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2025.5.11 主日礼拝 「信仰の友と主に依り頼む」ルツ記2:11-12,19-20,4:14-15

 




今日は母の日でした。
エステル会のみなさまによる讃美の証し、ありがとうございました。互いに信仰を励ましあうために主から与えられた場所があることに感謝します。ナオミとルツのように共に主に依り頼んでいきたいです。(megu)

礼拝説教 中尾敬一
おはようございます。今日はエステル会のみなさまが讃美をしてくださいました。罪を赦され神の子とされた大いなる喜びがあると証ししてくださいました。主の御名をあがめます。様々な事情で会堂に集まれないメンバーもおられますが、YouTubeのむこうで、共に心をあわせて信仰を告白しておられることでしょう。

私たちは罪を赦されて義と認められ、《あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(ルカ5:48)》と言われた主イエス様の招きに応じて、祈り求めたとき、常に喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する全き愛をいただきました。救われて、神のきよさに与りました。この朝、もう一度、主が与えてくださった恵みを思い出し、感謝しましょう。

また、この讃美の証しの機会は毎年与えられているのですが、聖めの経験を毎年更新させていただきたいと思います。キリスト者の完全な愛は、失われることがあり、人生の中で一度ならずもそれを失うことが非常に一般的であるとジョン・ウェスレーが説明していたことを、思い出しましょう(キリスト者の完全25章Q30-31)。最近、巷で自動車の危険運転が頻繁にニュースに取り上げられています。例えば、道路を逆走した人がいたとして、車から降りてきて、「私は運転免許をもっている」と言いながら50年前に取得した更新されていない免許証を見せられたら、どんな気持ちになるでしょうか。聖めの証にも似たことがあると思います。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛するように変えられ、愛に反するものが心から取り除かれて、思いと言葉と行動が純粋な愛によって支配されるようになりましたと証したとしても、よく聞いてみたら50年前の話だったとしたら、証を聞いた人は更新されていない50年前の運転免許証を見せられたような気になるのではないでしょうか。もし私たちの信仰生活が逆走運転をしていたとすれば、なおさら人々は頭を傾げるでしょう。私たちの人生にはライフステージがあって、環境が変わって大きなストレスが加わったり、逆に期待が長引き何も起こっていないような日々が続いたりすると、古い生き方に戻ってしまうことがあります。その度に聖めの恵みを確認しなければならないでしょう。また挫折することはよくあるのです。頓挫したことを隠してしまうことは、イエス様が喜ばれることはありませんし、自分の益にもならず、証にもなりません。

「なんだか世の人々が歩む生き方のほうが良かったような気がして、完全な愛をひととき失ってしまいました。でも、そこに平安もなく、満足もなく、想像していたような良さは何もなかった。そんな時に、主のことばを思い出し、恵みを祈り求めました。神様の愛が私の思いと行動を支配することをもう一度経験しました。」このような証が、数ヶ月前、2年前、3年前の話だったとしたら、誠実な証だと思います。

例会は私たちが互いに信仰を励まし合い、信仰を吟味するための場です。主から与えられている恵みの機会に感謝し、共に主を見上げて歩みつづけましょう。

聖書をお開きください。ルツ記2:11-12,19-20,4:14-15(473ページ)【聖書朗読】

今朝は特にエステル会のみなさまに合わせた聖書の箇所を開かせていただくことを考え、祈りつつ、ルツ記のメッセージに導かれました。ルツ記は、ナオミとルツとボアズ、そして神である主が彼らに何をしてくださったかを伝えている話です。特に最近はナオミとルツの友情について焦点を当ててきました。今日は神の家族である兄弟姉妹との友情についてお話いたします。

ナオミは、ベツレヘム(エフラテ)出身のエリメレクの妻で、二人の息子がいました。ナオミと夫は、主からの相続地であったユダを離れて、モアブに移り住みました。ところが夫は先立ってしまいました。その後、息子たちはモアブ人と結婚して、約10年間そこに住みましたが。二人の息子たちも子どもを残すことなく亡くなってしまいました。ナオミは夫と二人の息子に先立たれて、後に残されてしまったのです。この時のナオミの心はどのような状況だったでしょうか。これから一人で生きていかなければならないのです。

2人の嫁たちも、ナオミと同じ状況でした。子どもなしに夫に先立たれてしまいました。現代のように女性が一人で仕事を探して生計を立てられるような世界ではありません。唯一の思いつく生存方法は新しい夫を探すことです。しかし、ナオミは外国人でモアブにゆかりはなく、彼女たちのために何ができるでしょうか。何もしてあげることができません。

この時点で、ナオミと二人の嫁の姑嫁関係は実質的に意味がなくなっていました。家族はゴエール(贖い主)を担う男性がいなければ成り立ちません。そこいたのは、これから先、一人でどうやって生きていけばよいのか途方に暮れている3人の女性たちでした。

二人の嫁の名前はオルパとルツです。オルパはナオミの助言を聞き入れて、モアブで新しい夫を探すことにしました。しかし、ルツはナオミと一緒に行こうと固く決心しました。1:15に、ナオミがモアブの神々を持ち出す場面があります。ナオミはルツに言いました。《「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」》モアブ人が信じている神々が助けてくれるんじゃないかという提案です。ルツは答えました。《あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、【ヤハウェ】が幾重にも私を罰してくださるように。》ルツはつまり、モアブ人が信じている神々に頼るのではなく、ヤハウェに頼りますと言っているのです。

ナオミの信仰は、苦難に直面してふらついていますね。主ヤハウェは本当に頼りになるのか確信がない様子です。モアブの神々も、イスラエルのヤハウェも、同じような感じではないか。あっちに頼っても、こっちに頼っても、なるようにしかならないだろうというような、ずいぶん危ういフラフラした様子です。しかし、なんとモアブ人であったルツのほうが、主ヤハウェに確信をもっていました。この先どうなるか分からない絶望的な状況で、「私はあなたと一緒にアブラハム、イサク、ヤコブの神ヤハウェに依り頼みたい」と表明したのです。ナオミの心情はここに記されていませんが、主を信じる思いに刺激を受けたことでしょう。ルツからナオミへの信仰の励ましが見られます。

さて、ナオミとルツはベツレヘム周辺の畑に向かいました。ナオミもルツもやもめでした。神の民のうちにやもめがいるなら、人々はやもめに何をしなければならないと言われていたでしょうか。主が定められた掟があったはずです。神の民の家族はやもめをもてなすように言われていました。もてなすとは、お客様がきたからお茶菓子を出しましょうというような軽いことではありません。家族のように受け入れて、必要を与えましょうということです。その一つは、畑に落ち穂を残しておくことです。畑から収穫を得る時に、地面に落ちてしまう麦の束やぶどうの実は拾ってはならず、貧しい人がそれを自由に拾って食べられるようにしなければならないと教えられていました(レビ19:9-10)。それで、ナオミとルツは主のあわれみに依り頼んでみようと思ったのでした。

しかし、主の掟があるからといって、民がみな喜んでみこころを行っていたのではありませんでした。主の掟は法律にするには足りないことが多くあります。落ち穂を残さなくても罰則があったわけではありません。罰則がなければ、あるいは罰則が軽いならその分を支払って自由にやってもいいじゃないと考えるのが人間の悪(神様に対する背きの心)です。しかもあの悪名高い士師記の時代でした。後の箇所でボアズはルツに「ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。…私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました」と言っています。他の畑に行けば、邪魔されて落穂拾いできないのだろうと感じさせます。人々は貧しい人がやってきて落ち穂を拾うのを快く思っていなかったし、時には泥棒のような目で見ることもあったのでしょう。そんな世界です。

