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2024.09.29 主日礼拝「家族は贖われる」創世記14:8-16


酷暑をこえてやっと秋らしく朝晩が涼しくなりました。食欲の秋です!
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日も私たちを招いてくださった主の恵みをおぼえて感謝します。年に一度の聖会を終えて、エルサレムの山を降りてきたような気持ちになる週ではないかと思います。ちょうど聖書交読が都上りの歌に入っていたところでした。都上りとは年に3回、大祭の時にエルサレム神殿に巡礼に行くことを指しています(申16:16)。都上りが終わって地元に帰ってくれば、次の都上りを待ち望む期間です。これを毎年繰り返しながら、やがて天の都に住む日を待ち望むのです。

古代イスラエル人は神である主を思い浮かべる時、いつもエルサレム神殿を思い出していました。そこには目に見えないお方の目に見える臨在にあったからです。エルサレムは山の上にある都でしたので、人々は「山に向かって目を上げ」ました。山から離れていくにつれて、主はこんな遠くに住んでいる豆粒のような私をちゃんと見ておられるだろうかと心細く思うこともあったかもしれません。現代の私たちも時にはそのように心細くおもうこともあるのではないでしょうか。ところが主は、人々から見捨てられた小さな弱い人たちを憐れんで、おぼえておられました。主はハガルを見守っておられました。主はハンナの心を知っておられました。主はルツとナオミを見捨てませんでした。同じようにあなたの人生に起こっているどんな小さなことにも目を留めて、救い、回復し、支え続けてくださいます。《鳥のように私たちのたましいは仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ私たちは助け出された(詩124:7)》のです。

地上の歩みが続く間、患難があることは確かですが、主がともにいてくださることを思い出しましょう。私たちに求められているのは主にとどまることです。

聖書をお開きください。創世記14:8-16(20ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで家族について御言葉から学んでいます。今日のテーマは「贖い」です。家族と贖いに何の関係があるのか不思議に思われる方もおられるかもしれません。これは聖書を読んだことがない人に新約聖書から読ませるというアクロバティックなことをしているための現象です。現代人は、新約聖書のほうが取っ付き易いという理由で、屋根から学び始めて、後で1階を学んでいますので、このようなことが起こるわけです。贖いはそもそも家族に関係する言葉でした。

「贖いという言葉は、一般社会で使わない言葉なので、馴染みのある分かりやすい言葉を使った方が良い」とよく言われます。クリスチャンが「贖い」という言葉を使うのは、聖書の翻訳に贖いという言葉が使われているからです。《わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを贖い出し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリアムを送った。(ミカ6:4)》《人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:45)》といった具合です。しかし、翻訳者が「贖い」という言葉を使い続けているのには意味があります。それは古代イスラエル人の家族に「贖う」という習慣があり、その理解の上で、神である主がこう言われたからです。《わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。(出6:6)》そして、あの出エジプトは主イエス様の十字架の意味を指し示すための歴史的出来事でした。主は御子の十字架によって私たちを贖ってくださいました。《キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。(Iテモテ2:6)》

では、贖いとはそもそも何だったのでしょうか。その鍵は古代イスラエル人の文化にあります。彼らの家族を思い出してみましょう。彼らは家族を父の家と呼んでいました。父とは一族の本家の最年長のお祖父さんのことです。そして父の配偶者、子どもたちと配偶者たち、3世代目、4世代目、そこに奴隷と呼ばれた世話人たちなどが加わって、ひとつの父の家となっていました。父には役割がありました。そのひとつが、ヘブル語で「ゴーエル(go'-el、גֹּאֵ֑ל)」と言うのですが、贖うという役割でした。今日はアブラムが甥のロトを救出し、彼と彼の財産や家族を取り戻した箇所を開かせていただきました。この箇所でアブラムが行ったことは、まさに贖いだったのです。

