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2025.02.02 主日礼拝「隣人と友情を築く」ヨブ記2:11-13






(今日はみんなでお昼にうどんです)



 今日のメッセージは隣人との友情の話でした。どんな時も神様に信頼すること、またそのために祈ることを学びました。互いに支えあい、ともに喜び、ともに泣く、そんな友情関係を築いていきたいと思いました。(megu)

礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日も、みなさまと共に集まり互いに励まし合う礼拝の日を与えられ感謝です。主イエス様は十字架で死なれた後、3日目に墓からよみがえられました。よみがえられた後、40日間にわたって弟子たちに現れ、500人以上の人々が主を目撃し、ある人々は会話し、ある人々は共に食事をしました。それから復活のからだで天に昇っていかれ、人の目には見えなくなられました。

イエス様が幼い頃、エルサレム神殿にご両親と共に上られたことがありました(ルカ2:39-51)。あの時、両親は幼いイエス様を見失ってしまって、親族や知人の中を捜し回りました。3日後になって、ようやくイエス様を見つけました。イエス様は神殿で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられました。母マリアはイエス様に《「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」》するとイエス様は言われました。《「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」》

あの時のイエス様のことばは、今日の私たちにも響いてくるのではないでしょうか。ペテロが手紙に書いたように、《「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(IIペテロ3:4)》と言う人たちが現れている時代になりました。私たちは「イエス様が帰ってこられることはないのだろうか」と揺さぶられることがあります。しかし、《しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。(マタイ10:22)》私たちは、イエス様を捜さなくても、主が父の家におられることを知っています。ですから互いに励まし合いましょう。「主よ、すぐに来てください」と共に祈りましょう。

聖書をお開きください。ヨブ記2:11-13(877ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」を聖書から学んでいます。夫婦関係、家族関係と学んできて、前回から隣人関係に入りました。夫婦関係にみられる「愛を礎とする人間関係」が、夫婦から家族へ、家族から隣人関係へと広がっていくことを主は願っておられました。

今日は友情についてお話をしたいと思います。家族ではない人との関係のうち、麗しいものとして聖書に記されているのが「友」です。友人関係として思い出される聖書のストーリはありますか。ダビデとヨナタンは一番有名かなと思います。他には、ルツとナオミはどうでしょうか。ルツはナオミの嫁でした。だから家族じゃないと思うでしょう。でも、彼女たちを家族として繋いでいたナオミの息子(ルツの夫)は死んでしまいました。ナオミとルツは外国人同士で、さらにまた外国に住んでいましたから、義理の親子の義務という法律上の縛りはありませんでした。普通、今の日本で日本人同士が結婚し、配偶者の両親と義理の親子となった場合は、法律上の義務が発生しますし、親戚関係や地域の社会的義務があります。配偶者と死別しても義理の親子関係が残ります。(最近の人はその義務を嫌がって、姻戚関係終了届を役所に届けることがあるそうです。)でも、ナオミとルツは周りに親戚がいるわけでもない、これからその土地を去って、自分の国に帰ろうとしていました。さらにナオミはルツに「あなたの国に帰りなさい」と言ったのです。二人を結びつけるどんな義務もありませんでした。しかし、ルツは《お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。(ルツ1:16)》と言って、その後の人生をナオミと共にしました。ルツ記の締めくくり部分にはこのような一文があります。《あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。(ルツ4:15)》血によって結びついた家族ではないのに、愛を礎とした関係がありました。

今日お開きした箇所はヨブ記です。ヨブは誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている人でした。ところがサタンによって引き起こされたわざわいが彼を襲いました。牛とロバがシェバ人に強奪され、世話人たちが殺されました。羊と羊飼いは天から降ってきた火によって焼かれてしまいました。カルデア人がラクダを奪い、世話係を打ち殺しました。ヨブの子どもたちがパーティーを開いていた時、大風が吹いて建物が倒壊し、みな亡くなってしまいました。次にヨブ自身のからだ全体に悪性の腫物がでて、かゆみと痛みはひどいものでした。それから、最後まで残っていた最愛の妻に「神を呪って死ね」と言われてしまったのです。なんという災いでしょうか。

そんなヨブにも友人がいました。テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルの三人です。ヨブは何人だったかはっきりしませんが、友人たちは別々の民族の人たちで、ヨブとは家族ではありません。彼らはヨブに同情し、慰めようと、互いに打合せてやって来ました。ヨブの痛みが非常に大きいのを見て、言葉にならず、ヨブと共に七日七夜、黙って地に座っていました。主のみこころは、地において隣人が喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くことです。主のみこころに沿った友の姿がここに見られます。このような状況において、言葉にならない苦しみを共に背負い、そばにいて、だだひたすら時を過ごしていてくれることは、なんという力強い励ましでしょう。

