お知らせ

2024.8.25 伝道礼拝(第4聖日礼拝)「1コドラントの感謝」マルコの福音書12章38~45節

 


夏休みも終わりの週になります。子供達も親もソワソワする時期、台風も日本列島を直撃するらしい!
今週も守られますように!(りべか)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。一週間を越えて、待ち望んだ主の安息の日がきました。この日を共に喜びましょう。

休みといえば、我が家では学校の夏休みなのですが、最後の週になりました。気になるのは宿題です。とにかくやれば終わるドリルなどは先に終わっていきます。でも、アイディアを出さなければいけない課題はどうしても最後まで残ってしまうものですね。特に小学1年生の宿題というのは、まだ子ども一人で出来ませんので、親が宿題に追われているような気持ちになっています。

イエス様は2千年前に天に昇っていかれ、私たちの目に見えなくなられました。目に見えなくても、世の終わりまでいつも共にいてくださって、私たちを救ってくださっている主イエス様ですが、天に昇られる前に弟子たちに言われたことばがありました。《あなたがたは行って、あらゆる国の人々を(主イエス様の)弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:19-20)》

私たちはイエス様の宣教の働きに招かれて、(み名によってとは、主が業をなしてくださるということですが)主とともに働いて、実を刈り取る喜びを与ることになっています。そういうわけですから、主の日が迫っている中で、ますます神の恵みを人々にお知らせしていきましょう。イエス様について行って、どんなに私たちの人生が良くなったのか。あらゆる苦難の中で、ますます主を見出すようになり、私たちがかえって感謝と喜びに満ちあふれていることを隠さないで、港の灯台のように高いところに置きましょう。神の国が世の仕組みとは全く異なるものであり、あらゆる社会問題の解決は神のあわれみにあることを、私たちがこの群れの中で直に経験し、証していきましょう。人々が、イエス様を信じて、父、子、聖霊の名において洗礼を受け、天の父の家(神の家族)に帰ってくることができるように、私たちはイエス様のことばをいつも思い出していたいと思います。

聖書をお開きください。マルコの福音書12:38-44(94ページ)【聖書朗読】

今日の箇所では、やもめが登場してきますが、直接イエス様とのやり取りがあったわけではなくて、イエス様が彼女の様子をみて人々に教えられたという場面でした。

ここは何かと誤解の多い聖書箇所です。当時の背景が分からないままに読みますと、イエス様が単に多額の献金を素晴らしいと言って、人々に献金させようとしているようにも見えて、特に現代の感覚ですと、なんだか嫌な感じがする人も少なくないのではないかと思います。しかし、「やもめ」という立場の人たちが、当時どのように生活していたのかが分かると、印象が全く変わってしまうと思います。

イエス様は律法学者たちについて《やもめたちの家を食い尽くし(12:40)》とおっしゃっています。このことと、やもめが生きる手立てのすべてを投げ込れたことは明確に対比されていることなのです。

やもめとは神の民の中でどのような人たちだったのでしょうか。やもめとは、夫に先立たれて、再婚しない(できない)でいる人たちのことです。いま、私たちは家族について、旧約聖書から学び始めていますが、父の家には親を失った孤児たちや夫を失ったやもめたちも留まって、父から養いを受けるはずです。ところが、歴史の中で、主ヤハウェが強調して、何度も何度も語っておられたことがありました。それは、「主は絶対に孤児(みなしご)を見捨てない。主はやもめを見捨てない。」という言葉です。その言葉が強調される背景を想像するに、人々の間では孤児が見捨てられ、やもめが家から追い出されていたということでしょう。主を恐れる、敬虔な人々の家では孤児も、やもめも、在留異国人も、あらゆる不遇にあった人々が守られ、養われ、礼拝の場に共にいたのです。しかし、残念ながら、どんなことが想像できるでしょうか、家の外からやってきた嫁であった人たちが夫を失い、やもめになった時、多くの父たちは彼女たちを養い続けることを喜ばなかったのです。旧約聖書のルツ記に、外国から帰ってきたやもめのナオミが、戻る家族(父の家)を探している場面が出てきます。律法には、そういう場合の迎える家の優先順位が決められていました。ところが優先順位が高かった家の父が、ナオミたちを受け入れなかったことが書いてあります。本当にひどい状況ですね。

主は神の民におっしゃいました。《やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。(出22:22-23)》そして、やもめたちが守られるように制度を設けました。民からささげられた十分の一のささげものから、彼女たちの生活の糧が与えられるという制度です。申命記にはこのようなことばも書かれています。《第三年、十分の一の年にあなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みの中で食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、【主】の前で言いなさい。「あなたが私に下された命令のとおり、私は聖なるささげ物すべてを家から取り分け、それをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えました。私はあなたの命令を一つも破らず、またそれらを忘れませんでした。…私は、私の神、【主】の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なる住まいの天から見下ろして、御民イスラエルと、あなたが私たちの父祖たちに誓われたとおり私たちに下さった土地、乳と蜜の流れる地とを祝福してください。(申26:12-15)》

当時、不遇により収入が途絶えてしまった人たちには、民から集まった十分の一から生活の糧が与えられました。そして、十分の一から生活の糧を与えられた人たちは、自分たちが与えられたものから十分の一を取り分けて、主にささげました。ですから、ささげ物や献金には、まず大前提として、すべての人が神様から必要以上に豊かな収入をいただいているということがあるのです。主は気前の良いお方です。朝から働いている人にも、夕方から働き始めた人にも、働き以上にあふれるほどに恵みをお与えになるお方です。現代の私たちにも同じです。私たちの日々の糧は、人の努力の結果ではなくて、豊かな神の恵みの賜物です。

