猛暑を越え、朝晩が涼しくなり、秋らしい気候になりました。食欲の秋が到来しました!
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。2024年の召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。王寺教会では毎年一度、教会員であった、また教会に関わりのあった召天者を偲んで、召天者記念礼拝をもっています。お一人ひとりを思い出し、私たちもその信仰に倣って、天の御国を待ち望んで、地上の生涯を歩み続けたいと思います。
この一年は3名の方が天に帰られ、全員の数は49名となりました。この午後には4名の教会員の納骨式を行おうとしています。このことは地上の別れという意味では大変さみしいことですが、イエス様が生ける神、主であることを証し続けて生涯を全うした方々がさらに増えて、証人として私たちを取り巻いているということは、本当に心強いことです。ヘブル12:1《こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。》とある通りです。
さて、聖書を開いてお話をさせていただきたいと思います。ヨハネの福音書14:1-6(213ページ)【聖書朗読】
イエス様の言葉を開いて読ませていただきました。この話には、実は前から繋がっている話があります。13:36《シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」》イエス様は弟子たちを置いて、どこかに行ってしまうことを匂わせる発言をしておられました。それで心がざわざわと不安になってしまった弟子たちに対して、「あなたがたは心を騒がせてはなりません」とおっしゃったのです。
私たちも、先に召された方々がどこに行ってしまったのだろうかと、心がざわざわと心配になってしまうことがあるのではないでしょうか。でもそんなあなたにも、イエス様は「心を騒がせてはなりません」つまり「心配する必要はありません」と語っておられます。イエス様はその理由を明らかにしてくださいました。イエス様の父の家には住むところがたくさんあって、イエス様を信じる人たちのための場所があり、そこに迎え入れられるからです。
「父の家」という言葉は、聖書に何度も出てきます。「父の家ってなんやろ。キリストの実家ことかな」とか、みなさん色々と想像されるでしょう。この「父の家」とは、実は家族とか一族という意味の言葉です。(王寺教会では最近、この父の家(家族)をテーマに聖書から学んでいますが、もし興味がおありでしたら、YouTubeで見てください。)父というのは、単なる父親という意味だけでなく、一族の長ということです。父の家は一人の長のもとに集まる大家族なのです。その一族の長をイエス様は「わたしの父」と言われました。父は天地を造り、すべての人をお造りになった主です。すなわち、私たちにとって、私たち一人ひとりを愛を持って形作ってくださったお方です。私たちは父の家(父の家族)をまだ見たことがありませんが、実は本来私たちが属していた家族であり、私たちはやがて父の家族のもとに帰っていくのです。
その大家族の敷地には住むところがたくさんあります。沢山あるということは、もう住むところが足りないよといって弾かれてしまう人はいないということです。たとえどんなに優先順位が低い、一番最後の人になったとしても、主はご自分の子どもたちを見捨てることはありません。父の家には必ず住むところが十分に用意されています。順番が1番だろうが、49番だろうが、たとえ100番でも200番でも。大人であっても、子どもであっても。能力が高くても低くても。実績があってもなくても。父の家には必ず私たちの場所があります。
場所があるということですが。場所があるということは単に空間があるとか、建物があるとかだけの話ではなくて、家族の中に居場所があるということを指しています。我が家の中で、いつも妻は料理をしてくれます。私も出来なくはないのですが、妻の料理が食べたいという子どもみたいな理由で、作ってもらっているわけです。そんな私たち一家は年に1度くらい妻の実家に帰ることがあるわけですが、妻はそれをとても楽しみにしています。理由を聞いてみたら、料理しなくていいからと言うんですね。主イエス様は、人々に、また弟子たちに食事を振る舞われたことが何度もありました。5000人の給食とか、最後の晩餐もそうです。また十字架にかかって死に、墓からよみがえられた後に、ペテロのために魚を焼いて与えてくださったこともありました。このようにしてイエス様は天の御国では、食事が豊かに用意されていて、振る舞われるということを教えてくださっていました。父の家は、単に住居空間が置いてありますよというだけの話ではなくて、私たちに必要なものが豊かに用意されて、豊かに与えられるところなのです。恵みにあふれているところです。その恵みからこぼれる人はひとりもいません。日本人は昔から、亡くなった方があの世でひもじい思いをしないように、食べ物をお供えするという風習があります。確かにそれは心配なことでしょう。たとえ他界しても心配するということは、家族としての愛を感じることですね。でもイエス様は心配しなくても大丈夫ですよと言ってくださっています。なぜなら父の家(家族)に帰るのですから、食べ物、住むところ、着るもの、あらゆることを心配しないで、いつも父から与えられて生きることができるからです。
しかし、トマスが言ったことは確かなことです。《トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」》父の家があることは確かであっても、私たちが本来属していた家族であることが確かであっても、果たして、私たちは一度もそこに行ったことがないのに、父の家にどうやってたどり着くことができるのでしょうか。
その問いにイエス様はこう答えられました。《わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。》数年前の召天者記念礼拝で、同じ箇所から、イエス様が私たちを迎えに来てくださるので、誰も道に迷うことはないというお話をいたしました。イエス様が迎えに来て、父の家まで連れて行ってくださるのですから、誰も迷わずにすみます。でも、逆に言えば、イエス様の迎えなしに、父の家にたどり着くことはできないということです。今朝、私たちがおぼえた49名の召天者のみなさんは、その道を知ったのです。すなわち主イエス・キリストを信じました。
父なる神、主によって形作られ、本来は父の家族に属しているはずだった私たちは、すべての人が生まれながらに罪をもち、また人生の中で神である主を受け入れないで生きてきた罪を重ねて来たために、アダムとエバのように父の家から追放され、あるいは放蕩息子のように父の家から意気揚々と出ていった者たちです。その罪のために、私たちはみな、やがて死んで父の家に帰る希望を失ったのです。しかしイエス様は天から私たちのところに来てくださって、私たちの身代わりとして十字架にかかり、罪の代価を支払ってくださいました。主イエス様を信じるなら、どんな人もただ恵みによって救われます。そして父の家に帰る道をついに見つけるのです。
お祈りします《イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。》
天の父なる神様。すべての人が救われて、父の家に帰ってくることを待っていてくださる私たちの主よ。あなたの愛と恵みのゆえに心から感謝いたします。
この朝、私たちは49名の召天者の方々を偲んで、記念礼拝をあなたの御前にもちました。イエス様、あなたが約束通りに、このお一人ひとりを迎えて、父の家に連れて帰ってくださったことを感謝いたします。地上で別れたことは本当にさみしいのですが、でも、心配することはないと知って、安心しています。天からお一人ひとりの語りかけが聞こえるようです。「だから、どんなに大変なことがあっても、イエス様を信じて歩み続けなさいよ」と。
主よ。どうか私たちの罪をおゆるしください。私たちもまた父の家に帰りたいと思います。道であり、真理であり、いのちである主イエス様。あなたを信じます。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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