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2024.7.14主日礼拝「主の家の恵み」マタイの福音書11章28-30節

 

ナザレ会と子供たちの賛美

梅雨の晴れ間、むしむしと湿度の高い朝ですが、現役のお母さん達の楽しい賛美で元気をもらいました。そのように、今週も主を見上げて心強くします!(りべか)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今日も共に集まって、主を礼拝する時を与えられ感謝です。先聖日は久しぶりに会食の機会が与えられました。主イエス様は弟子たちと共に会食をもつことを喜んでおられました。主イエス様が天に昇られた後も、教会は日曜日の集会時には必ず、御言葉と祈りの時間の後で会食をしていました。そしてその会食の最後に聖餐式をしたのです。そういうわけで、私たちも主をおぼえて会食をします。

教会での会食の時に大切なことは、「この会食はイエス様の用意してくださった食卓であり、イエス様が同じテーブルに座っていてくださること」を覚えることです。それは具体的にどういうことと思われるかもしれませんが、難しいことではありません。例えば、Aさん、Bさん、Cさんの3人で会話をしている時に、3人の輪で話す方法をご存知だと思います。CさんそっちのけでAさんとBさんだけで話すことはしませんね。(あるいは、意地悪な話し方として、わざとCさんを輪に入れない話し方も知っています。)ですから、食事を用意してくださったイエス様が同じテーブルに座っておられることをおぼえて、イエス様を会話の輪に入れて差し上げてください。

パウロはある時、こう書いています。《私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。しかし、神に感謝します。…(IIコリント2:12-14)》パウロはトロアスに行って、テトスに会えなかったので、マケドニアに行ったら、ピリピでリディアと出会ったわけです(使徒16章)。その出来事をこのように表現しました。主があの時、共にいてくださったことをパウロは見ていました。またその手紙のやり取りの中にイエス様がおられることを意識していました。

教会の交わりの会話の輪にイエス様が入っているかどうか、これは私たちの意識の問題です。3人で座っている時に、ここには4人いると考えているかどうか。5人の時に、6人が一緒に座っていると考えているかどうかです。人を輪に加える方法は、みなさんよくご存知のはずですので、普段どのようにしていたか思い出してみてください。

今は礼拝式の最中ですが、王なるイエス様を迎え入れる姿勢を再確認いたしましょう。イエス様のいない礼拝式とは、夏の怪談話のようですね。かつてのイスラエル人たちを反面教師としたいと思います。

聖書をお開きください。マタイの福音書11:28-30(21ページ)【聖書朗読】

今日はナザレ会のみなさんに特別讃美をしていただきました。ナザレ会は、子育て中の親たちの会として始まったと伺っています。その頃は幼かったそれぞれのお子さんたちも、高校生、大学生、社会人となり、ナザレ会の方々も多くは40~50代あたりになっています。社会では成熟期と呼ばれる時期に来ておられ、様々な責任を会社、地域、家庭などで負っておられると思います。また教会の集まりにおいても、責任ということが意識される時期でしょう。責任はやる気を起こさせるものにもなりますけれど、一方で重荷を感じさせるものでもあります。

そのような状況に置かれているナザレ会の方々を思い出しながら、イエス様がこの時、何を語っておられるか祈りのうちに思い巡らしていた時、このイエス様の言葉を思い起こしました。

《すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。》

まずイエス様はこう語りかけておられます。《わたしのもとに来なさい》。イエス様のもととはどこでしょうか。王寺教会の証集に多くの方の証が残されています。先に召されたある姉妹の証には、目に見えない神様がいったいどこにおられるのか分からなくて悩んでおられた様子が赤裸々に書かれていました。神様はあらゆる時空に存在すること(遍在、omni present)ができるお方です。いつどこでも主を信じる私たちの心の中におられるということも真理の一面です。イエス様が12歳の時、両親と共にエルサレム神殿にいかれたことがありました。祭りの期間が終わって、一行がナザレに帰った時、イエス様は神殿に残っておられましたが、両親はその事に気が付かず、3日間もイエス様を探し回っていました。ようやく両親はイエス様をエルサレム神殿で見つけました。その時、イエス様はこう言われたのです。《「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)》「わたしのもとに来なさい」と言われたイエス様はどこにおられるのでしょうか。イエス様は父の家におられます。この「父の家」は「父の者たちの間」あるいは「父のみわざ」とも訳せる言葉です(ルカ2:49脚注)。エルサレム神殿はソロモンが建て、ネヘミヤたちが再建しました。しかし、思い出してください。主はダビデに「あなたがわたしの家を建てるのではない。わたしがあなたの家を建てる(IIサムエル7:11)」とおっしゃいました。エルサレム神殿は、主がソロモンやネヘミヤたちを動かして造られた、父のみわざ、父の家なのです。

では、いま現在、その神殿(宮)はどこにあるのでしょうか。エルサレムに行っても、神殿はありません。西暦70年にローマ兵に破壊されて、嘆きの壁と呼ばれる壁が焼け残っているだけです。端的に申し上げますと、神の宮(神殿)は教会にあります。イエス様の弟子たちの群れにあります。神の宮がどこにあるのか、IIコリント6:16にはこう書いてあります。《私たち(クリスチャンたち)は生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。》「彼らの」という部分に注意してください。それはひとりひとり個別にというよりも、クリスチャンたちの集合体(共同体)を指しています。

そういうわけで、イエス様が自分の父の家である教会におられることは当然のことです。「わたしのもとに来なさい」とイエス様はあなたを教会に招いておられます。《すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。》

2つ目にイエス様は「あなたがたを休ませてあげます」とおっしゃいました。「しかし、イエス様。教会に行って、どうやって休めるでしょうか。」特に責任がある人たち、奉仕を掛け持ちで担っている人たち、将来がかかっていると期待されている人たちには、教会で休ませてもらえるとは思えないというのが、率直な思いなのではないかと推測します。

しかし、それには「休ませる」という言葉への誤解があるかもしれません。「休む」ことは、聖書の中で天地創造の7日目に最初に出てきました。神である主は天地とその中に住むすべてのものを創造し終え、「非常に良かった」と評価して、七日目に休まれました。休むとは、すべてのわざを完成したという意味です(創2:2)。休ませるとは、主ご自身がすべてのわざを成し遂げてくださるという意味なのです(参考:IIサム7:11)。

私たちが疲れたり、重荷を負う理由は、単に仕事をし過ぎて体力・気力の限界で疲れることもありますが、責任を成し遂げられるかどうかという重責からくることもしばしばです。しかし、イエス様は「わたしがあなたがたを休ませてあげます」すなわち「わたしがあなたがたの責任を成し遂げてあげます」とおっしゃっているのです。

教会はイエス様が成し遂げてくださることを経験するところです。私たちクリスチャンの群れは、その歩みの中で、主がひとつひとつのことを成し遂げられることを目撃します。ところが、教会はいつも新しい世代が入ってくるところです。全員が教会の歩みを最初から全部経験しているわけではないのです。若い世代の人たちは、先の世代の人たちを理想化し、実際よりも素晴らしく完璧な人たちだと考えがちです。いま教会にある、大きな会堂、設備、奉仕者、礼拝出席者数、累積受洗者数、数々の活動、色々なものを見ながら、上の世代の人たちが立派に働いてきた成果だと思ってしまいがちです。そして、私たちは頑張ってそこまでできるだろうかと重荷を負うことになります。しかし、王寺教会の先代の兄弟姉妹は良い証を残してくださいました。創設時の7人の一人であった姉妹は、礼拝に臨む自分の姿勢に苦悩しながら、このような姿では新しく来られた方を躓かせてしまうのではと思うと証しておられました。それはかの人々もまた、完璧な人たちではなく、主のあわれみにすがっておられたのだということ、今日の王寺教会は主ご自身のあわれみと恵みによって、主の御業によってここにまで至ったのだということを証しているのです。それは貴重なお証であり、若い世代の人たちに平安をもたらす言葉です。アパートの一室にオルガンひとつ、あの小さな群れがどうやってこうなったのでしょう。主が成し遂げてくださったのではありませんか。教会は、主の御業を経験するところなのです。

