item

2025.01.26 主日礼拝 「つり合わないくびき」 IIコリント人への手紙6:14-7:1



今日は教会総会でした。

総会とは神の御心を求め、確かめ、主の平安が伴う議決を探る営みと教えられました。

中尾先生が礼拝のメッセージでおっしゃったように、今年も私たちの想像を遥かに超えた聖霊のお導きがあることを期待して祈ります。

今年もよろしくお願いします。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。教会総会の日ですので、簡潔に御言葉を解き明かしたいと思います。

阪神・淡路大震災以降、学校では災害訓練が必ず行われるようになりました。私が小学生のときには「おかし」(押さない・かけない・しゃべらない)と毎回教えられました。今は「おはしもち」(押さない・走らない・しやべらない・戻らない・近寄らない)と教えるそうです。災害訓練は毎年行われるのですが、毎回毎回、同じ話です。「また訓練かよ。おかしの話でしょ。」と子どもたちは言うわけです。でも、わかりきっているということが大切なのです。

王寺教会では毎年1月の最後の聖日に総会を開いています。その日の説教は毎回同じテーマです。みなさん家を出る前から、大体どんな話か予想がついておられると思います。それでも、いえ、それが大切だと思っています。

教会は、主イエス様が呼び出された者たちの集まりからスタートしました。またそのルーツは、アブラハムやアダムにまで遡ることができます。私たち(教会)はイエス様を主とし、主が言われたことを行う人たちです。イエス様が弟子たちに言われたこととは何でしたか。「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」「悔い改めなさい」「バプテスマを授けなさい」「足を洗い合いなさい」「取って食べなさい。この杯から飲みなさい。わたしを覚えてこれを行いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」「福音を宣べ伝えなさい」「目を覚まして祈っていなさい」…。そのようなことです。イエス様は弟子たちに、毎年一度総会を開いて決議しなさいとは言われませんでした。立派な会堂を建てなさいとも言いませんでしたし、人々を惹き付けるイベントを開催しなさいとも、登録会員数を増やしなさいとも、財政健全化に努めなさいともお命じになりませんでした。私たちが総会を行うのは、いま私たちが寄留している世からの要請があるからです。それは基本的に主イエス様の指示から来たものではありませんので、神の国とは違う世界観・価値観に基づいたものであることを覚えておかなければなりません。

1月の教報に国内教会局長の大兼久先生が、教会総会を開く各地の教会に向けて書かれた文章が載っていました。「その場(教会総会)では多くの意見や希望も出されますが、決定は多数決による合議でもなく、神のみこころを求め、確かめ、主の平安が伴なう議決を探る営みが教会会議です。初代教会でも使徒の働き一五章で「割礼がなければ、救われない」という意見と「ただ信仰によって異邦人が救われた」という証しが対立しました。その時にペテロやヤコブが立ち上がり、発言をしたとき、会議の上に「みこころがそこにある」という平安がその場を包みました。そして誰の意見でもなく「聖霊と私たちが決めた」と記されています。年に一度の教会総会ですが、誰彼の意見が通るというのではなく、御霊による平安が伴う、みこころの選択を教会総会で求める時となり、それが日常の信仰生活においても「主のみこころ」を求める姿勢となれたら幸いです」ここに「神のみこころを求め、確かめ、主の平安が伴なう議決を探る営み」とあります。世の人々は、そんなの総会とは違う別の何かじゃないのと思うでしょう。でも、私たちクリスチャンにとっては、そうだと頷ける基本線です。

今日、開いた手紙を受け取ったコリント教会は、ユダヤ人とは全く違う世界を生きてきた異邦人の国に住んでいました。そこで福音を知り、イエス様を信じて洗礼を受けました。イエス様の弟子となり、古い生き方を捨てて、新しい生き方で歩むようになりました。パウロはこのことを「かつてイスラエルがカナンの地でどのように生きるべきか」教えられたことと重ねています。主は民に命じられました。《あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない。(レビ18:3)》コリント教会もこのことを守る必要がありました。コリントの地の風習をまねてはならない。これが主のみこころでした。

