お知らせ

2024.09.08 主日礼拝「家族は仕事をする」申命記5:13-15


まだまだ暑い日が続きますが、みなさまご自愛ください。
(ひでまるさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。台風一過の新しい聖日が与えられました。対面するのは2週間ぶりになりますが、いかがお過ごしだったでしょうか。こうして妨げなく主のみ前に集うことができる恵みを共に感謝したいと思います。

昨日は奈宣協の講演会が開かれました。東京にあるミッションスクール、玉川聖学院の安藤学院長が講演をしてくださいました。本当に沢山の気付きをいただきました。みなさまはどのようなことを学ばれたでしょうか。私は、教会に与えられている福音の光、土の器に入れられている福音の宝の力を思い出しました。イエス様が共にいてくださるので希望があるということ。そうだよな、こんな素晴らしい宝をすでにいただいていて、私たちはここに宝があるよと伝えることができるんだと思い出させていただきました。イエス様が十字架にかかってくださって愛を示してくださったという事実がすでにあるということ。なんと素晴らしいことでしょうか。またこんな話もありましたね。「教会は罪人の集まりだよね」と言って、話のオチにしないこと。「教会は罪人の集まりだけれども、教会はキリストのものであるから、キリストが共にいてくださるので希望があるよね」と、主イエス様の希望をオチにすること。そんな話もありました。

主は私たちが口で言っていることと、生き方の自己矛盾をよくご存知で、それを癒そうとして、様々な出来事(時に辛い出来事)にあうことをゆるしておられるということ、もう一度心に止めたいと思います。特に家族・親族の救いを期待して祈ること、祈ってもらうことをやめていないだろうか。関係の薄い人の救いは期待できるのに、関係の深い家族の救いを期待できない現実があるのではないかと問われました。正直なところを分かち合って、神の家族の交わりで共に祈っていくようにと私たちはチャレンジをいただいています。

さて、聖書をお開きください。申命記5:13-15(324ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで家族について御言葉から学んでいます。これまで「家族は主を礼拝する」「家族は教え、学ぶ」とお話してきました。神である主は家族に様々な役割を与えてこられましたが、世にある家族がそれらの役割を見失ってしまっていることに気が付かれたと思います。また神の家族とされた教会についても、私たちは吟味をしなければならないことがあるのではないでしょうか。

今日は十のことばの中から、家族と仕事に関する箇所を開きました。安息日に仕事を休みなさいと言われていますが、ここで「息子や娘、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、他の家畜」も休ませなさいと言われています。これらの人々は、当時のイスラエル人文化では家族でした。私たちが今日考えるよりも多くの人たちです。息子や娘とは、自分自身の子どもだけでなく、彼らの配偶者も含みますし、孫とその配偶者たち、ひ孫たちまで含んでいます。そのような多くの人たちを休ませなさいと言われているのです。これは裏を返せば、家族が共に仕事をしていたことを表しています。父が「休み」といえば、今日の社長が従業員に休業を告げるように、家族は休むことができました。

私たちは「家族と仕事」と聞くと、別の領域の2つのことをイメージします。家族、あるいは家庭とは、仕事以外の時間を過ごす領域、仕事とは家族を離れて働く領域という具合です。

「古代イスラエル人の文化では大家族で一緒に事業をしていたのでしょう。現代は世界が変わって家族と仕事が別の領域になっていったのです」と言うことはできるでしょう。確かに世界は変わってきました。しかし、そもそも仕事は何かと考えますと、現代日本の様式であっても、家族が共に仕事をすることは残っていると思います。

仕事って何でしょう。人はなぜ仕事をするのでしょう。_ 前回の話の中で、クリスチャン経済的価値観は世の中の見方と根本的に異なっていると語りました。私たちの日々の糧は主が備えて与えてくださいます。親が家族の日々の糧を生み出しなさいとは言われていません。主が天から与えてくださるマナを感謝して受けとり、家族に分かち合いなさいと言われています。それゆえに、日々の糧が足りなくなったら、親に要求するのではなく、主に叫ぶのです。主イエス様は「日々の糧を与えてくださるように、天の父に祈りなさい」と教えなさいました。世の中では「生計を立てる手段として従事すること」が仕事であると考えられています。しかし、天の父が日々の糧を与えてくださる世界では、仕事は生計をたてる手段ではありません。それは必要ないからです。

王寺教会の月定献金の袋の中には内訳表があります。その表紙には御言葉を記しています。次の御言葉です。《あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、【主】を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである。(申8:17-18)》確かに人は、富を築き上げるために力を使いますが、その力は主から来た賜物です。このことを私たちは絶対に忘れてはならないのです。

仕事とは、主が与えてくださる賜物(プレゼント)を受け取って分けることです。賜物を用いて、主が創造してくださった世界と他の人々のお世話をすることが、神である主が人に与えてくださった仕事です。世の中では仕事と家を別々のものとして分けていますが、“仕事”と分類していることの中にも、“家”と分類していることの中にも「主が人に与えてくださった仕事」があります。外で仕事してきて、家族のところに帰ってきて休むぞと思っていたら、悲劇が起こります。

