お知らせ

2024.7.28 主日礼拝 「イエス様を拒絶していた人」ルカの福音書8:26-39

 


夏の花達は偉いなあと思います。
熱くて日中、外に出られない!私たちは何としてもご飯食べて栄養とって眠って、祈って神様から与えられた大事な命を、主と共に生きなければ!(りべか)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今朝も主イエス様のみ名によって私たちは集まってきました。イエス様によって救われ、主に感謝する人たちが集まって礼拝するというので、「私もともに主イエス様に感謝しよう」と思って、おひとりひとりがここに集まって来られました。先週はどのような場面で主を見つけ、主の栄光を見たでしょうか。互いに証し、み名をあがめましょう。

今年は新たな試みとして福音書を観る会を始めました。ヨハネの福音書を実写化したものを観て、イエス様をより深く知ろうということで、すでに2回開かれています。ご参加くださっている方々は、映像化されたイエス様の姿を見て、どのようにお感じになっておられるでしょうか。映像で見るイエス様の姿は結構生々しいですよね。私たちは目に見えない神様がどこにおられるのだろうと思ったりして、目に見えるように現れて話しかけてくれたら良いのにとか考えることもあるでしょう。ところが、イエス様が人として生まれてくださって、人々と話している様子を(本物の映像ではないにしろ)見ると、「果たしてこの人が天地を造られた神であると信じられるだろうか」と思うことがあるのではないでしょうか。当時のユダヤ人たちがイエス様を信じられなかったのも理解できるなんて思ったりしないでしょうか。そのような時こそ、私たちの信仰を確認してみたいと思います。実際に、2千年前に遡ったなら、イエス様が地におられて、人は主を見て、聞いて、触れることができました。主は地に来られて、確かに世に存在しておられることを示されました。その主イエス様を私たちは信じています。ですから、私たちの信仰もまた、単に心の持ちようではなく、他の人たちが見て、聞いて、触れることのできる信仰でなければなりません。毎日をイエス様と共に歩んでいること。主を讃美し、いつも主に祈っていること。洗礼を受けて、イエス様の教会に加わっていること。十字架の贖いを記念する聖餐を受け取っていること。イエス様の教えを聖書から学び、従っていること。私たちの信仰は、ただ何となく心の中で「イエス様~」と念じているだけのことではなく、現実に生々しく現れているものなのです。

聖書をお開きください。ルカの福音書8:26-39(ページ)【聖書朗読】

今日の箇所でイエス様と出会った人は、悪霊につかれている男性でした。彼はレギオンと名乗りました。レギオンとはローマ軍の軍団のことです。前回はイエス様と出会った百人隊長の話をしました。その時に、ローマ軍の組織を説明しました。百人隊は一番小さな兵士のまとまりです。百人隊がいくつも集まって中隊となり、中隊が集まって大隊となり、大隊が集まって軍団(レギオン)となります。レギオンとはすなわち数え切れないほど多くの兵隊の集合のことでした。

彼は「私の名は軍団です」と言いました。本名ではないと思います。彼の中に多くの悪霊が入っていたから、彼はそう名乗ったと書いてあります。悪霊とは何でしょうか。汚れた霊とも書いてあります。「汚れた」という言葉は、よごれて汚いという意味ではなくて、きよくないということです。きよいとは、主に属する、主のものであることなので、汚れたとは主から離れた、主に反対するものということになります。その悪霊は31節をみると、イエス様に懇願していますので、意思のある存在です。この人の精神状態を擬人化しているとか、比喩的な表現ということではなく、意思を持つ霊として存在しています。悪霊につかれている男性が話す言葉は、彼自身の言葉か、悪霊たちが操縦して話させているのか曖昧です。混じっているようにもみえます(マルコ5:9)。

この悪霊たちの仕業によって、彼の人生はめちゃくちゃになっていました。彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいました。人々は彼を鎖と足かせでつないで監視していましたが、彼は鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまいました。またマルコの福音書(5章)の方を読むと、彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたようです。人気が無い墓場や荒野に住処をうつし、鎖と足かせと監視を受け入れ、自分を攻撃する姿を見ると、彼は他の人たちに何とか迷惑をかけないように一生懸命だったようにみえます。「私は他の人に近づいてはいけない。私は存在してはいけない恐ろしい生き物だ」と思い込んでいたのかもしれません。イエス様を見て、話しかけた時の状況を見ると、今日解明されてきている障害(知的障害や自閉症から現れる強度行動障害など)とは様子が違います。自発的に言葉で意思を明確に伝え、イエス様に対してひれ伏すという状況に沿った行動を取ることができています。障害と悪霊の問題は別の話です。イエス様は歩けない人や話せない人など、障害も癒やされましたが、その時には悪霊を見つけませんでした。今回の彼は明確に悪霊につかれていて、神に反対し、神が造られたものを壊そうとする意思に囚われていました。

