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2025.02.16主日礼拝 「隣人の所有を尊重する」出エジプト記22:1-17

 






何ができてもできなくても

何を得ても失っても

ただ愛されてる天の父に

私は神の子


今日の礼拝前の準備賛美の「神の子」の歌詞です。ただそこにいるだけで愛してくださる神様に感謝して今週も過ごしたいと思います。(megu)



礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日も兄弟姉妹と共に会堂で、またYouTubeを通して集まることができ感謝です。私たちは世においては寄留者であり、ある意味では息がつまるような6日間を過ごしています。この朝、神の国を心から待ち望む人々と共に、主を喜ぶことはなんと幸いなことでしょうか。

先日、みなさんと会話する機会がありました。何かの話の流れで、「会堂の集まりにあまり行けないときに、他の人が奉仕をしている様子をみて申し訳なく思ったり、向こうで行われている会話についていけないと感じることがある」と耳にしました。_

教会は一致がなければならないと、聖書が教えていることはみなさんご存知でしょう。それはその通りです。でも、何の一致かが大事なポイントです。教会の一致は、同じことをしている一致ではありません。教会の一致は、同じ趣味・好みをもっている一致ではありません。教会の一致は、同じ場所に居続けるという一致ではありません。夫婦関係はすべての人間関係の基本と話しました。夫婦はいつも同じことをしているわけではないし、好みがいつも一致するわけではないし、いつも同じ場所にいるわけでもありません。それでもひとつとされ、ひとつとなっていきます。(時々、夫婦喧嘩しながら)

教会の一致は、主に救われ、神の民となり、同じ主を愛し、また互いに愛し合っているという一致です この一致があれば、他のことはめちゃくちゃでバラバラでも何でも大丈夫です。むしろ主は一人ひとりに個性と賜物、様々な状況を与え、世界中に散らばるようになさるお方です。

YouTubeの先におられる兄弟姉妹。主を礼拝したいと思っていますよね。ここにいる人たちもそう思っています。主を讃美したいと思いますね。主に感謝したいと思いますよね。ここにいる人たちもそう思っています。また私たちはあの方はYouTubeの先でどのような思いで礼拝に臨んでおられるかなと考えています。YouTubeのそちらからは、会堂のみなさんはどのような思いで礼拝しておられるかなと考えておられるでしょう。そして互いに祈り合っています。これが私たちの一致です。《平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい(エペソ4:3)》とある通りです。

「奉仕できないから申し訳ない」という考えが浮かんできたら、立ち止まって、おかしいぞと気が付くようにしてください。ベタニアのマリアのように、奉仕をしないで主のみまえに座る日をちゃんと作りましょう。兄弟姉妹の様子を見ながら、奉仕を休める日が持てない状況にいる人に気がついたら「今日くらいは何もしないで主のみ前に座って、それが大事」と言い合えるようになりましょう。私たちは仕事をするために集まっているのではありません。仕事を休んで主を恐れる(認める)ために集まっているのです。

聖書をお開きください。出エジプト記22:1-17(138ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」について、主の掟を学んでいます。隣人を兄弟のように愛する。隣人と友情を築く。隣人に貸すと3つのことを学んできました。これらの隣人との関係には大前提がありました。私たちはみな、神の恵みによって生きているということです。私たちの手の内にあるものはすべて主から恵みによって与えられたものです。私たちは賜物を用いて、隣人との関係を愛によって結び合わせていくのです。これはどこかで聞いたことのある話ではないでしょうか。そうです。Iペテロ4:10《それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。》エペソ4:16《キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。》新約聖書から教会について学ぶときに聞いたことばと同じです。神の民が主の掟によって、他の人とどのような関係をもって人生を歩むように教えられたのか学ぶならば、その原則は教会に当てはめることができます。

さて、贖い主である主が恵みを与えてくださると聞いて、どのようにイメージされるでしょうか。最近、お米の価格が高騰していて大変ですね。その昔、日本では政府が国民にお米を配給(販売)していた時代があったそうです。お米の通帳というものがあって、一人当たりこれだけの量を買えると決まっていました。町内会などで配給場所が設置され、配給日には長蛇の列ができたそうです。このように、主の恵みによって生きると聞くと、主が一人ひとりに必要なものをその時々に配ってくださるイメージを持つ方もおられるでしょう。確かに神の民にもそのような時期がありました。荒野で生活していた時、天からのマナが民が与えられたのです。しかし、マナが降っていたのは、荒野を旅していた時だけです。ヨシュア記4章で民はヨルダン川を渡って、カナンに入りました。その後にこう書いてあります。《イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。(ヨシュア5:10-12)》カナンの収穫物を食べ始めた時に、マナは止みました。

天から降るマナが伝えていたメッセージは、私たちの必要はすべて主から恵みによって与えられるということです。その前提がしっかり理解できた後で、次のことが起こりました。主は民に所有地をお与えになりました。主のものではあるけれども、「これは私の所有だ」と言ってもよいものが与えられました。主は言われました。《あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住め。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地とせよ。大きい部族には、その相続地を大きくし、小さい部族には、その相続地を小さくしなければならない。くじで当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。(民33:53-54)》ここには自由があります。自分の所有を用いて何をするかは自分の自由で決められるのです。主の御心があります。例えば隣人に貸しなさいとか。でも、いつ誰にどのようなタイミングで、どんなものを具体的に貸したら良いのかは、私たちが決めるのです。賜物(自由)を用いて、隣人を愛し、関係を築いていくことを主は願っておられます。

それゆえに、主は民に、隣人の財産を尊重するようにと教えなさいました。今日の聖書箇所は隣人の所有に手を触れるなら罰則があると記しています。この他にも、このような主の掟があります。《あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、見ぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところに、それを必ず連れ戻さなければならない。もしその同族の者が近くの者ではなく、あなたがその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜しに来るまであなたのところに置き、それから彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の衣についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくした物をあなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。見ぬふりをしていることはできない。(申命記22:1-3)》無くした人が悪いんだから、それを持ち主が見つかるまで自分のところで置いておくなんて手間だし、まして家畜だったら餌代も馬鹿にならないのに、嫌だなと思ってしまいますよね。でも、たとえ手間や費用がかかっても、隣人の所有を守らなければなりません。主がその人にお与えになった所有だからです。隣人同士の愛の関係(友情)が築かれるために、その所有者によって用いられるべき財産だからです。同族の隣人には友もいれば、敵もいるでしょう。たとえ敵対する人の財産であっても尊重しなければなりません。《あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出23:4-5)》と主は言われました。また旅する人は、通りがかる同胞の畑からその時に必要な分だけは食べることを認められていましたが、かごに入れて持ち帰ったり、鎌を使って刈り取ったりしてはいけないと教えられました(申命記23:24-25)。

さらに、消極的な命令ですが、みなさんもよくご存知の命令があります。《殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。…あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。(出20:13-17)》主が与えてくださった命。主が与えてくださった夫婦関係。主が与えてくださった所有物。主が与えてくださった家。それらを欲望によって台無しにしてはいけません。

主はご自分のものを、一人ひとりにお与えになりました。それを受け取った人が、それらを自分の所有とするためです。民は与えられた恵みを用いて、主を礼拝し、隣人を愛するように言われました。所有物は、主がお与えになった人のもとにあってこそ、隣人を愛するために、隣人と友情を築くために、隣人に貸すために用いられるのです。隣人の財産を目にして、その人が自分の楽しみにばかり放蕩しているのを知ったなら、何か言いたくなるでしょう。隣人の所有と、私の所有に随分と差があるのを見て、納得できなくなる気持ちも分からなくはないです。それでも、大きな部族に大きな相続地、小さい部族に小さな相続地が割り当てられたのには、主のご計画があるのです。

かつてコリント教会は、与えられた賜物を比べて、誰が優れているとか劣っているとか言っていました。そして使徒パウロに叱られてしまいましたね。《皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(Iコリ12:7)》《愛を追い求めなさい。(Iコリ14:1)》と教えられました。もし誰かが、自分の財産を倉にためこんで、《「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)》と言うなら、主がその人を裁かれます。それは主に任せておけばよいのです。それはそうとして、私たちは主がそれぞれに定められた所有の境界線を尊重すべきです。愛に礎をおいた隣人との関係を築くために大切なことです。

他の人の領域や財産に口を出したり、手を突っ込んだりしてしまうことはないでしょうか。盗んではならないのはもちろんのこと、我田引水を図ったり、コントロールしようとしたり、意識的に、または無意識的にやってしまうことはないでしょうか。主が相続地の境界線を決められました。もちろん世の中では主が定められた境界線を守らないで奪い合ったり、元の持ち主に返さないことが日常的に行われているので、もうすでに貧富の差が拡大しておかしくなってしまっていることは認めざるを得ません。それでも、主が何を求めておられるかを心に留めましょう。主は私たちがただ生存するための物を分配しておられるのではなく、私たちに気前よく豊かに与え、それぞれの所有を用いて、隣人が互いに愛し合うように願っておられます。主の計画が成るように願って、隣人の所有を尊重しましょう。

お祈りします《もし盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の所有物に決して手を触れなかったと誓わなければならない。》

天の父なる神様。アブラハムの子らを取って、鉄の炉から、すなわちエジプトから導き出し、ゆずりの民とされたお方。あなたは私たちへのゆずりです。

私たち一人ひとりに恵みを与え、その中から私たちの所有とするために、豊かに与えてくださっていることを感謝いたします。私たちの持ち物、着るもの、食べるもの、住む所、時間や能力など、あらゆるものは主であるあなたから来ました。私たちに所有を与え、ここに自由が与えられていることをありがとうございます。

どうか、あなたが定められた所有の境界線が守られますように。人々は日々、考えをめぐらしながら、自分の所有を増やすことを目指しています。貧富の差は広がるばかりです。あなたの民は世の生き方から倣わず、聖霊によって生きる人たちです。私たちは隣人の所有を尊重します。どうか私たちをあわれみ、あなたの道に導いてください。あなたのみこころを行うことを教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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