主イエス様は復活から40日後に、復活のからだで天に昇り、人の目には見えなくなられました。それで主の働きは終わってしまったかというと、そうではありません。使徒の働きが伝えているのは、主イエス様の働きは聖霊によって力強く継続されているということでした。復活節は今も生きておられるイエス様を証しする季節であり、また聖霊の働きを証しする季節でもあります。
イエス様は私たちが古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るために必要なことを成し遂げてくださいました。聖霊は私たちが古い人を着ていることに気付かせ、新しい人を実際に着せてくださるお方です。聖書は聖霊なる主が仰せられたことばは直接的に記していませんが、その力強い働きを記録しています。
聖霊に満たされて歩む時、私たちは今まで神が開示されなかった、自分自身の心の奥底を見るようになります。人生一度だけの話ではありません。何の問題もないと自分では思っていたことが、実は問題であったと気が付いていきます。「罪が赦されたのは思い込みだったのだろうか」と悩んでしまうほどです。しかしそれは聖霊の聖化の働きによります。主がその部分も恵みによって取り扱ってくださって、罪が私たちを支配することがないと知ることになるでしょう。
勝利と喜びとは、私たちの心の奥底を隠して白いペンキで塗りつぶすことではありません。それはパリサイ人の道です。「もはや神の怒りを怖がって隠す必要がない。心の奥底に隠れていた自己中心も、傲慢も、むさぼりも、不敬虔も、ひとつずつ明らかにされ聖霊の火によって純化されていくことを喜ぶ。」そのような道を進むことです。
聖書をお開きください。ヨハネの福音書21:1-14(229ページ)【聖書朗読】
今日の舞台はティベリア湖畔です。ティベリア湖とはガリラヤ湖の別名です。ガリラヤ湖での魚が大量に網にかかるという出来事は、どこかで聞いたおぼえがないでしょうか。ペテロがイエス様の弟子になって間もない頃、これとほとんど同じような出来事が起こっていました。ルカ5章の出来事です(ゲネサレ湖=ガリラヤ湖)。漁師ペテロが夜通し働いても、何一つ捕れなかったのに、イエス様のおっしゃる通りに、深みに漕ぎ出して網を下ろすと、網が破れそうなほどの魚が捕れたのでした。主はあの時、ペテロに《今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。》とおっしゃいました。
今回、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖で出会ったのは、イエス様がその場所を指定されたからです。イエス様は墓からよみがえられた後、最初に出会ったマリアたちに、《行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。(マタイ28:10)》と伝言を頼んでおられました。イエス様には何かご計画があったようです。
この時、イエス様はすでによみがえられ、弟子たちに姿を表しておられました。トマスが復活のイエス様と出会った後の話です。ですから、イエス様が復活され、確かにメシアであったことが分かり、いよいよこれから新しいことが始まっていく!と盛り上がっていたのではないかと想像しがちなのですけれども、実際はどうだったのでしょうか。ガリラヤ湖に着いたペテロは、何を思ったのでしょう、「私は漁に行く」と言いました。ペテロはガリラヤ湖の漁師をしていました。イエス様と出会って、後について行くようになるまで、毎日のように湖に出て魚を捕って生活していました。受難週からイースターという、とても劇的で非日常的な日々を大都会エルサレムで過ごした後、故郷に帰ってきて、ガリラヤ湖を見て、波の音を聞き、磯の香りをかいで、これからの生活を思ったときに、「私は漁に行く」と言って、長年慣れ親しんできた日々の歩みに戻っていってしまったのでした。まるでイエス様との数年間がなかったかのように。よみがえられたイエス様が新しい契約によって、聖霊を遣わし、新しいことをしようとなさっていたのに、まるで自分の人生は神の宣教と関わりがなかったかのように、以前の姿に戻ってしまいました。
弟子たちは、もう一度、イエス様と出会う必要がありました。イエス様が「わたしにつ着いて来なさい」とおっしゃって、数年をともに過ごしたことは夢ではなかったこと。イエス様が招き入れてくださった神の国は確かに現実のものであること。そのために、以前の生活とは全く違う、神の使命に生きる人生に招かれていることを、イエス様に教えていただく必要があったのです。
ペテロは漁に行きました。それは神の恵みを知らなかった頃の歩み方です。自分の食べるものは、自分で頑張って、自分の力で確保しなければならないと考える歩みです。ペテロはかつて同じガリラヤ湖で網が破れそうなほど魚が与えられました。それからイエス様と共に行動するようになって、いつも食べ物を与えられていました。5千人の給食も何度も経験したのです。ずっと神の恵みをによって生活してきたのに、神の国の生き方を実は学べていませんでした。漁に出ることは神の宣教(神である主がしておられる働き、また、そのために私にしてほしいとねがっておられること)とは、関係のない活動です。イエス様はペテロに、魚を捕る人生は終わって、人間を捕る人生になると言われたのですから。でもペテロは戻ってしまいました。そして、今度も夜通し働きました。しかし、何も捕れませんでした。
