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2026.01.04 新年礼拝「教会に宛てて書かれた手紙」ローマ人への手紙15:1-6

 


今年はもっと聖書を読んで御言葉にふれる一年にしたいです。また次週からの教会についての教えもしっかり学んでいきたいと思います。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今年最初の聖日を迎えました。この年も、復活の主イエス様の恵みがすべての人々と共にありますようにお祈りします。

聖日に集まり、6日間出かけていく教会のリズムを再確認し、今年も主の後をついて歩んでまいりましょう。詩篇23篇には《主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。》とありますが、主の牧場は遊牧民の牧場です。現代の牧場のように囲われて、固定されている施設ではありません。水や草がある場所に、羊飼いが導き、草をある程度食べたら、また次の場所に移動していく牧場です。ですから、いつも羊飼いイエス様から目を離さないで、ついて行きましょう。安全な場所があるのではなく、羊飼いがおられる場所が安全なのです。実際、この世界には安全な場所はありません。私たちは世においては寄留者だからです。天の故郷につくまで、羊飼いの側についていくことが安全なことです。

そのために聖書の御言葉を大切にしましょう。聖霊は私たちにイエス様の教えと言葉を思い出させてくださいます(ヨハネ14:26)。すなわち、聖霊の声を聞くとは、聖書の御言葉を思い出すことです。聖書に親しむことなしに、神の言葉を聞くことができるという誤った教えに耳をかしてはいけません。主の声を聞き分けられるのは、日頃から聖書に親しんで、よく読み、学び、それを黙想している人たちです。

聖書をお開きください。ローマ人への手紙15:1-6(321ページ)【聖書朗読】

2026年の王寺教会の年間聖句はローマ人への手紙15:6が与えられました。字数の関係で、途中を省略しましたが、聖書の通りに読みますと《そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。》です。

王寺教会では、これまで2年半かけて、旧約聖書から学んできました。神の物語を生きる私たちは、神である主とどのような関係をもって人生を歩むのか、他の人たちとどのような関係をもって人生を歩むのかという大きな2つのテーマに目を向けてきました。もうひとつ、私たち自身とどのような関係をもって歩むのかという3つ目のテーマが残っていますが、ここで一旦休止をして、新約聖書から学ぶように導かれています。

新約聖書のうち、福音書については入門礼拝で「主イエス様と出会う」ことをテーマに読み進めていますが、それは継続しつつ、今年から新たに、ローマ人への手紙以降の「教会に語られたメッセージ」に心を留めていきたいと思います。

おそらくみなさまにとっては、ローマ人への手紙以降の部分は聖書の中でも比較的よく読んできた箇所ではないかと思います。しかしながら、最初からこのテーマに入るのには準備が足りないと感じていました。主に3つの準備が必要と思いました。ひとつ目は聖書全体の神の物語の流れを把握すること。ふたつ目は旧約聖書の神の民をまず理解すること。教会は神の民という枝に接ぎ木されたのですから、元の枝を知る必要があります。3つ目は新約聖書を群れとして受け取る視点を得ること。私たちはどうしても、聖書を切り取って、個人的な文脈だけで理解する癖があります。主との関係、人との関係という視点がとても大切です。 これまでの主の導きによって、それらの3つの準備を整えることができたと思います。いよいよ教会について語れる時が来ました。

教会は、神の物語における神の宣教です。主はアブラムと契約を結ばれました。《あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。…あなたは祝福となりなさい。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創12:1-3)》こうして神の民が選ばれました。キリストを受け入れなかった人たちは折られてしまいましたが、イエス様を信じる教会が接ぎ木されました。神の民からの継続性があります。イエス様は弟子たちに言われました。《あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。(マタイ5:14)》この時、律法と神の民をよく知っていたならば、イエス様が弟子たちの群れを「町」に例えられたことに注意が向くはずです。教会は「山の上にある町」なのです。町であるからには、一人では成り立ちません。主との関係、他の人との関係が不可欠です。律法はかつて奴隷となり社会を壊されてしまった人たちに、愛を土台とした社会を建てるようにと与えられました。イエス様によると、その律法の最も大切な戒めは、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛すること」でした。かつて主が神の民に期待されていたことと、いま教会に期待しておられることは変わりありません。そこには変わることのない主の一貫性があります。

しかし、それと同時に、(こちらは同じようであってほしくなかったですが)かつて神の民が問題だらけだったように、教会もまた問題だらけでありました。新約聖書にある手紙は、教会に問題があったから書かれました。教会の問題に対処するために書き送られました。例えば、ローマ教会には、教会がユダヤ人クリスチャン側と異邦人クリスチャン側に真っ二つに分かれて、互いにさばき合っているという問題がありました。(今日はあまり細かい話に入ることはしません。次週以降で少しづつ分けて、詳しく読んでいきたいと思います。)今日の箇所にも、《益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。》とか、《互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。》などと書いてありますように、教会の分裂に対処するために、語られたメッセージがあります。この後に続く、コリント教会もガラテヤ教会も、その他の教会もそれぞれにそれぞれの問題を抱えていました。