ところが、人間は収入が天の神から与えられるのではなく、自分で汗をかいた分だけ無から表れてくると信じようとする罪があります。巷には人が作ったゲームが沢山あります。人が考え出した世界が表現されています。その中では、報酬というものがありますが、どういうわけか、報酬はプレーヤーが何かを頑張ると、無からお金やら経験値が生まれてくるのです。それが人間の考える理想の世界です。現実の世界でも、なるべく人々が努力に応じて報酬を得られているように見せかける制度が作られています。でも、よく観察するし、人生経験を積んでいくと、実際には努力に応じて報酬が湧いてくるわけではないと気が付きます。神の恵みをまるで自分で生み出したかのようにして利用している人たちと、本来、神様からあふれるほどに恵みを与えられているはずなのに、奪われてしまっている人たちがいます。主がこの世界を滅ぼそうとするほどに怒っておられるのは、その罪のためです。

主は気前の良く与え、私たちを養ってくださるお方です。不遇により困窮してしまった人たちは、ささげ物をする前に生活の糧を与えられていました。その上で、与えられた収入を取り分けなさいと主は言われました。献金というのは、与えられた収入の一部を自分のために利用しないで、手を付けないで主に返すということです。そうすることで、この収入は神の恵みによって与えられていますと告白するのです。

さて、今日の箇所に戻りましょう。律法学者たちは《やもめたちの家を食い尽くし(12:40)》ていました。やもめたちの収入は人々の献金から配給されます。やもめの家を食い尽くすとは、働くことの出来ないやもめたちが豊かに収入を得られるように献金をしていないということ、また献金の用途を別のところに振り分けてしまっているということです。彼らは献金する時に、お金をコインに替えて、周りの人々からよく見えるところで、コインが流れる大きな音を立てながら、献金箱に投げ入れていました。見栄をはっていたのです。彼らの心にあるのは、豊かに与えてくださった主への心からの感謝ではなく、神様に豊かに与えてやっている私の素晴らしさを人々がほめたたえるようにという考えです。そのような心であれば、それは収入の一部を取り分けているのではありません。収入の全部を一円も残さず利用して、私の価値を上げようとしています。献金していても、手を付けないでいることにはなりません。神のものである富を自分のために利用して献金しているのです。こういう人たちはより厳しい罰を受けます。

しかし、貧しいやもめはレプタ銅貨を2枚投げ入れました。今の価値でいうと100円とか200円とか、その程度のものです。でもそれは、その時彼女が持っていた全財産でした。200円あれば、最後に菓子パンとお茶くらい買えるかもしれないですね。でも、彼女の心の中はどうだったでしょうか。「主よ。いつも日々の糧を与えてくださってありがとうございます。十分にいただきました。残った分がありますが、また次の配給日にあなたは必要を与えてくださいますから、全部お返しします。私の命はあなたの恵みによります。」そうして生きる手立てのすべてを静かに投げ入れました。

もし彼女が配給制度を信じられなかったらどうだったでしょうか。いつ収入がなくなるか分からないと心配していたら、一円でも節約して、一円でも手元に残しておきたいと思うのではないでしょうか。その当時も意地悪をする人たちは沢山いたと思います。それでも、彼女は敵から守ってくださる主を知っていました。生活の糧を保証してくださる主を知っていました。与えられているものが神の恵みであることを知っていて、心から感謝していました。イエス様は彼女を見て、「わたしはこの人を決して見捨てない」と思われたに違いありません。イエス様は2匹の魚と5つのパンで5000人の食事を用意されました。イエス様が決して見捨てないと言ってくださるなら、生活の心配は一切なくなります。

富が有り余っている人々は、その意味をよく考えなければなりません。神である主がすべての人に惜しみなく自然の恵みを与えておられるにも関わらず、なぜ富が偏っているのでしょうか。「私だって明日はどうなるか分からない」と考えているのでしょうか。私たちが困窮して、行倒れそうになっている時、頼りになるのは富ではありません。無から命を生み出すことができ、人々の糧を備えることができるお方だけが頼りになります。主の家に住む人たちが生きるのです。どんなに資産を貯めていても、明日戦争が始まれば紙くずです。昨今の円安どころの話ではありません。円の価値はたった一夜でなくなるでしょう。そのような時に、私の努力が私の糧を保証すると言えるでしょうか。災害の日にそんなことを言っていられるのでしょうか。「そう考えるならば、そのようにやってみなさい」と主から言われてしまうだけではないでしょうか。

罪を悔い改めて、主イエス様を信じましょう。主はあなたの罪の罰を代わりに受け、私たちが呪いの代わりに恵みを受けるようにしてくださいました。信じて洗礼を受ける人は救われます(マルコ16:16)。救われて神の子とされ、天の父の家に迎え入れられるのです。父の家には豊かな祝福があります。日々の糧を心配することはありません。

お祈りします《「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」》

天の父なる神様。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、私たちの神である主、あなたのものです。あなたは偉大で力があり、えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのために裁判を行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられます。

しかし主よ。私たちは罪を犯して生きてきました。この世界に恵みの神がおられないかのようにして生き、あなたが与えてくださった日々の糧を、自分の努力の結果だと誇り、主の御名をほめたたえ感謝するために取り分けるはずのものに手を付け、貧しい人に分けるためのものまで奪って自分の利益のために用い、お金を貯めて自分の将来は安心だと思っていました。主よ。このような罪深い者たちをあわれんでください。

イエス様。あなたは私たちが受けるべきであった罰を代わりに受け、私たちに祝福の道を備えてくださいました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)」と言われたイエス様。いのちのパンであるあなたが、私たちのところに来てくださったことを感謝します。私たちの日々の糧は、いのちのパンです。あなたを信じます。もう一度、あなたの家にしもべの一人として迎え入れてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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