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2024.9.1主日礼拝「箴言1:8,20-33

空しい生き方をしているような、、、  主に期待して、むし
ろたりないものは主にさけぼう(fu) 
                
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで家族について御言葉から学んでいます。

家族とは誰か。家族は何をするのか。それは文化によって大きく異なっています。文化の違う人たちが家族をどのように定義するかについて、聖書は特に何も言っていません。ただ古代イスラエル人たちの文化で「家族」とされていた集団があり、主がイスラエル人たちが形成していた家族という集団に役割を与えられたことは、聖書に書いてあります。そこに表されている主の御心(主のおきて)を読み取って、私たちの文化ではどのような形で主の御心に従ったら良いのかを考え、適用していくことが求められています。

古代イスラエル人たちの家族は、「父の家」と呼ばれていました。父とは、私たちの感覚でいうと、一番年上のお祖父さんです。家族には、父(お祖父さん)がいて、その妻、2世代目の子どもたちと配偶者たち、3世代目の孫たちと配偶者たち、4世代目のひ孫たちがいて、また世話人、寄留者、レビ人なども加えられました。配偶者や親を亡くした者たちも父の家の中にいました。それが古代イスラエル人たちの家族です。

今日は箴言を開きました。箴言は父と母から子どもへの訓戒を記した書です。父と母が子どもに教えると言ったら、みなさん、何を思い浮かべますか。親が幼い子供をしつけていたり、学校で子どもたちが学んでいたり、教会であれば教会学校を思い浮かべるでしょう。学校で学ぶのは基本的に子どもたちですよね。6歳から22歳、大学院まで学んでも26歳。社会に出る前の幼い子たち、また若い人たちです。ところが、箴言で言われている「子ども」とは、幼く、若い者たちだけのことではありませんでした。

旧約聖書では「子」という言葉はよく出てくるのに「大人」という言葉はほとんど出てきませんよね。父の家の子どもとは、父に当たる一番上のお祖父さんとその妻以外の人たちのことだからです。2世代目、3世代目、4世代目はみんな「子ども」なのです。アブラハムは175歳まで生きて、100歳の時に生まれたイサクは75歳になっていました。70代になっても、イサクは父の家の子だったのです。アブラハムが亡くなってから、イサクは家族の父となりました。私たちは70代の人を子どもとは思わないですよね。

ヨブ記、箴言、伝道者の書、雅歌は知恵を教えている書物です。ヨブ記は災難にあった時、神様の主権を認めることを教えています。箴言は愚かな生き方をやめ、主を恐れることを教えています。伝道者の書は神を認めないで生きる人生の空しさを教えています。雅歌は夫婦が互いに恋い慕うことを教えています。これらの教えは、社会経験のない未熟な若者たちへの教えというより、むしろ人生の苦難をある程度経験してきた人たちに対して教えています。

神である主が家族に与えられた役割は、教え、学ぶことです。申命記で主はこう言われました。《あなたがたは、わたしのこのことばを心とたましいに刻み、それをしるしとして手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。(申11:18-20)》主のことばをいつもおぼえて、家族に教えること。これが家族の役割のひとつです。でも、「私はもう成人して、社会経験も十分にあり、学生世代ではないから、学ぶ立場ではない」とお考えでしたら、それは誤解なのです。教会は神の家族であって、幼子や若者を教える教会学校はもちろん大切ですが、教会学校を卒業したら学ぶのは終わりなのではありません。むしろ人生の苦難を経験する中で、自分の浅はかさを認め、学ぶことが沢山あります。

浅はかで、あざけり、分別のない者たちに主を恐れることを教えなさいと言われています。イエス様の時代に、律法学者たちは人々を教えていましたが、イエス様に非難されてしまいました。主の教えを教えず、人の教えを教えていたからです。主を恐れることを教えず、自分の正しさを証明する方法を教えていたからです。(自分の正しさを証明することなど誰にも出来ないのに。)はたして、私たちはどうでしょうか。神の家族である教会で、互いに何を教えているでしょうか。互いに何を学んでいるでしょうか。みなさんはどうでしたか。洗礼を受けて神の子どもとなり、神の家族に加えられた後で、兄弟姉妹から何を教わりましたか。_ 私はこんな話を他の教会で聞いたことがあります。ある新米クリスチャンが礼拝に来て、会衆席に座り、聖書と讃美歌を前の机に置きました。すると隣りにいた年配のクリスチャンが、聖書と讃美歌を置くときは、聖書を讃美歌よりも上にしなさいと言ったそうです。一体何を教えてるのと思いますが、本当にあった話だそうです。教会でも主の教えを教えるよりも、人の教えを教えている、あるいはいわゆる“村の掟”を教えていることがあります。それは残念なことです。

