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2025.02.09 主日礼拝 「隣人に貸す」申命記15:7-11


雪まじりの風の中、仕事帰りに梅の花を見つけました。
ほっこり。
神様は厳しい状況の中にも恵みを置いてくださる方です。  ( まさまさ)


礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。新しい週が始まりました。週の初めの日の朝に、まず主を見上げて、共に賛美することができ感謝です。主を喜ぶことは私たちの力です。

教会は一年を通して、主とその御業を記念し、思い出しながら世の旅路を進んでいます。記念日が定められたカレンダーがあります。その記念日には2種類あって、ひとつはレビ記23章の例祭を覚える記念日と、もうひとつは教会暦と呼ばれる記念日です。この2種類が重なっています。レビ記23章の例祭は、主の贖い(出エジプト:エジプト解放からカナン入国)を思い出すための記念日です。教会暦は主イエス様の救いを思い出すための記念日です。

今週の半ばから始まるのは教会暦のレント(四旬節)です。春にはイエス様の十字架と復活をおぼえる記念日がありますが、その前にイエス様が苦しみを受けられたことを思い出す期間です。イエス様が苦しみを受けられたのは、私たちの罪を代わりに背負われたからです。ですから、私たちはこの期間に、なぜイエス様が苦しみを受けなければならなかったのか思い出し、自らの罪を悔い改めることを特に心に留めましょう。

イエス様は《わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:14)》とおっしゃいました。イエス様が私たちの友となってくださったので、私たちは喜んでいます。しかし、友は双方向から友とならなければ成り立ちません。イエス様の命令を行っているでしょうか。「わたしについて来なさい」「兄弟姉妹と仲直りしなさい」「自分の敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」「あわれみ深くなりなさい」「施しをするとき知られないようにしなさい」「自分のために地上に宝を蓄えるのはやめなさい」「さばいてはいけません」「7回を70倍するまで赦しなさい」「互いに愛し合いなさい」「人の子が自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」「偽善に気をつけなさい」「神のものを神に返しなさい」「主の日がいつ来ても良いように目を覚ましていなさい」「わたしの羊を飼いなさい」「福音を宣べ伝えなさい」イエス様の数々の命令を思い起こすとき、ふさわしくない行動や考え、感情があったことを示されるのではないでしょうか。主の御苦しみをおぼえ、感謝し、悔い改めましょう。

聖書をお開きください。申命記15:7-11(342ページ)【聖書朗読】

先週は隣人と友情を築くことについてお話しました。利害関係ではなく、愛を礎とする関係が家族を越えた人々と結ばれていくとき、友情が築かれます。

神の民はエジプトを脱出した後、シナイ山で主ヤハウェと面会し、贈り物を受け取りました。その贈り物とは律法です。古代イスラエル人はエジプトで400年間も奴隷となっていて、社会秩序は壊されてしまっていました。これから自由となり、約束の地で国となろうとしているときに、誰も社会の築き方を知らなかったのです。律法は聖なる神の民の社会のあり方を教えるものでした。(イエス様の命令も律法の本質を捉えており、律法を成就する教えです。)

今日お開きした箇所は、モーセの律法の一部です。ここには貸すことが教えられていました。先週の話の中で、「返してもらうことを考えないで貸す」ことと「与える」ことは違いますと言いました。友人は与えるより貸すのだと話しました。このことを1週間思い巡らしてこられた方もおられるでしょう。律法には貸しなさいという教えがあるのです。

貸すことを定めた掟は他にもいくつかの箇所に書いてあります。レビ記25:35-37にはこう書いてあります。《もしあなたの同胞が落ちぶれて、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼をあなたのところに在住している寄留者のように扶養し、あなたのもとで生活できるようにしなさい。彼から利息も利益も得てはならない。あなたの神を恐れよ。同胞があなたのもとで生活できるようにしなさい。彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利益を得てはならない。》扶養するということは、贖うことであり、必要を与えることです。同時に利息を取らないで貸しなさいとも教えられています。人が困窮したとき、すぐさま命の危険があるなら、貸し与えると悠長なことは言っていられません。必要を与えるべき場面があります。しかし、すぐさま命の危険があるわけではないけれど、困窮しているときには、利息を取らないで貸すことが助けになります。何かを無償で与えられることは、時に受ける人の自尊心を傷つけることがあるからです。現代でも困窮者支援の現場では、現実的にある問題です。貸すということは、お互い様のことです。「今年は収穫が多かったから、その分を貸すよ。今度、君の収穫が多いときに貸してね(返してね)。」こうするとお互いに主の恵みを分かち合っている話であり、対等の立場での話になります。

10節にこう書いてあります。《このことのゆえに、あなたの神、【主】は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。》(誰でもとは言えませんけれども、)人生には時々、思わぬ収入が入ってくる時期があったりするものです。世の価値観では、運が良かったとか、努力が報われたとか言われるわけですが、聖書はこれと違うことを言っています。祝福が与えられるのは、困窮している人に手を開いて、その必要としているものを十分に貸し与えるためなのです。もしこのとき「これは私と私の家族だけが受けるべき正当な報酬だ」と言って自分の手を閉じてしまうなら、貧しい人がいなくなることは決してないでしょう。4ー5節で、「民が主の命令を守るなら、民のうちから貧しい人がいなくなる」と約束されているのですから、神の民はそのようにすべきです。

