お知らせ

2024.09.15 謝恩日聖日礼拝「牧師を遣わす神のご計画」使途の働き27:9-26


先週雷が落ちて停電を経験しました。電気に頼っている生活をつくづく感じました。
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今朝もようこそお集まりくださいました。今日は、9月の第3聖日で、インマヌエル綜合伝道団の謝恩日聖日となっています。明日は9月の第3月曜日で、敬老の日です。王寺教会では、敬老の日の前の聖日に敬老の祝福を例年行っています。それで2つのことが重なっていますけれども、どちらかというと王寺教会で9月第3聖日は敬老の聖日というイメージが強かったかなと感じていました。今年は、謝恩日であることも、もう一度思い出してみませんかと運営委員会で述べさせていただきました。謝恩日はすなわち、引退牧師の存在を思い出し、先生方を通して気付かされた主の恵みのゆえに、主に感謝する日です。今日は働き人に関する御言葉に心を留めるように導かれております。

2つのことを同時にしますと、意識があっちにいたったり、こっちにいったりしますけれども、伝道者の書にも《一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。(伝7:18)》と書いてありますので、敬老の祝福を祈ることも忘れないようにしましょう。人生の良いときも悪いときも主とともに歩んでこられた姿から、私たちは多くのことを学んできました。献身者とはまた違う、世においての証の人生でありますけれども、ある意味では世を離れている人たちとは別の過酷な道を通ってこられたわけです。そのお証に耳を傾け、その姿をみて、知恵をいただきましょう。どんな人生の嵐においても、主はそのただ中に来て、私たちと共にいてくださった、救ってくださったと証してくださっています。《外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。IIコリント4:16》

主とともにこの日を迎えた兄弟姉妹に神の祝福が豊かに与えられ、主イエス様の愛と御霊の力が神の栄光のために現れるようにお祈りしています。

聖書をお開きください。使徒の働き27:9-26(292ページ)【聖書朗読】

今日はインマヌエル綜合伝道団の謝恩日聖日礼拝ですので、主の働き人に関する箇所を開きました。牧師は何のために教会にいるか、お考えになったことはありますか。その意味や目的、役割など学ぼうと思えば、本を何冊も読まなければいけないほどのポイントがあると思います。今日はそのうちの1点だけ、おぼえることができたらと思います。

今日の教会は、ますます牧師の存在意義を見失っています。これは司祭や牧師が、どんな役割を期待されてきたかという歴史を振り返ると流れが見えてきます。神である主がどんな役割を与えたかではなくて、人々が司祭・牧師に何を期待したかの歴史です。人の期待というのは、主のご計画とは別に、時代によって色々とあったわけです。

大昔の人々は、世の中に説明できないことが多すぎて、悪魔を非常に怖がり、神の力によって悪魔から守られることを期待していました。ある人々は聖餐式で口に含んだパンを飲み込まないで、家に持って帰り、病気の牛に食べさせたりしました。それで、聖餐式の時に、司祭が人々の口の中を見て、ちゃんと飲み込んだか確認したというのです。人々は司祭に神聖な力を期待していました。

やがて宗教改革があり、万人祭司の理解が広まりました。聖書は司祭が読んで、人々に教えるものでしたが、牧師は説教をしながら、人々に聖書を読むようにと励ましました。

それから敬虔主義の時代が来て、日常生活において神を敬う生き方が広まりました。日々の畑仕事も、神のみ前で行われるなら聖なる働きであると理解するようになっていきました。どのような小さな働きでも、神を敬って、主に仕えるようにして行うなら、神の秩序が世にもたらされてくるのです。

そうして、人々のすべての仕事が聖なるものに引き上げられていくはずだったのですが、逆のことが起こり始めました。牧師たちの仕事も世俗のことと変わりないと、人々は思うようになっていきました。神である主のご計画によって、この世界が引き上げられていっていたのに、どこかで神である主が忘れられて、もう人間の世界が繁栄していけばいいじゃないかと考えるようになっていったのです。

すると、牧師への期待は、人間の繁栄を助けるために神の力を持ってくることへと移り変わっていきました。牧師が社会の中に切り込んでいき、公民権運動、反戦運動の旗を振る時代がきました。

