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2025.02.23  主日礼拝 「罪をさばかなかった」 ヨハネの福音書7:53-8:11

 




今日は寒い中にも太陽の恵みを感じられる一日でした。

先日の例会で「讃美歌を歌う」「賛美する」この2つの違いについて学びました。

神様を賛美することが目的なのに、讃美歌を歌うことが目的になっている自分に気づきました。

神様はいつでも私たちを深く愛して下さっていることを覚えて、感謝して心から賛美できるものでありたいです。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。寒い一週間でしたが守られて、新しい週を与えられました。「これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう(詩118:24)」と詩篇で詠われていることを一緒におぼえたいと思います。

久しぶりの入門メッセージです。自分の知らない世界を学び始めることを入門と言います。イエス様は神の国にも入門があると言われました。《わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。(ヨハネ10:9)》と言われたのです。神の国は私たちが慣れ親しんできた世界とは別の世界です。神である主がおられて人をお世話しておられ、人が主を認め、主の御前で愛し合って生きている世界です。

同じ時代、同じ地球に住んでいるのに、別の世界に生きているということはどういうことでしょうか。これは例えば、外国との交流(異文化交流)を深く経験すると分かってきます。文化の土台が違うと同じ現象を全く違うように捉えるのです。

神の国の門はイエス様です。イエス様を知らないと、神の国の福音を聞いても、全く知らない外国語を聞いているような感じで意味が全然わからないでしょう。イエス様は今も生きておられるので、あなたを捜して救うために来られます。使徒パウロは復活のイエス様と出会い、目からウロコが落ちて、聖書の福音がわかるようになりました。どれだけ一生懸命聖書を読んでも、イエス様を知らなければ、目が滑るばかりで福音を受け取ることができません。

イエス様は今日、あなたに何を教えてくださるでしょうか。「わたしについてきなさい」と主はおっしゃっておられます。

聖書をお開きください。ヨハネの福音書7:53-8:11(195ページ)【聖書朗読】

この箇所は[]がついていますので気になりますね。新約聖書の各書は1世紀に書かれました。当時はコピー機は存在しませんので、次の時代に残すためには別の新しい紙に書き写さなければなりません。コピー機には写し間違いは起こりませんが、写本は人手によるので可能性があります。発掘により6000弱の新約聖書の写本が見つかっています。一番古いものは4世紀のものです。99%の写本には、今日の箇所がこの場所に記されています。しかし、一番古い4世紀のいくつかのうち2つの写本にはこの箇所がありません。写本は伝言ゲームですので、古いものがより重要になります。東ローマ側の2つの写本には欠けていて、西ローマ側の写本にはこの箇所が見つかりました。聖書の写本ではありませんが、3世紀のクリスチャン指導者の文章にこの箇所の引用が見つかっています。可能性は、この箇所をヨハネが書いたけれども物議を醸してその2つの写本から削除されたのか、ヨハネは書いていないけれども追加されたのかです。しかし、仮にヨハネが書いていなくて追加されたとしても、(ヨハネも含めて)福音書を書いた人たちが参照していたイエス様の言行をまとめた文章があったので、それを元に追記されたと思われます。この出来事が実際にあったこと、イエス様がこのように言われたことはほとんどの学者が支持しており、聖書の本文に載せておくべきものとして聖霊の納得を教会がいただいてきたので、カッコと注釈付きでこの場所に記載されています。要するに学者でない一般の私たちはあまり気にすることではないということです。

さて、この出来事は背景の解説がないと意味がわからないと思います。モーセの律法が議論のポイントになっていました。最近、私たちは旧約聖書から主の掟を学んでいます。先週は出エジプト記22章を開き、そこに盗んだ場合の賠償について書いてあるのを読みました。あれは一体何でしょうか。律法という言葉を、漢字を前後入れ替えると法律となります。《人が牛あるいは羊を盗み、これを屠るか売るかした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一匹を羊四匹で償わなければならない。(出22:1)》これは法律でしょうか。イエス様の時代のパリサイ派や律法学者たちは、これを法律だと思ったのです。ところが問題がありました。モーセ五書(創出レビ民申)に書いてある、法律っぽい文章を法律として使うには、色々と必要な言葉が足りないのです。みなさんも時間があったら、ぜひ聖書を読みながら考えてみていただきたいと思います。「もしモーセの律法を社会のルールとして使おうとしたら、この聖書に書いてあることだけで足りるだろうか」と。これだけでは足りないと分かると思います。例えば、羊一匹を羊四匹で償う。羊の種類は決めなくて良いのでしょうか。羊の大きさとか年齢とか、市場で売ったときの値段とか。例えば日本の刑法235条はこうです。「他人の財物を窃取した者は、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」こちらの方が明確なルールですね。それに、誰が裁判官になるのでしょうか。あるいは窃盗事件を調査し、犯人を捕まえるのは誰でしょうか。それらも決めなければ法律として使い物になりませんね。_ それで、律法学者たちはモーセの律法に足りない部分(曖昧な部分)を、議論し、研究して書き留めていきました。そうして出来た書物はタルムードと呼ばれます。

律法学者とパリサイ人の質問は、モーセの律法に書いてあるルールを、この場面でイエスはどのように解釈し、判断を下すのかという挑戦でした。ローマ帝国にはローマの法律があります。勝手に誰かを死刑(私刑)にしてはいけません。でもモーセの律法というルールを守るにはどうするのか。どちらを選んでも彼らはイエスを告発することができます。

