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2026.01.11主日礼拝「神に愛され、召された」ローマ人への手紙1:1-7

 



私たちひとりひとりが神である主イエス様に愛され召されてこの教会に集っていることを忘れずに、この一年の教会生活を歩んでいきたいです。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師


おはようございます。1週間それぞれに守られて、主の日に集まることができ感謝です。先週は祈祷会も休みが明けて、いよいよ日常が動き出した週でありました。

私たちの主は、私たちが散らばっていく先々に伴って、御業をなされるお方です。6日間、色んなことがありますが、時に、出ていく先々で打ちのめされてしまうこともあります。しかし、その度に、主の恵みが十分であることを学んでいます。私たちは日々、十字架を見上げているのです。人からの評価、聖書を通して分かる神からの評価、そして私たち自身が自分を測る評価。誤解され外れている評価もありますが、正しく的確に私たちが駄目であることを突き刺してくる評価があります。人間はそれに耐えられないので、痛み止めである慰めをかき集めようとするのです。誰か「あなたは駄目じゃないよ」と言っておくれ。この世界は痛み止めによって回っていると言っても言い過ぎではないかもしれません。しかし、「あなたは駄目じゃないよ」という慰めは、一時的な痛み止めであり、切れる前に飲み続けなければならない麻薬のようなものです。クリスチャンとなってからも、時に、十字架を忘れてしまって、兄弟姉妹から痛み止めをもらえないかと期待することがあり得るのです。ですから、思い出してください。私たちは知っているのです。「確かに駄目なんだ。だから十字架があるのだ」と。イエス様の十字架は、私たちが駄目な人間であったことの結果なのです。それは死に値することです。しかし、その結果である死は、十字架の上でもうすでに支払われました。駄目な人間がいると分かると、棍棒を持った人たちが群がってきて叩いてやろうという世界に私たちは生きています。主イエス様は私たちの前に立って、彼らに言うのです。「その代償はすでに支払っただろう。この人は私の所有だ。手出しすることは許されない」と。裁きによって、主にある人々が守られる日が、まもなく再臨とともに来ようとしています。十字架を見上げて、主を待ち望みましょう。

聖書をお開きください。ローマ人への手紙1:1-7(297ページ)【聖書朗読】

今年から新約聖書のローマ人への手紙以降の部分を共に読み、主のことばに聞き従っていきましょう。教会に宛てて書かれた手紙を、教会に宛てて書かれた手紙として読んで行きたいと思います。

ローマ人への手紙は、ローマ教会に宛てて書かれた手紙です。ローマ教会はどのような教会だったのでしょうか。ローマ教会はまずペンテコステの日に、エルサレムに巡礼に行っていたユダヤ人から始まったのではないかと考えられています。ペンテコステの日に、12弟子たちの説教によって、イエス様を信じたユダヤ人たちがいました。彼らがローマに帰っていって、ローマ教会と呼ばれるようになっていきました。当時は教会堂というものは存在しません。大きな家をもっている人たちが、部屋を開放して日曜日に集まり、御言葉と讃美と祈りの時間、そして愛餐と聖餐の時間をもっていました。そのような家が点在していて、お互いに主にある兄弟姉妹として歩んでいたのです。

ところが、西暦49年に事件が起こりました。使徒の働き18章にはこのような箇所があります。《その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。(使徒18:1-2)》すべてのユダヤ人がローマから退去させられていたのです。ローマ教会は、最初期のユダヤ人クリスチャンを失ってしまいました。しかし、主の働きは広がり続け、ユダヤ人ではない異邦人クリスチャンが教会に加えられていきました。

何年も経って、皇帝の命令が変わりましたので、ユダヤ人クリスチャンたちがローマに帰ってきました。さあ、良かった良かった。めでたしとなったでしょうか。ローマ教会が始まったときからのユダヤ人クリスチャンたちがいます。懐かしい人たちが帰ってきて、追放の間も守られたと言って、再会を感謝しています。一方、ユダヤ人たちがローマから追放された後に、イエス様を信じた異邦人クリスチャンたちがいます。皇帝の迫害もありました。でも主が働きを前進させてくださって、今日まで兄弟姉妹と共にやってきました。町にユダヤ人が戻ってきた時、ユダヤ人クリスチャンたちもやってきました。どうやら彼らはお互いを知っているようです。ユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人クリスチャンたちを見ました。「誰?」 異邦人クリスチャンたちはユダヤ人クリスチャンたちを見ました。「誰?」 昔からの異邦人クリスチャンもいます。どちらの人たちも知っているのですが、この状況にどうしたものかと頭を抱えています。

「ローマ教会のみなさん」_ 「ちょっと待って。ローマ教会って、誰のこと言ってます?」これが当時のローマ教会の状況です。その様子を想像することができると思います。こんなことは、現代の教会でも起こりそうなことですね。みなさんはどう思いますか。

今日の箇所は手紙のあいさつの部分です。手紙は当時高価な手段ですから、なるべく短く書きたいところです。前略で、さっさと本題に入っても良さそうなところ、パウロは丁寧な挨拶文を書きました。これは、この手紙全体の前提となる、意識のすり合わせをしようとしているのです。「ローマ教会とは誰のことを言っていますか」という疑問に、パウロは信徒の構成表を持ち出しませんでした。今日の箇所で注目すべきキーワードは「主イエス・キリスト」です。1節「キリスト・イエス」、4節「主イエス・キリスト」、6節「イエス・キリスト」、7節「主イエス・キリスト」と4回も出てきます。