それから教会堂に変化が起こってきます。教会堂はイエス様がしてくださったことを表現するようになっていて、会堂が十字架の形をしていたり、ステンドグラスにイエス様の一生が描かれていたりしていました。しかし、しばらく前から流行りだしたメガチャーチはショッピングモールのようです。牧師の服装も変わってきました。人々の期待は、牧師が親しみやすく、普通の人のように近い存在でいてくれること。それで牧師は、Tシャツにジーンズで出てくる。ファッションタトゥーが入っている。そんな感じになりました。普通のおじさんというのが受けるわけです。教会は人々の活動の資源を提供するところになりました。教会はディズニーランドより魅力的でなければならないと有名が牧師が発言したこともありました。

大昔に解明されたいなかった様々なことが明らかになるにつれ、人々は悪魔を恐れなくなりました。悪魔は私の人生に脅威をもたらさないと人々は考えています。相対的に神様を求めることも必要性を感じなくなってきました。説教には心理学や聖書批評学が用いられ始めてきました。人々の期待は、牧師に神聖さよりも学力があることです。でもそのうちに、専門カウンセラーに頼るのがもっと良いし、自分で学力をつけて聖書を読めるようになればもっと良いと思うようになるのは自然なことでしょう。

人々が思い描いているのは牧師がビジネスリーダーとして事業を成功させ、多くの人を魅了し、教会を大きくしていくことをです。でも、それは一人ひとりの人生と牧師の関わりをますます薄めています。人々が司祭・牧師に何を期待したかの歴史を見ると、神である主の御心とは全然別のところで、人々がいろんな期待をもち、時代の流れを経て、今は牧師に期待することは特にないというところに来たのです。

私は時折、人生の様々な出来事について、個人的な面談で話を聞いて、共に祈ることがあります。その時に、ほとんど必ず言われることばがあるのです。「先生、お忙しいのに、時間をとってくださって、すみません」と。「いや、みなさんの人生の出来事の中で共に祈ることこそ牧師のメインの仕事ですよ」と答えるわけですが、これは王寺教会だけで起こっている現象ではありません。世界的にそういう時代になっているのです。

今の世界を言い表すなら、それは「神の不在」だと思います。この世界に神がいないと多くの人々が信じている時代です。それは教会の中にさえも影響を与えています。教会が魅力的であり、一人ひとりが人生の目的をもって豊かに生きるようにとは聞こえが良いのですが、実のところ「神の不在」を宣伝していることがあります。資源があって、人々に目的を与え、心を癒せば教会は繁栄していく。どこに、神である主はおられるのでしょうか。主を恐れ、主を礼拝することはお題目となり、人々は裏のメッセージを受け止めます。「神がいることにしておけば心が安定するんだね。教会は神はいないと伝えているんだね。」神がいない世界の結末は、すでに伝道者の書に書いてあります。行き着くのは空しさです。空しさに打ちのめされ、燃え尽きた牧師たちがどれほど多いことか。

パウロをローマに移送していた百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用しました。神が遣わした人よりも、世の中の専門家に聞こうとする時代を映しているようですね。その結果、海の上で暴風に翻弄され、流されるままになってしまいました。どこかで暗礁に乗り上げ、波で船が壊れて、嵐の中で水に投げ出されてしまえば一巻の終わりです。神がいるというなら、こんな時に何をしているのでしょうか。

「神がいない」という理解は人類が高度に繁栄したために明らかになってきたのだと、多くの人々は信じています。昔は世界の仕組みが分からなかったから、ゴロゴロという音と光を見て、神が音を出している「神鳴り」だと思い込んでいた。私たちはもう世界の仕組みを十分に分かって神がいないことを明確に発見したのだと考えています。

でも、みなさん、ご存知ですか。聖書の中に「神の不在」が書いてあることを。聖書は「神である主が現れた」と言っています。主はアブラムに現れた(創12:7)。神はヤコブに現れた(創35:1)。主はモーセに現れた(出3:2)。サムエルに現れた(Iサム3:21)。ソロモンに現れた。…そして主イエス様は復活して女性たちの前に、弟子たちのところに現れた(マタイ28:9)と書いてあります。いなかったから現れたのです。もちろんそれは、人の側からいないように見えていたという意味ですが。アダムが善悪の知識の木の実をむしゃむしゃ食べていた時、主はどこにおられたのでしょうか。アブラハムが父の家で他の神々に仕えて暮らしていた時、ハガルが荒野で飲み水がなくて死のうとするまで、イスラエル人がエジプトで苦しんでいた時、弟子たちがイエス様の死を目撃して失望して山を降りていた時、神である主がいないように思えました。パウロたちの乗る船が嵐の中で流されるままになって、何日も経った時、だれが「神が共におられる」と考えたでしょうか。