最近、ある中年男性のつぶやきを目にしました。子どもが20歳になって、感慨に浸っていた時、妻に「ようやく、『育て上げた』って感じがするなあ」としみじみと呟いたそうです。すると妻に「一緒に育てたという感覚はない」と言われてしまいました。彼は非常に心外に思ったようです。妻と子どもたちが不自由しないくらい稼いで、父親の役割を果たしてきたのになぜそんなことを言うのかと言っていました。でも、夜泣きする子のために一緒に眠れない夜を過ごしたり、わがままをいう子どもたちに翻弄される時間を一緒に耐え、知恵を尽くしながらしつけたり、学校での問題のために先生との面談に一緒に出かけたり、そのようなことがなければ一緒に育てたという感覚は湧いてくるはずはないと思います。お金を稼ぐのが父の役割、家のことは妻の役割というのは、主の掟には書いてありません。神である主が父と母に与えられた役割ではありません。むしろ箴言31章には妻が稼ぐ姿さえ記されています。夫が苦しんで食を得ると書いてあるのは、アダムが罪を犯した場面で言われた呪いです。呪いによってもたらされた役割ですから、「父が稼ぎ、母は家」という役割を全うすれば夫婦関係が壊れるのは当然のことです。主がお造りになった祝福された夫と妻は一緒に仕事をするのです。エデンの園でアダムが仕事をしていた時、主はアダムにエバを助け手としてお造りになりました。仕事の助け手です。夫婦は共に仕事をする。そして家族もまた共に仕事をするのです。

先日、妻が歓迎礼拝で証をしました。証は、聖書の神は確かに生きておられ、私の人生に介入されたことを体験したという話ですね。後でそれを聞きながら、やっぱり私たちは二人で一人前だなと思いました。私は証よりも説教をすることが多いです。でも聖書の話は、実際にこの現実で何かを変えているのでなければ意味はないですよね。私の仕事を妻が完成させる。妻の仕事を私が完成させる。そんなところがあるなと感じました。それは私の妻が資格をもっているかどうかとか、役職がどうかとか、そんなことは関係ないのです。私たちは夫と妻だということです。私たちはお互いに、共に仕事をするようにと主が与えてくださった助け手なのです。

イエス様の母マリアは、カナの結婚式で、イエス様の家族として、助け手になりました。給仕の者たちに「あの方が言われることは、何でもしてください。」と告げました。この結婚式の後、イエス様は家族と共にカペナウムで過ごされました(ヨハネ2:12)。しかし、ある時には、マリヤは息子たちと一緒に、イエス様の働きをやめさせようとしました。その時には、イエス様はこう言われました。《だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。(マタイ12:50)》家族は天の父のみこころを行うために、私の働きを兄弟が助け、兄弟の働きを姉妹が助け、姉妹の働きを母が助け、母の働きを私が助けるという風に、互いに助け合う役割があります。働きをやめさせようとする役割ではありません。

人は主イエス様を信じて洗礼を受け、救われて、神の子どもとされます。互いに神の子どもとされ、神の家族とされます。教会は神の家族です(エペソ2:19)。神の家族にも、天の父のみこころを共に行うという仕事があります。私たちは互いに助け手となって、共に仕事をします。もし、互いに争い合い、妬み、党派心をもって、他の家族の仕事をやめさせようとするなら、それはもはや家庭崩壊です。家族とされながら、家族の役割を果たすことがない二重性のある矛盾した状態です。教会が仮面家族になっていることはないでしょうか。白く塗った墓のような姿で、まるで上手く行っているかのような涼しい顔をしながら、ハレルヤ、ハレルヤと言っていないでしょうか。内側がきよめられなければ、良いものは出てきません。

さて、「教会も罪人の集まりだね」と言って終わってしまいそうなところですが、それを話のオチにしないというのが、昨日の講演のポイントのひとつでした。キリストの希望があることを思い出しましょう。

今日の箇所は安息日に仕事を休みなさいと命令されている箇所です。なぜ安息日に仕事を休むのでしょうか。古代イスラエル人が荒野にいた時、天から降るマナを集めました。6日間毎朝、その日の分のマナを集めて食べました。しかし、6日目だけは2日分のマナが与えられました。そして7日目の安息日にはマナは降らず、6日目に集めたマナを食べました。これが意味しているのは、「マナは主の恵みであって、労働の対価ではないことを覚える」ということです。安息日に仕事を休むのは「私の力がこの仕事を成し遂げたのだ」と言わないためです。天の父のみこころである仕事は、労働の対価を得るためのものではなく、神の賜物を受け取って分け与えることであるから、安息日にそのことを思い出すのです。すべてが神の賜物であることを忘れてしまうから、仕事の功績にプライドがうまれ、競争がはじまり、党派心によって分裂してしまいます。アブラハムとロトの家はどうして分裂してしまったのでしょうか。一緒に仕事をしていた人たちが争い始めたからです。

私たちは安息日を覚えようではありませんか。それぞれに神様からの賜物が与えられていることを思い出しましょう。賜物はそれに値しない者に与えられた恵みなのですから、誰も賜物によって自分自身を誇ることはできません。誇っているのは誰でしょう。妬んでいるのは誰でしょう。主は安息日に、私たちがまた共に仕事をできるように、家族をいやしてくださいます。

お祈りします《六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。》

天の父なる神様。安息日の主よ。すべてのことは神から発し、神によって成り、神に至ります。あなたに栄光がとこしえにありますように。

あなたは夫婦に役割をお与えになったように、家族に役割をお与えになりました。また世の家族が御心を行うことを忘れてしまったので、もう一度、信仰による神の家族を作ってくださり、賜物を与えてくださいました。ところが私たちはまた奴隷の家に戻って、自分の力を誇り、他の人の力を妬み、あなたの御心を忘れかけています。このような私たちを、どうかあわれんでください。あなたのあわれみが尽きないこと、怒りが遅いことをどうか思い出してください。

今日、私たちはあなたの安息をおぼえています。ただひたすら恵みを受ける日を過ごしています。私たちの目を開いて、隠された内側をあらわにしてください。内側からきよめてくださって、神の家族と共に仕事を喜ぶことができるように作り変えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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