先週、友の話をしました。それに続けてお話していますので、友だち間の事柄かなと思わせてしまったかもしれません。しかし、よく確認していただきたいのですが、友ではなく「同胞」の間の話です。同胞、隣人、町囲みの中の話です。つまり、そこには友もいれば、敵もいるでしょう。自分とは反りが合わないとか、それ以上に敵対してくる人も、近隣には住んでいるものです。主は「どんな同胞に対しても、その人が困窮したときには」とおっしゃいました。イエス様はこの本質を捉えて、人々にこう教えられました。《あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。(ルカ6:35)》

さらに主は律法の中で、7年毎に負債を帳消しにするように定められました(申15:1)。収穫は毎年変動があり、7年も期間があれば、いつかは借りたものを返せるほどの豊作がくるでしょう。しかし、何かの原因でいつまでたっても余るほどの収穫が得られないこともありえます。そのようなときは7年毎に負債が取り消されました。この貸し借りは、利益のためではないからです。「資産は個人が生み出したもの」と考える現代人には何をしているのか分からないかもしれません。プラスとマイナスが合わないとか、不公平ではないかとか、色々と言うのではないでしょうか。しかし、私たちの手の内にあるものはすべて主から与えられたものです。もちろんそこには主が与えてくださった自由があり、私の所有と呼んでもよい財産があります。私たちはそれを用いて、愛の関係を築いていくのです。関係を築くことが大切であり、貸し借りのプラスとマイナスが合うかどうかは大事なことではありません。必要はすべて主が満たしてくださいます。

また、異国人からは利息を取ってもよい、負債を免除しなくてもよいと定められています。異国人とは商業取引をする人のことで、在留異邦人(寄留者)とは区別されています。ビジネスはビジネスとしてして良いけれど、町囲みの中の人間関係はビジネスであってはいけないというメッセージです。

このような社会の土壌(愛の関係の土壌)があると、どうなるでしょうか。隣人は友情を築くでしょう。聖書にはダビデとヨナタンや、ルツとナオミのような友情の物語が記録されています。主のみこころを行うなら、愛の関係の土壌によって、友情が築かれていく証となっています。私たちクリスチャンは、時々、自分たちの植わっている土壌を無視しています。「互いに愛し合いなさい」と言われて、生き方は変えようとしないのに、「愛せない、愛せない」と言っていたりします。その土から水を吸い、栄養を得ているのに、なぜふさわしい花が咲かないのか。「良い花が咲かない、良い花が咲かない」と言っています。私たちはまず、自分が植わっている土壌を、世のものから、神の国のものに入れ替えなければならないのではないでしょうか。

商業的な関係を隣人との関係に持ち込んでいないでしょうか。例えば、よく巷でいわれるのは、WIN-WINの関係があります。「私も利益を得て、あなたも利益を得るようにしましょう」という考えです。このような世の考えを、聖書の教えと照らし合わせないで、隣人との関係に取り入れていることはないでしょうか。「隣人から利益を得てはならない(レビ25:37)」と主は教えておられるのですから、明らかに神の国の価値観と衝突する考えですね。(相手に損失を与えてはならないという部分では重なるところもありますが。)あるいはギブ・アンド・テイクの関係はどうでしょうか。与えたら、その分もらう。主のみこころはこれと合っていますか?あげた分を返してもらうことは重要なポイントではないと教えられていますね。貸したり返したりすることで、友情が築かれていくのです。返せない状況が続いたらどうなるのですか。それは単に返せない状況が続いていたというだけのことで、返していないということは大事なことではありません。律法では7年毎に返す必要はなくなりました。その本質は、イエス様が言われる通り、返してもらうことを考えないで貸すことで、愛の関係が築かれていくことなのです。私たちは互いに負い目(負債)を赦し合いますと、主の祈りの中でいつも約束しています。

この世のあり方には、他人に利益を与えられない人たち、他人に返せない人たちの居場所がありません。しかし、ここに良い知らせがあります。神の国には神である主を恐れるどんな人にも居場所があります。9年前に相模原の障害者施設で事件が起こり、19人が殺されてしまったことがありました。ある遺族のメッセージが、追悼集会で読み上げられました。被害者が匿名で発表されていることについて、「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません」と書かれていました。犯人の思想に対して、世の価値観ははっきりとした反論を出せないでいます。なぜなら自らの価値観の根本的な不備を指摘されているからです。しかし、主はこれに真っ向から反論されます。利益を与えられるか、返せるか、役に立つかどうかは、社会を築くために大切な要素ではありません。神の国は、主の恵みによって成り立ち、隣人は互いに利息も利益も得ず、返してもらうことを考えないで貸し合います。ついには貧しい人がいなくなります。

お祈りします《必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。》

天の父なる神様。民をエジプトの奴隷から解放し、贖い出してくださったお方。私たちを罪の奴隷から解放し、神に対して生きている者としてくださったお方。私たちの主よ。

あなたは私たちの神、私たちはあなたの民です。かつて罪の奴隷であったとき、私たちは神の国とは違う価値観で動く世界に縛られていました。世界はすべてそのようなものだと思い込まされていました。しかし、あなたは私たちを捜して救うために来てくださり、十字架と復活の贖いによって、罪の奴隷から解き放ってくださいました。そして、主の民がシナイ山で律法を与えられたように、私たちの心に聖霊を与えてくださいました。私たちはもはや古い生き方によって歩んだりしません。聖霊によって、神のみこころを行う者たちです。どうか私たちをあわれんで、古い生き方から新しい生き方に変わることができるように助けてください。

あなたは、神の国はすでに私たちのうちに来ていると言われました。イエス様が神の国をもたらしてくださったからです。やがて神の国が完全に来る日を待ち望みながら、荒野の旅路を兄弟姉妹と歩んでいます。どうか主よ。私たちの群れが、神の国の到来を宣べ伝えるようにしてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。



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