ナオミはルツが落ち穂を十分に集めて帰ってきたのを見て、とても驚きました。彼女はツルに励まされて、主が用意してくださった恵みを求めてみようとは思ったものの、実はそんなに上手くいくとは信じきれていなかったのだと思います。しかし、主は真実なお方でした。さらにナオミは、想像も期待もしていなかったことが起こっていることに気が付きました。その落穂拾いを快くさせてくれた人はボアズだったのです。彼は買い戻しの権利を持つ人、すなわち彼女たちのゴエール(贖い主)となれる人だったからです。ボアズの家に買い戻されれば、これからの人生はボアズによって贖われて、日々の糧はもちろん、住むところ、着るものが与えられ、敵からも守られるのです。この先、野垂れ死ぬしかないのではないかと思っていたのに、救いが見えたのでした。

ボアズもまたルツの信仰に驚いたひとりでした。彼女が異邦人であるにもかかわらず、主ヤハウェに依り頼み、姑を支え、主が備えられた落穂拾いに人生をかけていたからです。さらに彼女たちの買い戻しの権利が自分にあることが後で分かりました。彼は何を思ったでしょうか。神である救い主が彼女たちを決して見捨てないで救おうとしておられると分かりました。主ヤハウェの真実さに圧倒されたのです。

ナオミとルツは、ついにボアズに買い戻されました。それを見ていた周りの人たちは、主の御名をほめたたえました。《「【ヤハウェ】がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」》

すべてはルツの信仰の励ましから始まりました。ナオミはルツの信仰にほとんど引っ張られるような形で、ほとんど消えかかっている信仰をもって、ヤハウェに依り頼んでみようと思いました。ボアズは今どき、これほどの信仰をもって、主の恵みに救いを求めようとする人がいることに驚き、また主がその信仰に答えて、大いなる事をしておられることに、とても驚きました。主はその只中におられて、二人のやもめの命を救われました。

教会には兄弟姉妹がいます。神の家族の兄弟姉妹との関わりはどんなものでしょうか。なぜ主イエス様は私たち一人ひとりを救われただけでなく、教会として集められたのでしょうか。ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。《ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。(ヘブル10:25)》私たちは互いに信仰を励まし合うために集められているのです。それが兄弟姉妹の友情です。

私たちの人生にはライフイベントがあり、様々な人生の季節があります。ある時には、ナオミのように頼りにしていた人と別れることになり、孤独になって、この先どうやって生きていけばよいのか途方に暮れてしまうことも経験するかもしれません。そのようなとき、私たちには教会の友情があります。兄弟姉妹の友情には、気が合うとか、心が通じ合っているとか、趣味が似ているとか、お話して楽しいとか、そういう友情とは別の、大切なつながりがあります。「こんな時こそ主に依り頼みましょうよ」と励ましてもらえる友情です。自分の信仰がもうヘタってしまって、あっちの神もこっちの神もほとんど同じで、頼ってもどうにもならないんじゃないと思うような時に、「空の鳥を養われる主に助けを求めよう」と言ってもらえるなら、まあやってみるかとも思えるではないですか。主はそのような信仰に答えて、まさかと驚く私たちに大いなる業を成してくださいます。

お祈りします《ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。》

天の父なる神様。あなたは苦しみのときの砦。御名を知る者はあなたに拠り頼みます。あなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。

私たちの人生には様々な季節があります。その移り変わりは、私たちには想像がつかないことです。なんとかなるだろうと楽観的に思っていても、いざ次のライフステージに移ると、私たちの不確かな心は揺れ動くのです。

しかし、あなたは私たちの心が水に揺らぐ葦のようであることを知っておられ、信仰がなくならないように祈ってくださるお方です。そして私たちに教会の交わりをお与えになりました。互いに励ましあって、あなたに依り頼むために、私たちは集められました。たとえ私の信仰が弱っても、兄弟姉妹に励まされ、何とかあなたを信じてみるなら、あなたは大いなる贖いを成し遂げてくださいます。周りの人たちはあなたの真実さに驚き、見ていた人たちもあなたの御名を讃美するでしょう。

エステル会のお一人ひとりに日々主の恵みがあり、例会の交わりが御心に従って祝福されますように。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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