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2025.05.04主日礼拝 隣人について偽りの証言をしない」出エジプト記23:1-8

 


          

ゴールデンウィークも後半に入りました。
今日は5月らしいとても爽やかな陽気ですね。
「誰が隣人かではなく、私があの人の隣人になる」この言葉を胸に今週も歩んで行こうと思います。(megu)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。復活のイエス様を歓迎し、御名を賛美します。こんなにも多くの方が「主は生きておられ、私を救い、今日も私たちの祈りに答えて御業を成してくださっている」とを証言しています。これは本当に凄いことではないでしょうか。

そのように救われて、新しい人に変えられた私たちですが、内なる人は日々新たにされています(IIコリント4:16)。主は私たちを古い人から新しい人に変えてくださったのみならず、内なる人を日々新たにしてくださっているのです。内なる人が日々新たになるのは、新しい人に変えられたから起こることです。古い人が歩んでいる時には、聖書の理解が鈍くなり、心に覆いがかかっていると聖書は言っています(IIコリント3:15)。パリサイ人たちは、私たちには神の前に何の問題もないと言っていました。聖書は人の罪を指摘するものであるのに、彼らは何も気が付いていなかった、あるいは気付かないようにしていたのです。それゆえにイエス様の贖いを受けることができませんでした(ヨハネ9:41)。しかし、新しい人はありのままの自分を主の前に出すことができます。知恵がなく、失敗を犯し、誘惑に苛まれ、悩み、疑い、主が与えてくださるものに満足しきれず、自己中心で、神のみ前に傲慢であるありのままの姿で、主の恵みを受けに出ていくことができます。主の完全な愛を知っているからです。主はそこに触れてくださり、いやして、ますますキリストの似姿に私たちを変えてくださいます。

しばらくモーセの律法から、主のおきてを学んでいます。私たちは御心を完全に行えていると言って、ありのままの姿を隠してしまうのか、神の基準に遠く及ばないありのままの姿を主の前に出して、日々新たに変えていただくのか、どちらでしょうか。

聖書をお開きください。出エジプト記23:1-8(140ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで隣人について御言葉から学んでいます。夫婦、家族と学んできて、隣人との関係に入りましたが、今日は隣人との関係について最後のトピックになります。

モーセがシナイ山に登って、主とお会いしたとき、主は二枚の石板に十のことばをしるされました(申4:13)。その十のことばは出エジプト記20章に書かれています。その十のことばのひとつで《あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない》と教えられました。この掟について、さらに詳しく述べているのが今日の箇所です。

ここに訴訟という言葉が出てきました。訴訟というと、AさんとBさんの紛争があって、それを法律に基づいて裁き、紛争をやめさせることだとイメージするでしょう。実際私たちの住んでいる世界ではそのようになっています。Aさんの利害と、Bさんの利害があって、どこで線が引かれるか互いに争い合います。どちらがどれだけ勝つかという、秩序の中での争いです。しかし、神の国にはこのような訴訟は全く相応しくありません。神の国は隣人を愛し、隣人と友情を築く共同体です。訴訟によって紛争は終わるかもしれませんが、心の中の憎み合いが終わることはないでしょう。ついに訴訟が終わって、AさんとBさんは友情を築きましたという話を聞いたことがありません。

イエス様がある時、遺産分けの争いを裁いてほしいと言われたことがありました。このような出来事です。《群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:)》神である主ご自身が裁判官や調停人にならないのであれば、他に誰が適任でしょうか。人対人の紛争をただ止めるために行う訴訟は神の国にはないということです。パウロもまたコリント教会に《互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。(コリント6:7)》と教えています。

訴訟という言葉が出てくる箇所は聖書に数えるほどしかありませんが、II歴代誌にヨシャファテ王が訴訟に携わる人を任命した場面が書いてあります。ヨシャファテ王は訴訟に携わる者をレビ人と祭司、氏族のかしらの中から選びました。祭司は、人と主の間で執り成しをする役割の人です。(一般の感覚からすると不思議ですね。訴訟なら法律を詳しく勉強した人が選ばれるべきではないでしょうか。)ヨシャファテ王は任命された者たちに言いました《あなたがたのところに訴訟が持ち込まれた場合にはいつでも、あなたがたは、彼らが【主】に対して責めを負わないように、またあなたがたとあなたがたの兄弟たちの上に御怒りが下ることのないように、彼らに警告しなさい。そのように行えば、あなたがたが責めを負うことはない。(II歴19:10)》私たちが馴染みをもっている訴訟とは、ずいぶん様子が違います。訴訟が起こるたびに、主に対する責めが思い出させられ、その時、民は、主が隣人を愛するように言っておられたこと、隣人と友情を築くように命じられたことを思い出すのです。

偽りのうわさや、悪意ある証言、ねじ曲げた証言、弱い者を特に重んじること、偽りの告訴、正しい人の言い分をゆがめる賄賂は、実際の訴訟で多用されています。Aさんが勝つか、Bさんが勝つかという争いでは、自分が有利になること追求するからです。しかし、主の掟に従う民の生き方は、相手に勝つことではなく、主のみ前にいのちの道を進んでいるのか、のろいの道を進んでいるのか吟味されることを求めます。法律上の勝負より、神である主が何とおっしゃるかが一番大切だからです。どんな理由であっても、たとえその隣人があなたの敵であっても、隣人について偽りのうわさを口にしてはならないし、偽りの証言をしてはなりません。そのようにして隣人を愛することは出来ないのです。

さて、ここまでで隣人について、8つのことを学びました。「隣人を愛する」「隣人と友情を築く」「隣人に貸す」「隣人の所有を尊重する」「隣人を戒める」「隣人と共に主のみこころを示す」「隣人の被害を回復する」「隣人について偽りの証言をしない」の8つです。これらの事柄からどんなことが分かったでしょうか。

家族のテーマに入った時、父の家の兄弟は、夫婦が互いに愛し合うように、愛を礎として結び合わされると教えられました。夫婦が互いに恋い慕い、愛によって結び合わされて共に主の働きをするように、家族も愛によって結び合わされて、共に働くのです。そして、夫婦関係が家族関係に拡大されていく様子は、家族関係から隣人関係に移っていくときにも同様です。法律によって共同体が成り立つのではありません。神である主は人をそのように造られませんでした。隣人と(たとえ相手が敵であっても)愛の関係をもって、主のみ前に共に歩み、そうして近所という共同体が成り立つように造られたのです。

イエス様の時代のユダヤ人たちは、敵と隣人になるという意味がよく理解できなかったようです。よいサマリヤ人の例え話があります。ある律法の専門家は、自分は隣人を愛していると自身があって、イエス様に尋ねました。《私の隣人とはだれですか。(ルカ10:29)》それでイエス様は良いサマリヤ人の例え話を話され、強盗に襲われ死にかけになっている人を見かけたのに通り過ぎた祭司やレビ人と、その人を介抱したサマリヤ人と、《この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。(ルカ10:36)》とお答えになりました。誰が私の隣人(友人)だろうかと多くの人は考えています。あの人は私を不快にさせない。私を楽しくさせてくれる。私を助けてくれる。だからあの人が私の隣人だと考えます。でも、イエス様の教えは違います。誰があの人の隣人になりますかと尋ねられています。「私があの人の隣人になる」これが神の国の価値観です。

もちろん隣人と友情を築くと聞いて、すぐさま聖書から離れて自己流でやってしまっていはいけません。友情を築くんだから、共通の趣味を持つとか、誕生日のお祝いをするとか、情報交換するとか、人を紹介するとか、そういうことをするんだと思ったら、聖書から全然違うところに行ってしまいます。そうしたらダメということはないですけれども、そうしなければ隣人になっていないと考えるなら聖書からズレています。友情を築くとは、ルツとナオミのように人生を共に歩むということでした。「隣人に貸す」「隣人の所有を尊重する」「隣人を戒める」「隣人と共に主のみこころを示す」「隣人の被害を回復する」「隣人について偽りの証言をしない」このようなことを具体的に隣人関係として示されているのですから、慣れ親しんできた文化から倣って自己流でやらないように気をつけましょう。

隣人との関係について主の掟を学んできました。十のことばを教えられ《あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない》と聞いて、「そうか、嘘をついたら神様に怒られるんだ」と理解していたとすれば、まだ主のみ心を知る最初の段階にいるのかもしれません。「僕、赤信号は渡らないの。守らないとパパに怒られるんだ。」と子どもが言うような感じかもしれません。これは嘘をつかないという道徳の話ではないのです。隣人関係が愛によって結び合わされて、みこころが天で行われるように地でも行われるということです。主はご自分の民をエジプトのファラオから救い出し、律法を与えて新しい生き方を教え、乳と蜜の流れる地に所有地を与え、主だけを礼拝できるようにしてくださいました。同じように、私たちも罪の束縛から解放され、復活によって新しい人に変えられ(いのちの御霊の律法を与えられ)、いまや自由となり、恵みによって日々の糧が豊かに備えられて、主にだけ仕えています。こうして主は私たちを聖なる民として召してくださいました。《私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。(エペソ4:13-15)》

主のみこころを知識として知ったなら、主のおことば通りにやってみましょう。私たちの今年の祈りは「あなたのみこころを行うことを教えてください。…あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように」です。聖霊は私たちのコーチです。聖霊が私たちを変えてくださるのですが、言われた通りにやってみるのは私たち側の事柄です。

もし主の御心の通りに何も出来てないことが示されたらどうしましょう。それは幸いなことです。さらにありのままの姿が見えてきたのです。主イエス様を信じる者たちは、すでに神との和解が与えられていて、イエス様の十字架ゆえに赦されているのですから、怒られそうだから隠しとこうではなく、きよめていただくためにありのままの姿で、主の御名を呼び求めることができます。「恐れることはありません」と言われたイエス様のことばをいつも思い出していましょう。

お祈りします《偽りのうわさを口にしてはならない。悪者と組んで、悪意のある証人となってはならない。》

天の父なる神様。その王座が天にあり、その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べるお方。正しく、正義を愛される私たちの主よ。

私たちを探り、私たちの心を知ってください。私たちを調べ、思い煩いを知ってください。私たちのうちに御目にふさわしくない道があるかないかを見て、とこしえの道に導いてください。

私たちのうちにある肉の思いは、いつくしみ深い主を恐ろしい方であると考え、あなたの厳しさから自分を守ろうとします。自分が守られるために、自分の味方が有利になるように、偽りの証言さえ用いて戦おうとします。イエス様、ご自分を憎んで殺そうとしてやってきた人たちに反撃しようとせず、むしろ彼らの罪を背負って十字架にかかられ、敵を愛された主よ。今日もまた、私たちはありのままの姿で恵みの座に進み出ます。私たちをきよめて、あなたの似姿に作り変えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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