お知らせ

2024.8.11 主日礼拝「家族は主を礼拝する」申命記14:22-26

炎暑の中でも元気すぎる百日紅の花は奇跡のように思えます。
今日は久しぶりの主任牧師のメッセージです。(りべか)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。先聖日は、姉妹教区の沖縄地区応援を理解してくださり、お祈りとともに送り出してくださってありがとうございました。聖日の説教奉仕の後、(奈宣協のような)沖縄福音連盟の青年キャンプに参加し、昨日帰ってきました。牧師が他の教会もサポートするために出かけること、その間に主日礼拝と祈祷会があったことは、私たちにとってチャレンジであったと思います。犠牲は普段よりも大きかったはずです。幸いに道程師が礼拝説教をしてくださいましたので、受診礼拝の一歩手前というところで、主のあわれみをいただきました。先の一週間、祈りつつ、主からの訓練に耐えてくださったこと感謝しています。私も向こうに行って、実際予定もたくさん詰まっていましたが、王寺はどんな様子だろうかと思いながら、お祈りしていました。

今回、特に、牧師の不在中に祈祷会をもてたことは、大きな信仰的前進であったと思います。今までは「牧師が他出するなら祈祷会はお休みですね」という雰囲気があったかもしれません。しかし、牧師がいないから祈祷会は止めておきましょうというのは、本来的には変じゃないかなと思います。祈祷会ではなくてそれぞれで祈る週にしましょうと予定された時があってもいいと思いますが、牧師が都合がつかないから休みましょうという雰囲気があるとすれば淋しいなと思います。牧師が不在でもイエス様はおられるわけですから、群れとしてどんな時も主とコミュニケーションを取りたいと思います。「今週は牧師は他出するのですか、それは残念です。一緒に祈れたらよかったけど。それじゃ、今週は他に集まれる方で一緒に祈りましょう」という群れ全体の雰囲気ができてきたらいいなと願っています。また、同時に、牧師が他の教会に応援に行くということは、応援に行っている教会では普段は牧師がいないわけですから、向こう方々の喜びも想像していただけたら幸いに思います。沖縄3教会のみなさまは今回の訪問を本当に喜んでくださいました。みなさまの愛の犠牲があったからこそ実現したことです。ありがとうございました。

先週も、普段と変わらず、主イエス様が私たちの群れを導いてくださったことをおぼえて、共に感謝したいと思います。

聖書をお開きください。申命記14:22-26(341ページ)【聖書朗読】

「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」を旧約聖書から学んでいます。この世界で最初の人間関係は夫婦でした。今日からは、夫婦の次の人間関係である家族について主の御心を学んでいきます。

家族といいますと、誰でも家族とは何か分かっていると、みなさん思われると思います。「家族とは何でしょうか。家族とは誰でしょうか。家族は何をするのでしょうか。」実はこの一見誰でも分かっていそうな質問は、突き詰めると共通の答えがありません。同じ時代に同じ集落で生まれ育った人たちなら、あるいはほとんど共通の答えをもっているかもしれませんが、例えば都会育ちと田舎育ちでは考えが違うでしょう。昭和の人と令和の人でも違うと思います。あるいは、北陸出身の人と関西出身の人、もっと言えば国が違う人同士では、「家族」ということばで全然別のことを想像していることがあるわけです。大抵は結婚した後に、この世界には家族観が違う人がいると気が付きます。

「家族とは何か。家族とは誰か。家族は何をするのか。」聖書を読むと、家族が初めて登場するのは、アダムとエバがエデンの園を追い出されてしまった後です。すでに主を離れて、自分の判断で、自分の目に良いと思うことを始めていました。神である主が定められた家族の定義のようなものは、残念ながら創世記には記されていません。古代の族長たちやイスラエル人たちがもっていた家族観をもとに、主が「家族」に役割を与えられたことは聖書に記録されています。

そういうわけで、「旧約聖書はこのような集団を家族としているから、21世紀の日本に住む私たちも同じように家族を考えよう」と言う必要はないということです。ただし、聖書で「家族」という言葉を見かけたとき、自分の常識で考えていると誤解することがあるので気をつけましょう。

また私たちは「家族」について、新約聖書が大切なことを語っているのを知っています。それは、教会が「神の家族」であることです。旧約聖書では、神である主は家族に役割を与えておられます。ですから、ユダヤ人たちは家族を大切にしていたのですが、イエス様はある時に驚くことを言われました。それは、イエス様の身内の人たちが「イエスはおかしくなった」と言った時のことです。イエス様の母と兄弟たちがイエス様のところにやってきて、働きをやめさせようとしました(マルコ3:21)。その時、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」とおっしゃって、続けて《だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。(マルコ3:35)》と言われました。これにはユダヤ人たちはびっくりしたでしょう。家族を大切にしないなんてケシカランと思ったに違いありません。しかし、イエス様は「家族」が本来果たすべき神様の計画を果たすことができていないことを指摘し、「家族」に代わって、教会が家族の役割を果たしていくことを言われたのだと思います。

さて、具体的にどういうことかお話しましょう。創世記以降に出てくる族長たちや古代イスラエル人たちは誰を家族と呼んでいたのでしょうか。現代日本に住む私たちの感覚ですと、極端に言えば、夫婦だけで家族という場合もありますし、シングルの親と子で家族ということもできます。しかし、彼らはもっと大きな集団を家族としていました。「父の家」という表現が度々出てきますが、この父というのは、私たちの感覚ですとお祖父さんのことです。一番上の世代の夫が「父」で、妻(たち)がいて、2代目の子にあたる兄弟姉妹たちとその配偶者がいます。そして3代目の孫たちがいて、時には4代目のひ孫たちがいます。彼らの中には親を亡くした孤児たちや、配偶者を亡くしたやもめたちも含まれます。さらには使用人や何らかの理由で外国から家に加わった異国人が父の家に加わっていて、また祭司やレビ人を含むこともありました。それを全部ひっくるめて家族(父の家)と呼んでいたのです。新しい家族が生まれるのは、結婚したときではなく、基本的には一番上のお祖父さんが亡くなった時です。父が亡くなると、新しい「父の家」ができます。私たちの感覚とは随分違うことをお分かりいただけたかと思います。聖書はイスラエル人の家族構成こそ絶対だと言っている訳ではないので、私たちが夫婦2人を家族と呼んでも別に問題はないのですが、聖書を読む時には彼らの常識を頭に入れておいていただきたいと思います。

今日の箇所に「家族」が出てきました。26節の後半です。《そしてあなたの神、【主】の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。》これは何をしているのかというと、礼拝です。まず収穫の十分の一をささげなさいと言われています。そして「主が御名を住まわせるために選ばれた場所」と出てきますが、これは礼拝所のことでした。だいぶ前にお話したことがあったと思います。民がカナンに入って暫くの間(士師記の時代)、人々はカナンの領土のあちらこちらで主を礼拝していました。ただし自分たちの好きな場所で礼拝していたというわけではなく、主が御名を住まわせるために指定された場所に集まって礼拝しました。時に、それは主の箱が安置されている場所でした。またソロモンが神殿を建てた後には、エルサレム神殿に主は《わたしの名をそこに置く(I列王記8:29)》と言われました。主が御名を住まわせるために選ばれた場所とは、すなわち礼拝所のことです。家族は、礼拝する場所にささげものを携えて集まり、何をするのでしょうか。《いつまでも、あなたの神、【主】を恐れることを学ぶため》に、主の前で、穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を家族で食べます。家族で主にささげたものを共に食べ、喜び楽しむのです。これは礼拝の様子です。

え、礼拝なのに会食?と思われた方はおられるでしょうか。そうなのです。この会食が祭りの礼拝です。父の家にいる子どもたちは、「これはどういう意味ですか」と尋ねるでしょう。出12:25-27《あなたがたは、【主】が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』》このように食事をしながら、主が成し遂げてくださったこと(神の物語)を子どもたちに語るのです。それは父の信仰の表明の場でした。「私は主の救いを経験した。あの救いをいつも思い出すために、このささげ物があり、私たちは今、それを共に食べて、喜び楽しんでいる。主を恐れ、主がしてくださったことを決して忘れないためだ」と。また父の信仰が子どもたちの信仰になる場でした。子どもたちは、出エジプトを自分では経験していませんでしたが、父の語る神の物語を聞いて、聞くことによって出エジプトを体験し、主が「私を」救ってくださったと告白するようになります(申5:3)。

私たちは交わりと呼ばれる活動を時々します。そして「楽しかったですね」と言って、終わってしまうことがありますね。「神様。楽しかったです。ありがとうございました」と祈って終わってしまうことがあります。しかし、これは、神の家族の活動としては実は失敗しています。かつて初代教会は毎週日曜日に集まって礼拝していました。第1部は御言葉と祈りの時間、第2部は会食と聖餐式の時間でした。一緒に食事をして、それは楽しいと時間だったはずです。でも、その食事には意味がありました。イエス様の十字架を思い出すという意味がありました。パウロは言っています。《主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(Iコリント11:23-26)》主イエス様が定めてくださった様々な神の家族の営みは、「神の物語を語り告げる」という目的を持っています。飲んで食べて楽しかったね、で終わってしまったら目的を見失っています。「イエス様が十字架によって私たちを救ってくださったから、私たちはここに集まっている。主イエス様が私たちの日々の糧を与えてくださっているから、この食事がある。主はあの民を過越の犠牲によってエジプトから救い、荒野でマナを降らせ、約束の地に導き入れて、豊かな収穫を与え、養ってくださった。」このように交わりの中で神の物語が思い出されるなら、成功(目的を果たした)と言えるでしょう。

家族はこのように礼拝をする集団です。主が家族に与えられた役割は、第1に礼拝です。家族の役割は何でしょうかと聞かれて、礼拝ですと真っ先に答える家族は世の中にどれほどあるでしょうか。「私の家族の現状は…」と考え心が痛むクリスチャンも多いのではないかと思います。イエス様は神のみ心を行う人たち(教会)が神の家族だとおっしゃいました。この教会に、礼拝を第1の役割とする神の家族があることは何という慰めでしょうか。

それでもなお、本来、家族と呼ばれるはずの「私の家」が礼拝をする集団であるように、あきらめないで祈りましょう。主はそれを願っておられます。

お祈りします《あなたの神、【主】の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。》

天の父なる神様。私たちは膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。

あなたは私たちのところに来てくださって、新しく神の家族を与えてくださいました。しかし、教会さえも、時にあなたの救いを語り告げることを忘れてしまいます。なぜ私たちが楽しむことができるのか、あなたが何をしてくださって私たちが喜べるようになったのか、神の物語を語ることを忘れています。今日、私たちが天からの豊かな恵みを喜び楽しんでいるのは、あなたが私たちひとりひとりを救ってくださったからです。イエス様、あなたがご自分のいのちを惜しまれないで、私たちの贖いの代価として十字架にかかり、すべてを完了した後に、よみがえられたからです。私たちはいま、主の復活の勝利によって永遠のいのちに与り、神の恵みを神の家族と共に喜び楽しんでいます。

感謝して、主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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