そういうわけですから、今年は、教会に宛てて書かれた手紙を、「教会に宛てて書かれた手紙として」読んでいきたいと思います。みなさんが聞き慣れているのは、おそらく教義的な正しい教えを学ぶという読み方かと思います。例えば、ローマ人への手紙であれば、1:17《義人は信仰によって生きる》などを中心聖句として教えられてきたと思います。すでに学んだことは大切なことですので、しっかり心に留めておいてください。今年は別の切り口で御言葉に光を当てていきますが、これまでに学んだことが無効になったりはしませんので、信仰義認や原罪、聖化などの教えは固く握って、離さないでいましょう。そのようにしながら、別の角度として、教会にどんな問題があったのか、その問題に対処するためにどうするように言われたのかに注目して読んでいきましょう。本来これらの手紙は、教会に書かれたのです。そしてこれが今日まで聖書として残されているのは、今日の教会も、また私たち王寺教会も、同じような問題を抱えているからであり、これらの手紙に書かれている問題への対処は、今日においても通用するからです。ですから、教会に宛てて書かれた手紙を、教会に宛てて書かれた手紙として読んでいきたいと思います。

15:6はローマ教会へ宛てられた手紙のクライマックスです。パウロが愛をもって書き送った手紙の目的はここにありました。《そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。》パウロはローマ教会の現状を嘆きながらも、希望を持ち続けていました。聖書を読んで分かることは何でしょうか。私たちの主が忍耐と励ましの神であるということです。人間に問題があるから、もう終わりだ、もう駄目だということであれば、聖書は創世記3章で終わったでしょう。しかし、事実、そこから神の忍耐が続きました。「もう終わりだ、もう駄目だ」と判定するのは、神様の領域です。ところが、神様はそう思っておられないのに、人間の側が「もう終わりだ、もう駄目だ」と思っていることがあるのです。そのような人間を、主は幾度となく励ましてこられました。

思い返してみれば、パウロ自身も神である主の忍耐と励ましを経験していました。そもそも彼は教会を建てあげる人間ではなかったのです。教会を壊そうとしていた人々のリーダーでした。彼は教会を迫害していた過去を忘れることはありませんでした。彼は《私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。(Iコリ15:9)》と言い、また《罪人のかしら(Iテモテ1:15)》と自認していました。彼はパリサイ人だったのですから、盗んだり、偽りの証言をしたり、姦淫を犯したりしていないことを誇りにしていたでしょう。ところが「私は誰よりも熱心に神に仕えている」と思って教会を迫害していた時、《「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒9:4)》と語る主の声を聞いたのです。彼はどんなに驚き、「私はもう終わりだ、もう駄目だ」と思ったことでしょうか。ところが、主は彼を滅ぼすためにではなく、彼を励まし、立ち上がらせて、選びの器として用いるために現れてくださったのでした。そうだからこそ、忍耐と励ましの神に確信をもって、希望を描いて、祈ることができたのです。

パウロがローマ教会のあるべき姿として6節のように祈っていたのは、単なる彼自身の願いではありません。神の宣教として、神の民を選ばれ、また変わらない思いをもって教会を選ばれた主の期待に沿った祈りです。そうでなければ、ローマ人への手紙はパウロの哲学に過ぎないということになります。世の多くの人はそのように考えていて、旧約聖書やイエス様の教えとは別のパウロの教えだと考えています。キリスト教の教義はパウロが作ったんだと誤解しています。しかし、旧約聖書をよく学んできた私たちには、そんなわけないと分かるはずです。エデンの園を追われ、バベルの塔の崩壊によって散り散りになった人々は、主に立ち返り、すべての国々が主をほめ歌う。これは旧約時代から主ご自身が願ってこられた将来でした。イザヤ書にこう書いてあります。《地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。(イザヤ45:22)》

そのような救いの良い知らせを伝えるために、私たち教会はイエス様によって呼び出されたのです。私たちがまずユダヤ人もギリシア人も隔てなく、心を一つにし、声を合わせて神をほめたたえるように召されています。私たちにまず神の業が現れ、そのようにして主を証しするのです。主は熱心をもって、それを成し遂げてくださいます。

今年の標語は「          」です。御心に叶う願いを共に祈りつつ、この年も主に応答していきましょう。

お祈りします《かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。》

天の父なる神様。つるぎを鋤(すき)に、槍を鎌に打ち直してくださる平和の神、私たちの主よ。

あなたの愛と情熱のうちに、私たちは見捨てられることがありませんでした。そうして救われて、あなたの家族に迎え入れられました。しかし、私たちはあなたの掟を知らないで、生まれたままのようにして歩んでいます。私たちをあわれんでください。私たち教会の使命を御言葉から教えてください。

どうか、永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、私たちを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。



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