しかし、イエス様は律法学者やパリサイ派の人々とは違う国に生きておられました。主は神の国におられるお方なので、モーセの律法を法律として見てはおられなかったのです。まさに異文化同士の会話であり、全く噛み合わず、ユダヤ人たちはイエス様を受け入れられませんでした。

モーセの律法は法律ではありません。ルールではありません。先週のメッセージの結論は、隣人の所有を尊重することでした。王寺教会で盗みが発生したら、出エジプト記のルールを適用しましょうとは言いませんでしたね。そんな話ではないからです。主の掟は主の聖なる心を教えているのです。主は何を好まれるのか、何を嫌われるのか。それを知るのです。モーセの律法は主と人とのコミュニケーションです。夫婦がお互いを深く理解していくために、色々な人生の出来事を一緒に通り過ぎ、また互いに何を大切にしているのか、何が嫌いなのか話し合い、年月を経ていくうちに、愛が深まっていくようなことです。

神の国に法律は必要ありません。なぜなら、ただお一人、神である主がすべてを裁かれるからです。私たちの住んでいる国は法治国家であり、法が守られることによって、だれもが自由に活動でき、生活がより豊かになると信じられています。これはかなり根本的な価値観です。しかし、神の国は主が治める国であり、主が治めてくださることによって、だれもが自由に活動でき、生活がより豊かになると信じています。

主がどんなお方であるか思い出しましょう。主は姦淫をお嫌いになります。姦淫とは夫婦関係を守らないで関係をもつことです。主は夫婦関係を壊してしまうことを嫌われます。11節のイエス様のことばを見ると、彼女は確かに罪を犯したのでしょう。それでは、主はご自分が嫌いなことを行う人に対して、どうされるお方なのでしょうか。私たちだったら、自分が嫌いなことをする人を大嫌いになるでしょうね。1回か2回くらいはあまり近づかないようにしながら多めにみるかもしれません。でも、イライラしたり、冷たい態度を取ったり、話したくない、顔も見たくない、同じ空気を吸いたくないと思うかもしれませんね。主はどうされたのでしょうか。

旧約聖書にホセア書という書があります。預言者ホセアを通して語られた主のことばです。神の民イスラエルが、主との関係を捨てて、他の神々と関係をもち、より頼むようになっていました。主はどれほど傷ついて悲しんでおられたことでしょうか。ホセア書には、主の心の思いが書き綴られています。他の神々により頼む姿を姦淫になぞらえて、心の内を明らかにされました。こう書いてあります。《エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。(ホセア6:4)》「私はあなたを愛しているのに、あなたは私を真実に愛していないじゃないか。そんな事するなら大嫌いだ!いなくなってしまえ!」と。この感情は私たちもよく知っているのではないでしょうか。よく分かりますよね。しかし、その後で主はこう言われました。《エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。…わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。(ホセア11:8-9)》「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と言われたのです。これを聞いて、なんだヒステリーだの、支離滅裂だのある人々は言うのかもしれません。でも、これこそ真実の愛です。「なぜ私が嫌いだと言ったことをするのか。絶対に受け入れられない。でもどうしてあなたを見捨てることができるだろうか。あなたを愛しているんだ」

この出来事でイエス様がなさったことを見ると、まさに主の姿そのままです。《「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」》この一言で、人々を神の国の義に立たせました。裁かれるのは法によってではなく、ただお一人、主によってのみです。裁判官になろうとしていた人々は(彼らはすでに心のなかで裁いていましたけれど)、年長者たちから始まり、一人、また一人と去っていきました。そして真ん中にいた女性とともに、イエス様だけが残されました。主イエス様の裁きはこうでした。《「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」》イエス様と主ヤハウェの姿が一致しますね。まさに神である主のことばです。あなたは神である主イエス様の愛を知っていますか。

「自分が嫌いなことをする人は大嫌いだ」「愛すると言いながらわたしに無関心なのはひどいじゃないか」と思う神の怒りはどこにいってしまったのでしょうか。そんな簡単に収まる気持ちなのでしょうか。いいえ。その怒りはなだめられなければなりませんでした。どうやって。人類でただ一人罪のないイエス様が、なだめの供え物として、十字架の上で私たちの身代わりに神の呪いを受けてくださったのです。だからこの罪を犯した女性は神のさばきを過越されました。イエス様の打ち傷により癒やされました。それは決して簡単なことではありませんでした。しかし主の愛はそれを超えたのです。

あなたは主の愛を知っていますか。イエス様がどれほどあなたを愛しておられるか知っていますか。《神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(IIコリント6:1-2)》

お祈りします《わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」》

天の父なる神様。「怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。」と約束してくださったお方。あなたの真実の愛は、たとえ山が移り、丘が動いても、動かされることがありません。

私たちはあなたに造られ、神の園に置かれた者たちでした。しかし、あなたとの関係を捨てて、あなたを忘れ、神がいなくても世界は成立すると思い込み、法律をつくって幸せな世界を思い描いています。しかし、実際に私たちの前には、人が人をさばき、あわれみと愛のない世界が果てしなく広がっています。主よ。私たちとこの世界をあわれんで、お救いください。

私たちは人からのさばきを恐れていますが、神のさばきをないがしろにしてきました。真実の愛をもって愛してくださる主よ。あなたの愛を知ることができるように、どうか私たちのところにきて、心の目に触れ、鱗を取り去ってください。あなたのあわれみを教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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