そんなペテロたちに、イエス様は声をかけられました。《「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」》一生懸命頑張ったのに、食べる魚がひとつもなくて途方に暮れていた弟子たちに、寄り添うように、イエス様は「食べる魚がありませんね」と言われました。彼らは「ありません」と答えました。イエス様は言われました。《「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」》いや、そんな小舟の右か左かで数メートルの違いじゃないですか。何か変わりますか? 魚の習性とか、捕れる時間帯とか、何か長年の経験からはじき出される秘訣があるなら分かりますけどね。しかし、ペテロたちは、やけっぱちだったのか分かりませんけれど、誰かも知らない人の助言に従って、舟の右側に網を打ってみました。すると、153匹の大きな魚が網にかかり、引き上げられないほどでした。日々の糧は主が恵みによって与えてくださる。神の国の法則が現れた瞬間でした。ヨハネは、あの声の主が誰だかピンときました。「主だ」と。ペテロは舟が岸辺につくまで待てないで、湖に飛び込んでイエス様のところに向かいました。
ペテロに本当に必要だったのは食べる魚ではありませんでした。本当に必要だったのは、食べる魚を与えてくださる主でした。弟子たちが岸辺に戻ってきて陸地に上がると、《そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見え》ました。誰が用意したのでしょうか。イエス様です。主イエス様が食卓を用意して、待っていてくださいました。私たちの主は気前の良いお方です。主の食卓がどれほど豊かで満ちあふれているかご存知でしょうか。あの場にいた弟子たちは7人ほどでしたが、主は魚とパンと、さらに追加して153匹の大きな魚を食卓に用意されました。とうてい食べきれない量です。5000人の給食でもそうでしたが、主が子どもたちのために用意して下さる食事は、いつも豊かにあふれて、あり余るほどです。そんな主が日々の糧を与えてくださる恵みの人生があります。
「もうイエス様はいつでも近くにいるわけではないし、自分で生活を何とかしないとなぁ」とペテロは考えたのかもしれません。でも、それは間違いでした。自分で自分の生活を何ともできないのが私たちの本当の姿です。日々の糧は主が恵みによって与えてくださいます。イエス様は目に見えないときも、共にいて日々の糧を与えてくださるのです。「さあ、朝の食事をしなさい」とイエス様の声が聞こえてくるでしょうか。しかも、ギリギリ収支が合うくらいで与えてくれるのではなくて、豊かにあふれて、他人に分けるほどに与えられるのです。そうして、自分の生活を成り立たせるための仕事は終わって、イエス様が一緒にやろうと言って招いてくださる働きが始まります。
私たちの今の歩みはどのようでしょうか。イエス様と出会って、神の恵みの世界を知ったのに、ガリラヤ湖に帰ってきた途端に、漁に出かけてしまったということはないでしょうか。そんなあなたに、イエス様はもう一度出会って、あの時と同じ奇跡をして、気が付かせてくださいます。「私の人生はイエス様と出会って変わったんだ」と。
イエス様の呼びかけはいつも同じです。「わたしについて来なさい」と、今も私たちひとりひとりに語りかけておられます。なぜイエス様は、ご自分を信じた人たちに洗礼を授けるようにおっしゃったのでしょうか。わざわざクリスチャンになったことを他の人から分かるように、人が聞いている前で「はい、信じます」と告白し、人が見ている前で水に浸かって、あがってくる必要があるのでしょうか。そしてなぜ教会に加えられるのでしょうか。洗礼は基本的にイエス様の十字架の死とよみがえりを表し、それと同じく受洗者も死んでよみがえり、新しい人に変わったことを示す礼典です。またクリスチャン(イエス様の弟子)になったことの公の表明であり、イエス様の教会の一員になることを表しています。「いや、そんなことより、誰にも知られないように、でも心の中を知っておられる神様にだけは知ってもらって、他の人と関わりなく静かに信仰をもっていていいじゃないですか」と思う人が最近は多いのかもしれません。
しかし、イエス様があなたの人生にもっておられるご計画の最終目的は何でしょうか。その最終目的は、あなたが救わることではありません。最終目的は、あなたが救われて、神の恵みによって生きるようになり、イエス様の十字架と復活が宣べ伝えられ、神の国の良い知らせがさらに多くの人に伝えられることです。漁に行って魚を捕る人生から変えられて、イエス様の働きについて行く人生に変えられることです。その人生は神の恵みによって豊かな人生です。
主イエス様は今、あなたに何と語っておられますか。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」「さあ、朝の食事をしなさい。」と豊かな食卓に招いてくださっています。ペテロはこの後、イエス様から大切な使命をいただきました。あなたにもイエス様は特別な使命を与えようとしておられます。
お祈りします《こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。》
天の父なる神様。気前よく施して、なお富んでおられるお方。私たちの日々を空の鳥よりも豊かに養い、野の草より鮮やかに着飾ってくださる恵みの主よ。
エデンの園でアダムがあなたを離れた時から、人は汗を流して糧を得、一生の間、苦しんで茨とあざみの生える大地から食を得ることになってしまいました。世界は変わり、産業革命が起こり、機械やコンピュータが発明され、仕事の効率はますます高まっていますが、働く人はますます忙しく働かされ、その一生のほとんどを糧を得るために費やしています。
ガリラヤ湖を見れば漁に出るしか思いつかなかった弟子たちのような私たちに、あなたの姿を見せてください。あなたの声を聞かせてくださって、主の食卓が豊かに備えられていることに気付かせてください。今日もあなたの食卓に招かれていることをありがとうございます。
私たちの人生は、魚を捕る人生から、人を捕る人生に変えられました。明日の心配を捨てて、イエス様、あなたについて行きます。あなたのみこころを行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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