ゴーエル(贖い主、買い戻しの権利のある人)の役割は、聖書にいくつか記されています。その役割は、家族の中で困窮した人、自由を失ってしまった人、攻撃を受けた人を救済することでした。

ロトが戦争に巻き込まれて、敵に捕まり、財産や家族を奪われてしまった時、アブラムはロトとその家族を救出するために立ち上がりました。アブラムは父として、そうすべき立場にあったからです。父は、家族を敵から救い出し、また家族がもし殺されたなら血の復讐をしました。こうして家族を贖ったのです。

また家族の一員が困窮して、裕福な見知らぬ者または寄留者に身を売らざるを得なかった場合、父は代金を支払って、家族を奴隷の立場から解放しました。あるいは持っている土地を売ってしまった場合に、父が土地を買い戻しました。家族のうちに夫をなくしてしまった嫁がいたら、亡くなった息子の兄弟から新しい夫を与えました。当時は男性が収入を得られたのでやもめの救済になったからです。これらも贖いです。

家族から(経済的、身体的、精神的に)失われてしまった人たちを救い出し、再び家族として取り戻して、豊かに、自由に、守られて生きることができるように回復することを「贖い」と言ったのです。贖い主は家族を見捨てることがありません。

主ヤハウェは、エジプトで奴隷になって、生まれてくる子どもたちを殺されていたイスラエル人たちを贖われました。それは単にエジプトから脱出させただけのことではありません。主は血の復讐をし、ご自分の民をファラオから救い出し、住む土地を与え、その土地から生じるものを豊かに食べさせ、敵から守って、真の神である主を礼拝できるようにしてくださいました。これが全部揃って贖いです。このことを一言で表す言葉を、なかなか現代社会で見つけることができません。それがパッと分かる身近な単語があれば、聖書翻訳者も大喜びするところでしょう。

さて、出エジプトは主イエス様の十字架の贖いを見える形で示した雛形でした。主イエス様は変貌山で、成就しようとしている出エジプトとしての十字架について語り合われ(ルカ9:31)、出エジプトを記念する過越の祭の時に十字架にかかられました。十字架は私たちの贖いです。すべての人は主に背いたので、神の家族から追い出されてしまいました。この世界を支配する者、また罪の奴隷となり、したくないことをして、他人を押しのけても自分の利益を求め、困窮し、自由を失い、敵の攻撃にさらされていました。それは主に背いた罪による結果であり、自業自得なのです。しかしそれにも関わらず、主はご自分の家から失われた者を探して救うために来られました。あなたを探して救うために来てくださいました。

私たちが再び天の父の家に戻るためには何が必要でしょうか。父との和解です。天の父の赦しを請うことです。コロサイ1:14《この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。》御子を信じる者は罪の赦しを得て、贖われ、もう一度、神の家族として父の家に迎え入れられます。

現代のクリスチャンは実は「贖い」を十分に理解できていないのではないかと思うことがあります。救われること、洗礼を受けること、神の子どもになること、教会に加えられること、教会が神の家族と呼ばれること、これらのことがバラバラに散らかっていて、まとまっていないという人も多いのではないでしょうか。放蕩息子は父の家に帰ったのです。食べるものにも困った彼にとって、父の家に帰ることが困窮を解決する唯一の方法でした。彼は父と会ったらこのように言おうと思っていました。《「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)》雇い人も家族の一員であり、父に養われていたからです。彼が父の家に入るには、罪を赦してもらう必要がありました。ところが父は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って抱きしめ、雇い人としてではなく、自分の子として受け入れました。

私たちは罪を悔い改めて、主を信じた時、天の父に贖われたのです。父の家を離れて放蕩して苦しんでいた私たちは、贖われて、父の家に帰ってきました。主を信じて、罪が赦され、洗礼を受け、神の子とされ、神の宮である教会の群れに迎え入れられて、兄弟姉妹とともに神の家族と呼ばれる。これは断片的なことではありません。私たちが贖われたということです。