しかし、良い知らせがあります。悪霊につかれて困り果てていた彼を救うことのできるお方が来られました。主イエス様です。主イエス様は地に来られて、嵐を鎮め、人々の食事を豊かに備え、病や生まれつきの障害を癒し、悪霊を追い出し、神の国を宣べ伝えておられました。そのイエス様が彼のもとに来てくださったのです。彼を救うために来てくださいました。旧約聖書のエゼキエル書には神である主の約束が語られていました。民が外国に引いていかれて、諸国の神々に仕えるようになった後で、主が彼らを救われるという約束でした。そのことばはこうです。《わたしはあなたがたを諸国の間から導き出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せて増やし、飢えをあなたがたに送らない。(エゼ36:24-29)》このことばにあるように、主は汚れた霊をきよめて私たちを救い、私たちのうちに新しい霊を与えてくださるお方なのです。

今日にも、人々は宗教的なものにあまり関わらなくなってきたとはいえ、オカルトに興味を持つ人は一定数いるようで、興味本位で様々な霊にふれて困ったことになっている方もおられるのではないかと思います。主はあなたを救うことがおできになります。

悪霊の働きは聖書のいくつかの箇所に少しずつ記録されていますが、今回の男性に対して顕著な働きは、彼を神である主から引き離そうとしていることです。イエス様は彼を助けることがおできになる唯一のお方でした。そのお方が、来てくださって、汚れた霊にこの人から出て行くように命じてくださったのです。なんという素晴らしい救いでしょうか。ところが、彼はイエス様を見ると叫び声をあげて「お願いです。私を苦しめないでください」と言いました。苦しめているのは悪霊であって、イエス様は救うために来てくださったのに、彼はイエス様を跳ね除けようとしていました。悪霊の意思が、彼自身の考えに染み込んでしまったのでしょうか。主イエス様が近づいてこられると私は苦しいと思い込んでいました。

救ってくださるお方を自ら拒否してしまうなんて、もう希望がない、、、と気落ちしないでください。それでも、イエス様は彼についていた悪霊に権威をもって命令し、悪霊たちを追い出してくださいました。彼はイエス様が近づくと私は苦しいと思い込みながらも、(実際苦しみを感じていたのでしょう。でも)イエス様の前に来てひれ伏し、叫び声をあげました。その後は、イエス様がすべてのことをしてくださいました。彼は神に反逆する者たちが入っていることによって、イエス様と会うことに大きな苦しみを感じていました。彼はイエス様を跳ね除けるために御前に行ったのです。それでも、彼がイエス様と出会った時、主は捕らわれた身を自由にしてくださいました。変わることのない神である主イエス様は、今日も同じようにしてくださいます。

悪霊を追い出していただいた男性は、イエス様を拒絶していた者から、イエス様にお供したいと願う者に変わりました。一方で周辺の人々は、非常な恐れに取りつかれて、イエス様に自分たちのところから出ていってほしいと願いました。まるで立場が反対になってしまいました。

私は牧師として人と会いますけれど、世の中にはいろんな人がいるものです。聖なる神様のきよいことばを語るなら、信じるかどうかは別としても、祝福の言葉が人々に喜ばれるだろうと私は思います。ところが、中には「清らかな言葉をじっと聞くのは苦しい」「私はそれに触れるにふさわしくない」「聖なる神が近づいてきたら恐ろしい」と感じている人がおられて驚くことがあります。それがすべて悪霊の仕業だと言おうとしているわけではありません。もし極端にイエス・キリストを嫌っている、とにかく神様に反逆するという場合は何か霊的なことに関わりませんでしたかと聞くこともあるでしょう。でもそうでなければ、単に心理的な要因によるという話かもしれません。ゲラサ周辺の人々のように恐れているのかもしれません。ただどんな理由だったとしても、大切なことがあります。それはイエス様と出会って、イエス様のことばを聞くということです。わざわざイエス様の前に来て「私を苦しめないでください」と言うような支離滅裂なことをするかもしれません。それでも、主はあなたと会って、あなたを救われます。

聖書はこのように言っています。《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)》主イエス様はあなたを滅ぼしたいと思って来られたのではありません。あなたを愛しておられるので、救いたいと願って、あなたが永遠のいのちをもつために、身代わりとして十字架にかかって罪を贖ってくださいました。このままイエス様を跳ね除けて、近づこうとしないなら、滅びに向かっていくだけです。イエス様のみ元に来て、イエス様のことばを聞いてください。

お祈りします《人々は、起こったことを見ようと出て来た。そしてイエスのところに来て、イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っているのを見た。》

天の父なる神様。聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方。あなたは、お心一つで私たちをきよくすることがおできになります。

あなたは使徒パウロに約束してくださいました。《彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかる(使徒26:18)》と。どうかもう一度、あなたの約束を思い出してください。

世はあなたに反逆する者によって支配されています。世界はますます霊的なことに疎くなり、人を神である主から引き離そうとあらゆることをしている霊を忘れてしまっています。主よ。私たちの救い主よ。どうかあなたの永遠の権威によって、悪霊を追い出し、私たちをあなたに属する者へと回復してください。

すべての人々が目からウロコが落ちて、イエス様が何をしてくださったのか、悟ることができますように。拒絶するのではなく、歓迎すべきお方であったと知ることができますように。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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