教会は誰のおかげで建てられたのでしょうか。資金を提供し、汗を流して働いた人たちのおかげで建てられたのでしょうか。いいえ、神である主に買い取られて、恵みによって召されたので、教会が存在するのです。私たちは神に召されてイエス・キリストのものとなったのです。パウロは一度もローマ教会を訪問したことがないのに(1:13)、何をもって、ローマ教会に一言言おうというのでしょうか。「イエス様のれいげんあらたかなありがたい教えとか、ウィットに富んだ心温まる言葉とか、次の一週間に心の支えとなるような力強い格言とか、そういうことを話しといてくれれば良いのに。今まで一緒に居たことがない、パウロ先生?われわれローマ教会に手を突っ込んで、何を語ろうというのだ」そのような声が聞こえてきそうです。しかし、パウロが彼らに手紙を送ったのは、彼がキリスト・イエスのしもべであって、神の福音のために選び出され、使徒として召されたからでした。教会の一番最初から一度も去ることなく責任を持って教会を導いてきた人こそ、教会について訓戒することができるでしょう。それは誰ですか。教会を最初に作った主イエス様です。世の終わりまでいつも教会と共におられるイエス様です。イエス様に召された、イエス様の教えを忠実に守るように教える使徒パウロは、自分の哲学に従って教えたのではありません。復活のイエス様と出会って教えられた通りに、また他の使徒たちからイエス様の教えを聞いて、その通りに人々に教えました。イエス様は《わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。(マタイ16:18)》と言われました。教会はただ主イエス様によって建てられました。イエス様こそ、教会に何かを言う資格のあるお方です。

ローマ教会の人たちの頭を占める思いは、「ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンのどっちがローマ教会と名乗るに相応しいか」ということでした。どっちが正しいか判定して、むこうの人たちに私たちのやり方に合わせて馴染んでくるように教えろとお互いに考えて、互いを拒否し、さばき合っていました。教会には平和がなかったのです。パウロは、どちらがローマ教会を名乗れるか判定したでしょうか。いいえ。クリスチャンたちにこう語りかけました。《ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。(7節)》あなたたちも、反対のグループの人たちも、すべて「神に愛され、召された聖徒」であること思い出させています。その人たちがどんな人か、何をしているか、私が気に入るかどうかを考えるのではなく、自分が神に愛され、召されたように、ひとりひとり、神である主が愛された人であること、主が召してくださった人であることを心に留めましょう。

ローマ教会に愛をもって書き送られた手紙は、今日の教会にも、そのまま語りかけています。聖書の教えは、少し浮き世離れした、天国的な、神秘的で聖なるお話であって、教会という泥臭い、石の裏側みたいな、そんな俗的な話ではない…でしょうか?実に新約聖書のほとんどは、教会に宛てて書かれた手紙です。教会で私たちの頭を悩ませる色々な問題が起こった時、イエス様の教えに聞いてみようとしているでしょうか。まず聖書を開いてみようと考えるでしょうか。それとも世の知恵によって収めようとするでしょうか。教団の条例をみてみよう。教会の規則を出してこよう。総会を開こう。会社のやり方を学ぶために研修にいってみよう。コンサルを頼もう。裁判で白黒つけよう。_

イエス様がおられなければ、教会はありませんでした。2-6節に書かれている福音がなければ、私たちも今日集まっていませんでした。教会はいつも、主イエス様に聞き従うのです。イエス様の教えを悟らせ、思い出させるために書かれた聖書を読んで、御言葉に従うのです。世の法律には、聖俗分離の原則という考えがあります。宗教法人は「聖」と「俗」の二面性をもっていて、世俗的事項は法律で規定されるというものです。それは私たちにとってイエス様からの教えではなく、“カナンの宗教”です。私たちは世に寄留していますので、世の人々がそう考えていることを理解し、合わせてあげることはしますけれども、自分たちの理解の土台とはしません。私たちの土台は主イエス・キリストにあるからです。聖と俗と分けられるものではないのです。もし肉体から魂が分かれたら、それは死んでいます。もちろん、イエス様の国(神の御国)は完全なものですから、不完全な地上の幕屋にはぴったりはまりません。それで私たちは苦悩し、うめいています。神を愛し、隣人を自分自身のように愛する人々の群れになっているはずが、なりきれていないじゃないかという現実を見ています。それでも、この地上の教会は、イエス様が帰ってこられるまでの仮のテントであり、やがてすべてが完全な神の国に住まうことになるのです。私たちの確かな希望です。

挨拶文はこのように締めくくられています。《私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和(平安)があなたがたにありますように。(7節)》(平安と平和はギリシャ語で同じ単語です。)平和を失ってしまったローマ教会は、どのようにして平和を取り戻すのでしょうか。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和が与えられることによってです。本当でしょうか。「ありますように」だから、願っているだけで、実際はそうはならないのでしょうか。もし、どうなのかなと思う気持ちがあれば、本当かどうか確かめるべきです。私たちは、御言葉が真実であることを証しするように召されたのですから。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和を与えてくださることを経験しましょう。

お祈りします《キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。…ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。》

天の父なる神様。暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導くお方。私たちの主よ。

私たちを世の暗闇から救い出し、あなたに仕えるものとして召してくださったことをありがとうございます。いま、私たちはイエス様の教会で、山の上にある町として、兄弟姉妹と共に安息の地を目指して歩んでおります。あなたに愛され、あなたに召されたことによって、教会に加えられましたのに、いろんな経緯から、まるで自分たちのグループが教会を所有しているかのように考え始め、そのようなグループが2つ3つ生まれることで、平和を失ってしまうことがあります。私たちは兄弟姉妹であり、すべては父であるあなたから恵みによって、与えられたものであるのに、それを忘れてしまうのです。

主よ、あわれんでください。私たちは平和に役立つことを求めます。イエス様のことばに、聖書に耳を傾け、信じて歩むことができるように支え、導いてください。あなたの恵みと平和を祈り待ち望みます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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