主イエス様を信じている私たちは互いに神の家族の兄弟姉妹です。私たちの父は、神である主、ただおひとりです。主は私たちの贖い主であり、窮地に陥ったときに、決して見捨てることなく贖ってくださるお方です。アブラムがロトを救い出したように、立ち上がって、私たちを救い、財産を取り戻して、自由にしてくださいます。あの時、国々の王たちが戦争をしていたのです。そんな中でひとりの父が、家族を贖うために立ち上がるのは、どれほど勇敢なことだったでしょうか。

私たちは今、天の住まいを待ち望みながら地上の歩みを続けています。神の民イスラエルがエジプトから脱出してカナンに入るまで、荒野の仮住まいとしてテントで遊牧生活をしていたように、私たちは今、地上の仮住まいで生活をしています。確かに御子イエス様の十字架の血によって贖われ、神の子とされました。しかし、贖いが完成するのはイエス様の再臨の時であって、今はまだ世の患難を受けながら歩みを続けています。

私たちは「家族は贖われる」ということをいつもおぼえていましょう。私たちは互いに兄弟姉妹ですから、贖い主ではありません。贖い主は私たちの天の父、私たちの主です。しかし、家族は贖われるのですから、兄弟姉妹の誰かが困窮したり、自由を失ったり、攻撃を受けたり、あるいは背きの罪によって家を追い出されたときに、すべきことがあります。無関心にならないで贖い主である主に叫ぶこと(祈ること)です。ですから私たちは互いに祈るのです。

また私たち自身には人を贖う力はありませんが、贖い主である主の持ち物を私たちが預かっていることを思い出しましょう。ささげ物は主にささげられますが、教会が預かっています。教会が預かっているお金や財産は、みんなのものではありませんね。それは主のものです。私たちは個人としても群れとしても、主のものを預かって、手元に持っています。ですから、主のものは主のみ心に従って使わなければなりません。今日の教会には課題があります。伝道活動は本来、神である主の贖いの業(罪の赦し、神の家族への帰還)のためですが、よく吟味してみると、贖いのためではなく、産業的な活動のために多くのお金が使われていることがあるからです。赦され、受け入れられ、守られ、助けられ、支えられることよりも、ビジョン、チームワーク、やりがい、成功、効率、成果などといった商業的な言葉が教会に入り込んでいます。結果として、贖われるはずの人たちが、役に立たないとか、場を乱すとか、劣っているとか言われて排除されてしまうのです。贖い主である天の父が、これを知ったなら(主はすべてご存知ですが)、神の怒りはむしろ私たちにくだるのではないでしょうか。主から預かっている物を、主のみ心に従って、すなわち神の家族が贖われるために、さらに言えば、神に造られたすべての失われた人々が贖われるために用いていきましょう。

お祈りします《そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。》

天の父なる神様。私たちのたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださる主よ。私たちの父母が私たちを見捨てるときは、あなたが私たちを取り上げてくださいます。

どんな苦難が襲いかかり、世にある保証からすべて滑り落ちてしまったとしても、神の家族の父であり、贖い主であるあなたが私たちの完全な保証です。あなたに対して罪を犯し、国を失って、奴隷となってしまったイスラエルでさえ、あなたはお見捨てになりませんでした。

私たちもまた、あなたに対して罪を犯しました。あなたとの関係が壊れてしまったのですから、どうして贖いを受ける権利があるでしょうか。しかし、あなたのあわれみは大きく、私たちの想像を越えています。私たちを赦すために、罪のないイエス様が身代わりとして十字架で血を流し、贖いの代価を支払ってくださいました。十字架の恵みのゆえに、ただ信仰によって私たちは赦され、神の家族に、しかも雇い人としてではなく、あなたの子として迎え入れられます。

主よ。私たちはあなたの山を見上げています。私たちの助けは天地を造られた主から来ます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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