しかし、主はこのような「神の不在」の世界に現れてくださるお方です。主が現れるという出来事は、神がいないという世界で嵐に流され、神がいないから終わってしまうしかないという極限まで行き着いた時に起こります。あの時、あの船にはパウロが乗っていました。パウロはこう言いました。《私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません…》百人隊長たちは、もう死んでしまうと思った時、目の前にパウロがいたという出来事にあいました。それは神を信じるか信じないかという心の持ち様の話ではなく、神である主の臨在がパウロを通して、そこに現れたという出来事でした。

主に召されて献身した人たちは、確かにミニストリーと呼ばれる活動を行います。でも、活動が成功するか、失敗するかは、神様の召命とほとんど関係がありません。パウロはアテネで説教しましたが“成功”しませんでしたね。ミニストリーは上手くいって世界に広がるかもしれないし、上手くいかなくてしぼむかもしれません。でもミニストリーの成功は、神である主が牧師たちを呼んで、「わたしについてきなさい」と言われたことの目的ではありません。主が牧師たち(献身者・長老たち)を呼ぶのは、まず何より「主が行けという地に行き、その場所に現れる」という目的のためです。

牧師は不思議な時にそこにいますよね。神なんかいないだろと叫ぶ時にそこに現れます。普段は大して気が利かないのに。_ 牧師が神に選ばれる基準って知っていますか。《有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(Iコリ1:28)》だから気が利くわけがないんです。こんな時にこう言ってもらえたら、このタイミングでこうしてくれたら。そんなことをしょっちゅう外ししまう人たちだったりします。それでも、主が語りかけ、その場に行きなさいと言われることがあるのです。妻が生死をさまよい、ノンクリスチャンのご主人が「神がいるなら妻を助けろ。助からなかったら絶対にゆるさない」と怒っているところに、牧師が行って何が出来るんでしょう。医者でもないのに。極限状態ですよね。でも、あの日、主は牧師を導いて、病院に連れて行かれたのでしょ。そこに行って、主は生きておられることを表し、祈るために。

今日の教会で、牧師が鼻を噛んだ鼻紙を聖なる力があると思ってこっそり持ち帰る人はいません。聖書を読めるのは牧師だけという時代ではありません。俗世界と違う崇高な修道院生活の模範となる人でもなくなりました。社会問題に果敢に取り組むのは牧師より活動家の仕事になりました。牧会カウンセリングは素人でもできそうなレベルですし、聖書の解き明かしは学者のほうが優れていて、本を読んだほうがましかもしれません。何を期待して牧師に会いに行くのでしょうか。期待されていない仕事をしたいと思う若者は少ないでしょう。牧師の成り手が減っているというのは現象としては分からなくもないですね。しかし、それでも、主が私を呼ばれたと証し、生涯をささげる人たちがいなくならないのはどうしてでしょうか。人の期待はよそに、主のご計画があるからです。

主は世界の一人ひとりに現れるために、ある人々を遣わして主の臨在を運ばせます。何もできないけれど、主が私を呼んでここに置かれたと言い、主のみ言葉をもって、主に祈ることを知っている人が、あなたの人生の極限状態に現れます。そうして私たちの人生に主がおられることを知ったという出来事が起こるのです。

お祈りします《ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。》

天の父なる神様。私はいったい何者なのでしょうと言うモーセに、《今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。》とおっしゃった主よ。

あなたが人を召し出して、遣わされることは、時代が変わっても変わることのない、あなたの方法です。神はいないと平然と主張している時代で、私たちは時に神の不在を極限まで経験します。しかし、あなたは私たちを決して見捨てておかれませんでした。その極限の状態において、あなたは働き人を通して、「わたしはここにいる。恐れるな」と語ってくださいました。あなたのご計画は、人が期待するちっぽけなものを遥かに越えています。

全国の引退牧師方、また牧師たちを、人の期待に翻弄されることから守り、あなたの御心の通りに用いて、生きておられる主の栄光を表してください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages