3月に入りました。受難をおぼえるときですね(ふみ)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。今朝は詩篇1:1が心に通っています。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人は幸いだと書いてあります。日本は長いものに巻かれろという文化です。みんなやっていたら、赤信号が進めに変わってしまう国です。イエス様の弟子として歩み続けることは、なんと大変なことでしょうか。しかし、ここに本当の幸いがあります。その幸いを知っている人たちが、毎週集められて、その喜びを分かち合っています。
私たちはイエス様の弟子です。単にイエス様のグループに加わっただけの人たちではありません。イエス様は師範(先生)です。《わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21)》とイエス様は言われました。イエス様グループの名札をつけていれば良いというのではなく、イエス様からいつも習い、指導を受け、訓練を受けて、ますます変えられていく人こそ、イエス様の弟子なのです。主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人です。《その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄え(詩1:3)》ます。
聖書をお開きください。レビ記19:17-18(212ページ)【聖書朗読】
主が望んでおられる夫婦関係、家族関係を学んできました。いま教えられているのは、家族の次の関係です。ご近所との関係。旧約聖書内のことばでは、隣人、兄弟、仲間、民と呼ばれている間柄のことです。
その教えの中で、おそらくみなさんが意外に思って、記憶に残っている部分があるのではないかと思います。それは、隣人には友もいるけれども、敵もいるということ。また敵の財産を尊重するように言われたことです。聖書は隣人の中に敵がいることを隠していません。聖書だから清らかで崇高なことばかり書いてあると思われるかもしれませんが、読んでみると、実に現実的な事柄を包み隠さず書き連ねてあります。
敵とは具体的に何をする人を指しているのでしょうか。敵という言葉がよく出てくるのは詩篇です。特にダビデの歌に出てきます。ダビデはペリシテ人など、他国の敵とも戦う軍人でもありましたので、外から襲ってくる敵のことを言っていた場合もありました。しかし、例えば詩篇31:11には《敵対するすべての者から 私はそしられました。わけても 私の隣人から。知り合いには恐れられ 外で私を見る者は 私を避けて離れ去ります。》とあります。これは隣人の話です。隣人の中にいる敵(悪しき者)が行うことは次の通りです。はかりごと。嘲り。誇り高ぶる。不法。偽り。人の血を流す。欺く。待ち伏せる。口に真実がない。心に破壊がある。へつらう(媚びる)。網を張った穴を掘って隠す。私がつまずくと喜ぶ。中傷する。歯をむき出しにする。略奪。目くばせし合う。私のわざわいを楽しむ。善を行おうとしない。主のことばを投げ捨てる。盗む。姦淫する。悪口を言う。あらゆる滅びのことばを愛している。怒って攻めたてる。ことばは滑らかで口はよどみなく語るが、心には攻撃がある。二枚舌。隣人へのあわれみがない。(詩1、5、35、36、50、52、55等)
今日の箇所では、隣人に対し、戒めなさいと愛しなさいという、一見矛盾するようなことを教えられています。この2つがどのように両立するのか、深く思い巡らしてみましょう。
先日、隣人の所有を尊重するとお話した時、出エジプト記にある主のおきてを引用しました。《あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。(出23:4)》主は隣人を自分自身のように愛すること、隣人と友情を築くこと、隣人に貸すこと、隣人の所有を尊重することを教えられました。相手が友であっても、敵であっても、別け隔てなく、そのようなあわれみ深い行いをするべきなのです。イエス様はこのことに関して次のように教えておられます。《わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:43-45)》敵であっても、天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くなりましょう。あなたの敵が困っているなら助けなければなりません。
心の中で自分の兄弟を憎んではならない。復讐してはならない。恨みを抱いてはならない。これは聖書の中で繰り返し語られています。私たちは次に述べる戒めることと、憎み、復讐、恨みをごちゃごちゃに混ぜてしまうことがあるのではないでしょうか。悪を悪で返してはいけません(ローマ12:17)。善をもって悪に打ち勝ちなさいと言われています。ダビデ王はサウルやアブシャロムに復讐しようとしませんでした。主の前で叫び声を上げ続けたのです。彼の祈りはこうです。《神よ 彼らに責めを負わせてください。彼らが自分のはかりごとで倒れますように。その多くの背きのゆえに 彼らを追い散らしてください。あなたに逆らっているからです。(詩5:10)》しかし、彼はサウルの子どもたちをお世話しました。イエス様の十字架を見てください。人の罪をあわれみで返しました。主は罪人のために、その罪を背負っていのちを渡されました。
それでは、隣人を戒めるとはどのような意味でしょうか。「戒める」と訳されている言葉は、他にも「非難する。正す。さばく」と訳すことができます。
昨日、インマヌエル綜合伝道団の人権セミナー(毎年開催)が行われました。取り上げられたのは、実際にある教会で起った性虐待事件と教区によるその後の二次加害です。特に二次加害の部分では、加害者の偽りの証言を十分な調査もしないままに丸飲みして、被害者の訴えは事実無根だと声明を出してしまいました。その後、Bさん、Cさん、Dさんも被害を訴え始め、それから調査をはじめました。ところが、加害者を戒めることではなく、被害者と加害側の「和解」を目標として進んでしまったために、さらに精神的加害を加えていくことになりました。
神の国には神の怒りがあります。私たちは実は「神の怒り」を深く理解していないのかもしれません。悪しき者は神の国において、風が吹き飛ばす籾殻(もみがら)のようです(詩1:4)。神の国には悪しき者の立つところはなく、そこから追い出されてしまいます。悪しき者に対して主はこう仰せられます。《こういうことをおまえはしてきたが わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だと おまえは思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる。神を忘れる者どもよ さあ このことをよくわきまえよ。そうでないと わたしはおまえたちを引き裂き 救い出す者もいなくなる。(詩50:21-22)》主を恐れる人たちは、主を敬い、主のおきてに従って歩む人々だけを仲間とするのです。
イエス様はこのように教えられました。《もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18:15-18)》この文脈で異邦人か取税人のように扱うとは、仲間から追い出すということです。また使徒パウロはこのように教えています。《私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(Iコリント5:9-11)》旧約聖書の律法、イエス様の教え、弟子たちの教えには一貫性があります。神の国には神の怒りがあるのです。
ここでもう一度、イエス様の十字架を見てみましょう。その上に見られるのは神の聖なる怒りです。隣人の敵となり、害を与える者はどれだけの罰を受けるのでしょうか。仲間から見捨てられて一人で逮捕されます。裸にされ、肉をむしり取るムチで何度も打たれます。それから裸のまま十字架を背負い、町中を歩かされます。人々に見せるためです。すべての人がこの罪人が何をしたか話しあい、つばをかけ、責め立てます。刑場まで着いたら、手足に釘を打たれて、十字架にかけられます。不自然な姿勢で打ち付けられるので、呼吸が出来ません。痛みに耐えながら、からだを持ち上げると息ができます。そのまま何日か経って、からだを遂に持ち上げる力がなくなると、窒息して死ぬのです。私たちは十字架の残酷さを見る時に、「罪のない神の御子イエス様がかけられた」という前提から考えますので、痛々しい、かわいそうなどの思いが最初に来てしまいます。しかし、よく考えてみましょう。あの十字架は、主を恐れず、主のおきてをやぶって、情け知らずに罪を犯した人にくだされる神の怒りなのです。主は弱く虐げられている人々に「何をされても黙って耐え、何もなかったように水に流しなさい」とは決しておっしゃいません。「わたしに叫べ」と言われました。弱い者のために正しい裁きを行われるお方です。悪しき者に憤りをもって責めを負わせ、主にある正しい人々のいのちを取り戻し、生き返らせてくださるお方です。このようなお方は他にいません。
私たちは神の国の福音を、イエス様が宣べ伝えられたのと同じように語っているでしょうか。良い知らせを示しているでしょうか。加害者の仲間になり、罪を無かったことにして、「和解」を被害者に求めるのは、神の国の福音ではありません。聖書はそう教えていません。イエス様はそのように言っておられません。私たちは「神の正しいさばき」を、神の国の良い知らせとして伝えるべきです。
パウロはIコリント人への手紙の最後に祈りを記しています。《主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。(Iコリント16:22)》主の御心にかなう、このような祈りがあることを知っていますか。
今日のテーマは「隣人(敵)を戒める/自分自身のように愛する」でした。この2つは矛盾しません。同じ十字架の2つの側面です。主が何を教えておられるのか、この後も思い巡らし、御言葉をよく調べてください。私たちはまだまだ神の国の生き方を身に着けていないと思います。みこころを行うことを教えていただきましょう。
お祈りします《心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。…あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。》
天の父なる神様。苦しめられ、虐げられている人たちが切に叫ぶことがあれば、必ず彼らの叫びを聞き入れ、怒りを燃え上がらせるお方(出22:21-24)。私たちの主よ。
御子の十字架は正義と愛の出会うところ。その十字架上で神の無条件の愛と、神の聖なる怒りが成就しました。私たちは神の国の良い知らせを一面でしか見ていないのかもしれません。あなたの救いは完全であるのに、私たちは不完全で福音を悪い知らせに塗り替えてしまいます。主よ。いつもあなたの御言葉に帰るように導いてください。神の国にふさわしくない理解と行動を光に照らしてくださって、気付きを与えてください。
受難節に入り、イエス様の十字架を日々思い出しています。隣人を戒め、また自分自身のように愛する道を教えてください。あなたのみこころを行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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