私たちは神の家族に加えられるまで、この世において、空しい生き方を教え込まれて、そしてそれを深く信じて生きてきました。ですから何歳になっていても、天の父の家で知恵ある生き方を学ばなければなりません。私は牧師家庭に生まれて育ちました。地方の開拓教会であり、非常に貧しくて、昭和60年生ですぐに平成に入りましたけれど、その時代にお腹と背中がくっつくことも経験しました。でも、私の両親はいつも大切なことを教えてくれました。「我が家の日々の糧は主が備えてくださる」ということです。この教えは私の人生の宝になっています。その教えは確かに真実であることを経験してきました。大学時代に学生寮に入っていましたが、時々、親の収入の申告があって、事務所で面接を受けなければなりませんでした。ある時、面接で大学の職員にこう言われました。「あなたのお父さんはこんな収入の仕事をして無責任だね。私は信じられない。」と言ったのです。私はこのおじさんは何を言っているんだろうと思って、意味がわからないな、失礼な人だなと感じていました。大学生になっていましたが、親が子どもの生活や学費の責任をもっているという考え方をよく知らなかったのです。だいぶ世間知らずだったと思います。でも、人生の必要の責任をもっているのは神様だとしか思っていませんでしたので、そんな考えを持っている人に出会ってびっくりしてしまいました。やがて、世間ではそのように教えていて、ほとんどの人がそれを深く信じているんだと分かってきました。

ある時、神である主はモーセにこう言われました。《今、次の歌を書き記し、それをイスラエルの子らに教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエルの子らに対するわたしの証しとするためである。(申31:19)》そして、子らに教えた歌はこのようでした。《主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。ただ【主】だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。主はこれを地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と硬い岩からの油でこれを養い、牛の凝乳と羊の乳を最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と雄やぎを小麦の最良のものとともに、与えてくださった。あなたは泡立つぶどう酒を飲んだ。(申32:10-14)》主はご自分の民に、親たちが家族の生活の糧を生み出す責任があるとは教えませんでした。主が生活のすべての必要、住むところ、着るもの、食べるものをお与えになると教えました。そして神からの賜物を分けるようにと教えたのです。神の家族の子どもである私たちは、いつも主に期待し、足りないときには主に叫ぶことができます。その責任は主にあるのですから。

親が家族の生活の必要を努力によって生み出さなければならないと信じることは不幸なことです。今日、多くの人が経済的な見通しが立たなくて結婚や出産を諦めていると言います。しかし、経済的な見通しとは何でしょうか。結婚しようと思った時に瞬間的に良い収入があったというだけのことです。どうやって責任を取れると言えるのでしょうか。中年男性の自死が多いことにも、この間違った信仰が大きく影響しています。困窮した人たちに無慈悲な反応を示す人にも、その間違った信仰があるでしょう。今、収入があって、将来無くなることを想像しようとせず、今、収入がなくても、必要がある時に与えられることを信じられません。こんな状態にありながら、親が家族の生活の責任をもっていると信じるのは本当に不幸なことです。主が責任をもって日々の糧を与えてくださることを信じる人は幸いです。

家族で、また神の家族である教会で主を恐れることを教えているでしょうか。幼子や若者たちはもちろん、世にあって教えられてきたことを信じ込んでいるあらゆる世代の兄弟姉妹に《心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。(箴3:5-6)》と教えているでしょうか。災難にあって困窮している人にあなたの責任だと教えていないでしょうか。《【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21)》と、神の主権を認めようと教えているでしょうか。あなたの人生を目一杯楽しみなさい、財産を余すことなく上手に使って楽しみなさいと教えていないでしょうか。「そのような生き方は空しい生き方ですよ。神からの賜物を感謝して、他の人と恵みを分かち合いましょう」と教えているでしょうか。生活を安定させる責任があるから、夫婦が互いに恋い慕うことは後回しになっても仕方がないと教えていないでしょうか。生活は父である主ご自身が支えると約束されたのだから、主が与えてくださった関係が大切だと教えているでしょうか。

主を恐れることを教えるのは、主から与えられた家族の役割です。私たちが互いに何を教えているのか、よく考えてみましょう。神の家族として学ぶべきことを、主に依り頼むことを学んでいるかよく吟味してみましょう。


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