ところが、そこまでは良かったものの、この後、彼らはヨブを支えていた友の姿から打って変わって、ヨブをさらに苦しめる災難になってしまいました。箴言13:20には《愚かな者の友となる者は害を受ける》と書いてありますが、時に友が害となる場面があります。詩篇55篇でダビデが嘆いて詠った詩があります。《まことに 私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは 私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。それは おまえ。私の同輩 私の友 私の親友のおまえなのだ。私たちは ともに親しく交わり にぎわいの中 神の家に一緒に歩いて行ったのに。(詩55:12-14)》このダビデの歌を思い出させるように、ヨブの友人たちは口を開いて、ヨブを非難し始めました。彼らは、それがヨブを災難から救うことになると信じていたのです。「潔白なのに滅びた者があるか。神のさばきは正しい。あなたが罪を犯しても、熱心に神を求め、全能者にあわれみを乞うなら、神はあなたのために咎を忘れてくださるだろう」と見当違いなことを異口同音に言いました。しかし、ヨブは正しい人であり、罪を犯したから災難にあったのではありませんでした。サタンがやってきて、ヨブの正しさをくじいてやりたいという理由で災難をふりかからせたのです。ヨブも、3人の友人も、真相は知りませんでした。友人たちはヨブを悔い改めさせることができれば、神のあわれみによってヨブは救われると信じて疑いませんでした。それでヨブを助けるつもりで責め立てたのです。ヨブはこれに耐えきれなくなって、このように言っています。《落胆している者には、友からの友情(変わらない愛)を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。兄弟たちは水無し川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。(ヨブ6:14-15)》先程までの、砂漠に流れる川のような麗しい友情の慰めはどこに行ってしまったのでしょうか。慰めの水は枯れ果ててしまいました。

ヨブ記の結論は何でしょう。「どんなときにも神を信頼する」です。3人の友が口を開いて言うべきだったのは「どんなときにも神に信頼せよ 神はわれらの避け所である(詩62:8)」という言葉です。「ここをこうしたら良くなるに違いないよ」という一見励ましているような言葉は、裏を返すと「あなたはここができていない」と落胆させる言葉でした。(サタンの業に対抗する唯一の方法は「神に信頼すること」です。行動を正せば災難が消えるというのは見当違いです。主イエス様は荒野で「神に全く信頼し」サタンを退けなさいました。私たちは祈りますが、神に信頼するために祈るのです。祈りの魔法の力で悪魔に攻撃するというのは聖書とは違う何かの教えです。サムエルの母ハンナは、神に信頼して安心した時、祈りを終えました。)

さて、家族の次の人間関係である隣人との関係には、麗しい友情の関係があります。それは、私たちが日常で親しんでいる友だち関係よりも深いものです。ダビデとヨナタンにしても、ルツとナオミやヨブと友人たちにしても、お互いの人生を深く支え合う関係でした。ちょっとお茶しに行こうよとか、映画見に行こうよとか、サッカーしようととか、そのような遊ぶだけの関係ではなく、人生を共に生き抜き、苦難の中で共に支え合い、命をかけて助ける関係でした。《人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)》とイエス様が言われたように、いのちの関わる関係が、主の願っておられる友情です。

友情には互いに助け合うという関係があり、家族とはまたちょっと違った関係の現れ方があります。家族は贖い主である父と子どもたちの関係です。父が備え、与える。子どもたちは与えられ、守られるのです。一方で友人関係にあるのは、「与える」より、「貸す」です。イエス様は《返してもらうことを考えずに貸しなさい(ルカ6:34)》と教えられました。「返してもらうことを考えずに貸す」とは、あげることじゃないの?と思うかもしれません。でも、よく考えてみると、「返してもらうことを考えずに貸す」ことと、「与える」ことは違います。貸す方が返してもらうことを考えずに貸すと、借りた方は返すことができるようになったときに返すでしょう。そして立場が逆になったら、返してもらうことを考えずに貸してくれるでしょう。このように「あげる‐もらう」関係ではなく、「助ける‐助ける」関係が友情にはあるということです。

人生を共に生き抜き、苦難の中で共に支え合い、命をかけて助ける関係が教会の中に見られるでしょうか。また私たちの隣人との関わりの中に見られるでしょうか。主のみこころを行うなら、教会のあちらこちらで友情が築かれることになります。さらに言えば、イエス様に従う人たちは、返せない借りを赦し合う人々です。主を知らない世においては、貸したものが返ってこなければ友情は終わりです。しかし、私たちの友となられた主が私たちを赦してくださったように、私たちは互いに赦し合います。イエス様の群れには、世が知らない友情があります。主のみこころを行うことを教えていただきましょう。

お祈りします《彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。》

天の父なる神様。アブラハムの友、モーセの友、私たちを友と呼ばれる主よ。

不法がはびこり、多くの人の愛が冷えている時代を私たちは生きています。あなたが造られた麗しい友情はどこで見られるでしょうか。自分一人や家族だけで生きなければならない、生きていくことができるという考えがますます広がっています。しかし、血の繋がりによらない、愛を礎とした友情をあなたはお造りになりました。なんとあなたは贖い主であると同時に、私たちを友と呼ばれるお方です。ただ一人で立つことのできるお方が、私たちの助けを受けとり、また私たちを助ける友となられました。そして、あなたのような友は他に見つけることができません。私たちはあなたに負い目があり、それを返すことができなかったのに、あなたはそれを赦してくださいました。

私たちはあなたの弟子です。あなたのように友情を築き、あなたのように赦し合う人々となりたいと願っています。あなたのみこころを行うことを教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。



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