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2025.05.18 主日礼拝「主人のために働くしもべ」創世記24:1-9

 



主に仕えるように人に仕える。神様に与えられた場所で愛と信頼と平安の関係を築いていきたいです。主人としもべの関係について、これから一つずつ中尾先生のもとで学んでいけることが楽しみです。(megu)



礼拝説教 中尾敬一

おはようございます。昨日17日はイムマヌエル綜合伝道団の神学校である聖宣神学院(BTC)の76回目の創立記念日でした。数年前のBTC創立記念礼拝で、「今年は神学院の入学者がいませんでした。そのような時にも祈って、主に期待していましょう」と話したことを覚えています。それから数名ずつ入学者が与えられはじめ、今年は4名の入学者が、それも委託生ではなく、私たちの群れから与えられました。

イエス様の弟子たちを思い出した時、彼らはみなイエス様から声をかけられました。ペテロは、イエス様に「わたしについて来なさい」と言われて、すぐに網を置いて従いました(マタイ4:19-20)。取税人マタイも、取税所に座っていた時に、イエス様から「わたしについて来なさい」と言われて、すぐに立ち上がって従いました(マタイ9:9)。ピリポも、イエス様から「わたしに従って来なさい」と言われました(ヨハネ1:43)。そのように、現代においても、牧師や宣教師として召される人たちは、口を揃えて、主が声をかけて、主の後をついてくるように言われたと証しています。

そういうわけですから、主のご計画によって直接献身者が多く起こされる時もあれば、全く動きがないように見える時もあります。私たちはこの数年の出来事を心に留めながら、物事の背後に働いていおられる主の御業をいつも考える者たちとさせていただきたいと思います。私たちの群れは、数年前に新学院入学者ゼロという現実を目にしながら、学院の施設を魅力的に変えようとしたのでもなく、カリキュラムを宣伝しようとしたのでもなく、有名な講師を迎えようとしたのでもなく、祈ることにしました。主の御業を待ち望むことにしました。振り返ってみれば、これは御心にかなう反応であったのはないかと思います。

聖宣神学院の働きを主が始めてくださり、76年間、祝福し、用い続けてくださったことを共に感謝いたしましょう。また引き続き、主に期待して祈っていきましょう。

聖書をお開きください。創世記24:1-9(36ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで、夫婦、家族、ご近所(隣人)と順に話してきました。今日からは主人と奴隷の関係について、御言葉から教えられていきたいと思います。

「奴隷」という言葉を説教で聞いたり、聖書を読んでいて見かけたりすると、ほとんどの方がショックを受けるのではないでしょうか。時には気分が悪くなってしまうことすらあるかもしれません。しかし、聖書に書いてありますし、主の掟には神の民の中にいる奴隷について、御心が示されていますので、無視するわけにはいきません。一体、これは何について語られているのでしょうか。_ 結論から言いますと、現代においては、職場の人間関係についての教えにつながっています。夫婦関係、家族関係、隣人関係があるように、私たちの人生には職場の人間関係があり、聖書はそのことについてちゃんと言及しているのです。

さて、奴隷という言葉に戻ります。例えば出エジプト記21章には、奴隷に関する主の掟が書いてあります。男奴隷、女奴隷という言葉が出てきます。先ほど朗読しました、創世記の箇所には、奴隷は出てきませんが、アブラハムの全財産を管理しているしもべが出てきました。それから何百年もたった後ですが、イスラエルの王様には家来がいました。例えば、ダビデ王の家来ヨアブなどです。この旧約聖書に出てくる、奴隷・しもべ・家来ですが、実は翻訳する前のヘブル語は同じ言葉(עֶבֶד/eh'-bed エベッド : H5650)なのです。みなさん、男奴隷と王の家来を想像してみてください。その人たちを一つの同じグループとして考えることはできるでしょうか。私たちには男奴隷を家来と言う感覚はないし、家来を奴隷と言う感覚もないと思います。ですから、日本語に翻訳する時に同じエベッドを別の言葉で訳しているのです。しかし、旧約聖書ではそれらは同じ言葉です。主人と奴隷の関係について言われていることは、すなわち主人としもべの関係も同様であるし、王様と家来の関係も同様だということです。

奴隷とは、人権を認められず、暴力で支配され、一生逃げることができない人たちというイメージがあります。そのような世界では奴隷に対する言葉は、主人ではなく、所有者となります。奴隷は人ではなく家畜と同じ所有物だからです。しかし旧約聖書で言われているイスラエルの奴隷はそうではありませんでした。私たちが想像する奴隷とはだいぶ違います。むしろ時には労働者とか、従業員と言っても意味が遠くないような立場でありました。(もちろん現代のような自由市場ではありませんが。)

この主人としもべの関係は、いったいどこから始まったのでしょうか。それはエデンの園にありました。神である主は人をお造りになり、《「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創1:28)》と仰せられました。また、エデンの園を《を耕させ、また守らせ(創2:15)》ました。このように、人は神である主のために働く(主に仕える)ようになったのです。その後、アダムには助け手としてエバが造られ、彼らは共に働くようになります。しかし、エバはアダムのために働いたのではなく、アダムはエバのために働いたのではありませんでした。人同士の間には、主人としもべの関係はなかったのです。それはもっぱら神様と人との関係でした。

ところが、人同士の関係に「支配」が入ってきました。それはアダムとエバが罪をおかし、のろいを受けた時でした。《あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。(創3:16)》この時から、人間関係の中に主従関係が起こるようになりました。彼らは神である主との関係を失ってしまいましたから、主のために働きたいと思う心はどこへ向かったら良いのでしょうか。その後から、人間同士の中で主従関係が始まってしまいました。主人と奴隷がいなければ、人はバベルの塔を建設することはなかっただろうと思います。

そもそも存在すべきではない主人と奴隷の関係ですが、それはアブラハムの家にも存在していました。それが許されていたのは神様の譲歩によります。しかし、アブラハムとしもべとの関係は、エジプトのファラオと苦役を課せられたイスラエル人奴隷の関係とは、かなり違っていました。アブラハムの全財産を管理していた最年長のしもべとは、ダマスコのエリエゼルではないかと考えられます。アブラハムはイサクが与えられる前、自分の子どもが生まれそうもないので、家のしもべエリエゼルが跡取りになるだろうと思っていました(創15:2-3)。アブラハムの事業を継ぐ人ではなく、彼の家の跡取りです。それほどまでに信頼関係がありました。アブラハムはしもべに《あなたの手を私のももの下に入れてくれ》と言いました。とても厳粛な約束の儀式です。この箇所の他には、ヤコブが自分の子ヨセフに同じ儀式をするように言っています(創47:29)。自分の子と交わすような約束をしもべと結びました。私たちが想像するような奴隷であれば、約束など関係なく命令すれば良いでしょう。また一人で出かけることがあるでしょうか。奴隷は逃げてしまうかもしれません。でも、アブラハムとしもべの関係は、そのような関係ではありませんでした。

アブラハムはイサクの将来を思い、息子の妻を迎えることを考えました。アブラハム自身、東の国からやってきて、カナンでよそ者として大変苦労したわけです。カナンの有力者の家から嫁を迎えたほうが、世の中的には上手くやっていけるのではないでしょうか。アブラハムにもそのような考えがよぎったかもしれません。しかし、主に依り頼む信仰を、息子にも継承しようと思いました。それでカナン人の中から息子の妻を迎えないようにとしもべに言ったのです。しもべはアブラハムの信仰をよく理解していました。そして、この後、イサクの妻となるべき娘を探しに行った時、しもべは主に祈りました。《私の主人アブラハムの神、【主】よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。(創24:12)》彼の姿勢と行動は、「ご主人から沢山の報酬をもらえるように、首尾よく仕事を済ませて帰ろう」という感じではありませんね。主人アブラハムと同じ思いとなり、主人が祈るように、神に祈り、主人が主に依り頼むように、主の導きをしっかりと求めました。

聖書には「主人とエベッド(奴隷・しもべ・家来)」の例が沢山出てきます。必ずしもすべての例が模範的ではないのですが、主が願っておられる主人とエベッドの関係を学ぶことができます。それらは私たちが世にあって馴染んでいる常識とは、色々な面で違っています。

私たちが関わる職場には、社長と社員とか、上司と部下とか、元請けと下請けとか、そのような人間関係があります。まず覚えておきたいのは、主人としもべという関係は、そもそも神である主と人間との愛と信頼に基づく関係であり、人間同士の中にはなかったことです。私たちは主イエス様を信じた時から、主に買い戻されて、主にだけ仕える者とされました。二人の主人に仕えることはできないのですから、私たちはだた主の他に、誰からも支配されることはありません。

ただし、だからといって地上の主人に従わないように勧められているのではありません。初代教会では、むしろ「地上の主人に仕えなさい」と教えられました。なぜでしょうか。神様との関係を全く失ってしまった人々が、私たちが持ち込む神の国の価値観(神の国の義)を見て、主と人の関係を見出すかもしれないからです。エペソ人への手紙には《キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。(エペソ6:5-7)》と書いてあります。ペテロの手紙には《善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。…善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。(Iペテロ2:15-18)》とあります。どんなブラック企業であっても、我慢して従い、病気になっても耐えなさいと言っているのではありません。「神である主がお造りになった、本来の主人としもべの関係を持ち込みなさい」ということです。主に仕えるように、仕えなさいとはそういう意味です。

問題は、私たち自身が「主人とエベッド」の関係をよく分かっていないことにあります。むしろ逆に世の中の主従関係の価値観に基づいて、神様との関係を考えたりしますので、主との関係も誤解して上手にできないところがあります。「主のために生きる」と歌いながら、実はその意味が深く分かっていなかったりするのです。

そういうわけですから、主人としもべの関係について、これから神の国の生き方を一つずつ学んでいきたいと思います。

お祈りします《それでしもべは、主人であるアブラハムのももの下に自分の手を入れ、このことについて彼に誓った。》

天の父なる神様。私たちと契約を結び、契約を真実に守り、契約を思い起こされるお方。私たちの主よ。

あなたは私たちを十字架の血によって買い戻してくださいました。私たちの主人はあなたです。罪から解放されて神の奴隷となりました。しかし、私たちは、主人としもべにある愛と信頼の関係を世で学びませんでした。イエス様と御父の間にも見ることができた、その素晴らしい関係を私たちに教えてください。暴力と支配と緊張の関係ではなく、愛と信頼と平安の関係を知ることができるようにしてください。

またあなたは私たちを世に遣わしておられます。人々は神の国の福音を聞いたことも見たこともありません。神の使者として、今週も私たちをそれぞれの場に派遣してください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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