「私は信仰生活が長いけれど、本当にまだまだです」とよく聞きます。それは良い証になり得ると思うのです。ただし、その言葉の後に、もう少し加えていただきたい。「それにもかかわらず、主はあわれんで、ここまでの恵みを与えてくださった。君たちも、神様のあわれみと恵みを経験していきなさい。」これこそ、疲れて重荷を負っている人たちを休ませる一番の証なのです。

子どもが積み木で遊ぶと、何かを作って、それから壊して、また作ります。作ることが楽しいので、作り終わったら、また作るために壊します。もし、遊んでいる最中に弟がきて積み木を壊してしまったら問題でしょう。でも、積み木をしている本人が作って、壊して、作って、壊してとしても問題はありません。 ここが主の家であり、主が建ててくださったのなら、主が壊されても問題はありません(エレミヤ18:2-6)。それは私たちが悩むようなことではありません。先の世代の人たちが経験してきた恵みを、次の世代の人たちにも経験させてあげようとイエス様は思っておられるということなのです。「アパートの一室にオルガンひとつ」を写真でしか見たことのない人たちが、先の世代の兄弟姉妹と同じように主の御業を経験するためには、もう一度、アパートの一室に戻ることも、ひとつの方法ではありませんか。どんな方法を選ぶかはイエス様の選択です。私たちの努力がどうこうの話ではありません。60年かけて、ここまで群れを祝福してくださった主は、同じことを一夜にしておできになるお方です(ヨハネ2:19)。主イエス様が私たちを休ませてくださいます。

3つ目にイエス様は《わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい》とおっしゃいました。くびきは二頭の牛が首をつなげて、一緒に農具を引っ張るための横木のことです。先日、会食の準備のために机を倉庫から出しました。何人かの方が一緒にしてくださいましたが、その中に幼い子どもたちも混じっていました。机の横の方を持ってくれていました。我が子ながらそれは助けになっているのかどうかと思ったことですが、私たちがイエス様とくびきを共にする時も、そのような感じだと思うのです。確かに私たちは奉仕ということで色々とやるのですが、実際には神の御業を見ています。イエス様と一緒にくびきを負いながらも、《すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る(ローマ11:36)》ことを経験します。こんな経験ができるのは教会ならではなのです。教会は主の家であり、主の者たちの間であり、主イエス様のみわざだからです。この経験を通して、わたしたちは《たましいに安らぎを得ます。》

教会に来ることで余計に疲れて重荷を感じる方はおられないでしょうか。今一度、イエス様の語りかけを受け取り、主のみもとで安息をいただこうではありませんか。主が成し遂げてくださることを、共に経験しましょう。経験してきた方々は証しましょう。教会には働きが沢山あります。でも、イエス様と一緒にくびきをつけてやる働きばかりです。私たちは頑張って汗をかいてると思っても、実は机の横の方を一生懸命つかんでいる幼子のようです。主はその様子を見て、喜んでくださいます。

お祈りします《すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。》

天の父なる神様。あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ、今日に至るまで私たちをお見捨てになりませんでした。

人生の成熟期に入って、様々な方面から責任を求められる立場におかれているおひとりひとりをおぼえてください。あなたが私たちのために家を建ててくださることを、どうか教えてください。あなたがすべてのわざを成し遂げてくださることを見させてください。あなたの恵みが、どれだけ私たちのたましいに安らぎを与えることか経験させてください。

あなたは全能の力をもって、あらゆることをおひとりで完成することのできるお方ですが、くびきを用意して、私たちを招いてくださっています。あなたと共にするくびきは重荷ではなく、あなたと共に仕事を喜ぶ装置です。私たちはこれを喜びます。あなたが私たちを喜んでおられるように。私たちはあなたを喜びます。

主の家であなたの恵みを沢山受け取り、私たちが出ていくあらゆるところで、その恵みがあふれ流れますように。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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