから2章に入ります。ここまで「そうだそうだ」と思っていた教会の人たちは、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも、みなが驚いたことでしょう。「あなたに弁解の余地はありません」「あなたが同じ事を行っているからです」と言われたからです。あのような神の怒りが下っても当然だと思う事と、私たちの教会は同じなのかとびっくりしたのではないでしょうか。罪は人を傲慢にしていきます。罪は自分の状態を本来よりも高いものに見せるのです。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」と神様の前ですら平気で言うような傲慢さを与えます。そして自分は神のさばきとは無縁だと思うのです。福音を理解するには、まずすべての人が(あの人たちだけでなく自分も)神のさばきの前に窮地に立たされていると知る必要があります。
かつて神の民イスラエルは2通りの方法で、神である主が生きておられることを証しました。ひとつは喜ばしい方法でした。アブラハムが主を信じたことにより、この小さな一家族が、主に導かれて、星の数のように多くなり、ひとつの偉大な国になったという証です。もうひとつは悲しい方法でした。神の祝福によって与えられた国が、背きの罪のためにバビロンに滅ぼされたという証です。神である主が生きておられなければ、イスラエルの国が生まれることはなかったでしょう。神である主が生きておらなければ、民がヤハウェを捨てたとしても何も起こらなかったでしょう。彼らは祝福を受けることで主を証しし、のろいを受けることで主を証ししました。ユダヤ人のさばきと異邦人のさばきは基準が違うだろうと、ユダヤ人クリスチャンたちは考えていたようです。でも聖書をもう一度、思い返してみると、そうではありませんでした。「神にえこひいきはない」これが聖書を一貫している真実です。私たちは神の民だから、どんなことがあっても神の怒りを受けることがないと高をくくるなら、神様の豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじることになってしまいます。
ユダヤ人クリスチャンの考えは、放蕩息子の兄のようです。放蕩息子のたとえはルカ15章に出てきました。ある人に二人の息子がいました。弟息子は父の死後に受け取るはずの相続財産を先にくれと言って、受け取り、家を出て、遠い国で湯水のように使ってしまいました。弟息子は財産を使い切り、食べ物にも困って、我に返り、父の家に帰ってきました。父は弟息子を大喜びで歓迎し、最上の振る舞いをしました。ところが兄息子はそれを見て、怒ってしまったのです。「私は父とずっと一緒にいた。弟は父から離れていた。私は弟よりも大事にされるべきだ。」しかし、父にとっては兄息子も弟息子も等しく愛する子でした。どちらが優れているとか、どちらかだけが可愛いとか、そのようなことはないのです。
神である主はいつくみ深いお方です。「神のいつくしみ深さが悔い改めに導くこと」について考えてみましょう。パウロがローマ教会に伝えたいことは「君たちは神にさばかれる。もう終わりだ。滅びるしかないぞ」ということではありません。そうであったら脅しでしかないでしょう。でもそうではありません。1:16で先に言っておいたように、「ローマ教会には救いがある」と伝えたいのです。確かに神のさばきは他人事ではないけれども、福音があると言いたいのです。この2:1のショッキングな言葉の次の行き先は3:9です。「ユダヤ人もギリシア人もすべての人が罪の下にある。異邦人も神の民も、すべての人が罪の下にある。しかし、神の義が示されました」と語る部分に繋がっていきます。神の義に示されている、神のいつくしみ深さは私たちを悔い改め(方向転換)に導きます。生まれつき頑なな人間は、神のいつくしみ深さに触れなければ、自らを根本的に変えることはできません。自分を変えないで済むように全力を尽くします。しかし、神の義、そこに示されている愛は私たちの頑なさを溶かし、方向転換させてくれるのです。
平和を保つ方法は何でしょうか。ある人は軍事力だと言い、ある人は法律だと言い、ある人は教育だ、社会保障だ、対話だ、異文化交流だなどと言っています。しかし、私たちは主イエス様がくださる平和が、世が与える平和とは違うことを知っています。それは福音による平和です。
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