あの時、主は汚れたものに触れてはならないとおっしゃいました。エジプトやカナンの風習に倣わないことを徹底させるためです。ところが、主イエス様が来られて驚くことをなさいました。なんと主は汚れたものに触れたのです。ツァラアトに触れ、癒やされました。死人をよみがえらせなさいました。罪人や遊女を招き、悔い改めさせました。これは全く新しいことであり、汚れが聖いものに変えられたのです。神の御業です。主はのろいを祝福に変えるお方なのです。キリストの復活にあずかったクリスチャンたちも、主イエス様の御名によって業を行うようになりました。ペテロは異邦人に洗礼を授けることなどありえないと思っていましたが、天から降りてきた汚れた生き物の幻を見て、《「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」》という主の声を聞きました。そうしてコルネリウスのもとに向かい、聖霊を受けるのを見て、彼らにバプテスマを授けました。

さて、それではイエス様は律法の掟を守らないで捻じ曲げてしまったのでしょうか。いいえ。主の掟の本質は変えられていません。「世の風習をまねてはならない。むしろそれを聖なるもの(神の国の風習)に変えなさい」ということです。《彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない》という御言葉を開いて、パウロは《つり合わないくびきをともにしてはいけません》と教えました。くびきの写真をみなさんにお見せしたことがありましたが、覚えておられるでしょうか。2頭の牛の首に横木を付けて、その間に農具を装着できるようになっている道具です。くびきを使う時には、2頭が同じ方向に向かって、同じ調子で、同じように力を出して、一緒に動かなければいけません。パウロの教えは、触れてはいけないというのではなく、くびきをともにしてはいけないというものです。これはイエス様の教えです。旧約時代には異邦人と結婚した民は、悔い改めて離別しました。パウロは信者でない配偶者を、相手が一緒にいることを承知している限り、離婚してはいけないと教えました。でも旧約聖書を曲げたのではありません。世の価値観をならってはならないという、その本質は残っています。しかし、むしろ信者によって不信者の配偶者がきよくされる(Iコリ7:14)という、キリストの御業が起こるようにと教えています。

さて、私たちはこの後に総会を控えています。世の風習に触れることになります。「世の風習をならってはならない。むしろ神の国が来るように」との主のみこころを行うにはどうしたら良いでしょうか。《あなたのみこころを行うことを教えてください》と共に祈りましょう。

総会では活動報告がありますが、私たちが何をしたかは価値のあることではありません。主が私たち一人ひとり、またこの群れと共に歩んでくださった事実に価値があります。教勢報告がありますが、礼拝出席数は何の意味ももちません。2人でも3人でも、私たちが集まったときに主がそこにいて、祈りを聞いてくださった事実に意味があります。財政報告や予算がありますが、私たちの経済は天の父の家で支えられているので、私たちはただ感謝するだけです。年間予定が示されますが、私たちの期待は予定が滞りなく遂行できることではありません。私たちの想像を遥かに超えた聖霊の導きがあり、来年の活動報告の時に、「一年前は予想もしていなかったことを主はしてくださった」と証することを期待しています。

総会が終わったときに、しみじみと「私たちはこれと全く合わない。私たちは世においては本当に寄留者だ」と、みんなが感じられたら良いではないでしょうか。それはキリストの香りであり、人々を驚かせることでしょう。

お祈りします《愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。》

天の父なる神様。御名が聖なるものとされますように。

教会総会を開こうとしている私たちをあわれみ、あなたの聖なる宮のうちにかくまってください。世の風習から倣うなら、あなたが私たちの間に住み、また歩まれることはありません。「あなたが私たちの神となり、私たちがあなたの民となる」祝福を失ってしまいます。どうか私たちを聖め、世と分けてください。

また私たちは主イエス様の死と復活にあずかり、キリストにある者とされました。今やのろいを祝福に変える神の御業(申23:5)に参画するものへと、新しく造られました。私たちも聖霊の御業の管となりたいと願います。あなたのみこころを行うことを教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages