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2024.05.19 ペンテコステ礼拝「主と人の間で執り成す」出エジプト記32:7-20


少しずつ暖かくなっていきます。熱中症に気を付けましょう。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

ペンテコステおめでとうございます。主イエス様は約束の通りに聖霊を私たちに遣わしてくださいました。ペンテコステは過越祭から50日後の五旬節の祭りの日に、聖霊がイエス様の弟子たちに注がれたことを記念する日です。過越の祭はエジプトを脱出したことを思い出す日であり、五旬節はシナイ山で律法をいただいたことを思い出す日です。

真理の御霊である聖霊は私たちのもう一人の助け主です。聖霊は世の誤りを明らかにされるお方です。私たちに罪を示し、認めさせます。神の教えを教え、聖書の御言葉、またイエス様のことばを思い出させてくださいます。聖霊なる主はいつも主イエス様の栄光をあらわしています。

イエス様は聖霊を「助け主」と紹介されました。ヨハネの福音書(16:7)で「助け主」と翻訳されている言葉は、「執り成すお方」という意味があります。助けるとは、執り成しによって助けるという意味なのです。ローマ人への手紙にはこのような御言葉があります。《同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ8:26-27)》私たちが主とコミュニケーションをうまく取れないときに、人と神との間に入ってコミュニケーションを運んでくださいます。また執り成しとは、単に言葉を運ぶ以上のことがあります。私たちが持っているものを良いものにして、神のもとにもっていってくださる。神からくるものを、良いものにして、私たちのところにもってきてくださる。それが執り成しです。

聖書をお開きください。出エジプト記32:7-20(157ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」という大きな学びのテーマを与えられ、しばらく、主とコミュニケーションを取ることについて、教えられています。

今日のテーマは執り成しです。執り成しという言葉は、あまり日常生活では使わないと思います。取り持つとか、取り計らうとか、仲介するとか、そのような言葉のほうが良く使うことでしょう。執り成すとは、神である主と自分ではない誰かの間に入ることです。世の中で一般的には、仲介と言えば人と人の間に入るイメージがありますが、今日お話している執り成しとは人と人の仲裁ではありません。ですから、意味を取り違えないようにしてください。神と人の間に入る話をしています。

今日はモーセの箇所を開きましたが、主と人の間に入るという出来事は、モーセに限らず、聖書の至る所で出てきます。先週はロトの話をいたしましたが、アブラハムは主とロトの間に入って執り成しました。サムエルのような祭司は執り成すためにいる人たちでした。ダビデやソロモンといった王たちも執り成しました。預言者エレミヤやアモスも懸命に執り成しています。とはいえ、それら全部を見ていくわけにいきませんので、他の人たちはどのように執り成したのか、それぞれでまた別の箇所も深く読んでいただければと思います。

今日の箇所は、シナイでの出来事でした。モーセは山に登り、主から10のことばをいただいていました。その頃、麓では、モーセが一向に下りてこないのを見て、民が金の子牛を作っていました。「この金の子牛こそ、ヤハウェだ」と言って祭りをしていました。モーセはそのことを全然知りませんでしたが、主はすべてご存知でした。主はモーセに民を絶ち滅ぼそうとしておられることをお伝えになりました。しかし、どうしてでしょうか。何も伝えないで、モーセが山にいるうちに、民を絶ち滅ぼすこともおできになるはず。そうしても主にとって何も責められることはないはずです。ロトの時も、主はアブラハムに対して同じことをされました。あの時、主はソドムとゴモラを滅ぼしてしまう前に、こう考えられました。《わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創18:17)》ソドムとゴモラが滅ぼされるのは、その住民と主の話であり、ソドムに住んでいるロトが危険なのは、ロトと主の関係の話です。ところが、その間にアブラハムが入るように期待されています。金の子牛を拝んだ民が滅ぼされるのは、彼らと主の関係の話です。しかし、主は彼らを滅ぼす前に、モーセに「さぁ、下りて行け」とおっしゃり、間に入っていくように命じられたのです。

執り成しは、間に入っていく人の気持ちから始まっていると思ってはいないでしょうか。「これは大変なことになりそうだ、私が何とかしなくては」という仲介者の同情から始まると考えていませんでしたか。聖書を確認してみますと、どうもそうではないことが分かります。神である主が、ご自分のしもべを執り成しの場に引き込んでおられる、あるいは押し出しておられるのです。これは主から始まっているのです。

主はモーセに《今は、わたしに任せよ(10節)》とおっしゃいます。「口を出すな。手を突っ込むな。わたしに任せよ」と。しかしモーセは主に嘆願して言いました。《エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。…どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。(11-13節)》モーセの嘆願は、「わたしに任せよ」とおっしゃる主と組み合って(相撲の立合いのように)、主を力いっぱい押しました。すると主は、その民に下すといったわざわいを思い直されたのです。この一連のコミュニケーションを見て、どういうこと?と思いませんか。日本の習慣からすると、あまりこのようなコミュニケーションの取り方って、しないのではないかと思います。思い直してくださいと強く嘆願されることを期待しながら、何かを言うということはしないだろうと思います。「手出しするな。任せよ」と言ったら文字通りの意味しかないと思います。どうでしょうか。でも、主はこのようにコミュニケーションを取られるお方なのです。私たちは神の民になったのですから、主がどのようにコミュニケーションを取られるのか知って、それに合わせていかなければなりません。主はご自分と誰かの間に私たちが入るようにされるということです。その時、主が「わたしに任せよ」とおっしゃっている場面で、主と組み合って執り成すことを期待されています。モーセだけではありません。預言者エレミヤも主にこう言われました。《あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。(エレ7:16)》しかし、エレミヤは民の執り成しをします。《私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、【主】よ、あなたの御名のために事をなしてください。(エレ14:7)》なぜ主のことばに対して、組み合っていくのかといえば、そのような方法が期待されているからです。執り成しは主から始まっていることだからです。もちろん、執り成して祈ったから必ず主は思い直されるかといえば、そうとも限りません。モーセの時は、主はわざわいを思い直されましたが、エレミヤの時は、わざわいが現実となり、イスラエルは捕囚となってしまいました。しかし、結果はどうあれ、主のしもべは執り成し手として、誰かと主の間に入るように招かれているのです。

王寺教会では祈りの栞をつかって、それぞれが10人の家族・知人のために執り成しています。みんなで一緒に祈る時もあります。あの瞬間、何が起こっているかご存知ですか。私たちが一人ひとりのために、主の憐れみを求めて祈っている時、アブラハムがロトのために執り成して、主にあわれみを求めた時と同じことが起こっているのです(創18:16-33)。また私たちが日々の生活の中で、新しい人と出会って知り合うということは、実はものすごいことです。ちょっと挨拶して知り合いになるだけで、それが何だと思われるかもしれません。しかし、その後、何が起こるでしょうか。主は私たちを執り成し手として、その人と主の関係の間に入るように引き込まれるのです。バスに乗れば、隣に誰かいるでしょう。散歩していて道で人とすれ違う時もあります。仕事の関係でも色んな人に会いますし、学校や地域の活動でもそうでしょう。今ならSNSで新しく知り合うこともあります。それら一つ一つの小さな出会いは、ただ過ぎていく偶然のものではなく、神である主の意図があって起こっています。実際、数十年前にちょっと知り合っただけの人を思い出して、祈ることがありますよね。「主よ、あの人を今おぼえて、あわれんでください」と祈ることがあります。執り成しは主から始まることであり、神の働きへの招きは、私たちの日常に絶えず起こっていることです。

さて、執り成しのもう一つの面を見たいと思います。今日の出来事は、モーセがあわれみを求めただけで終わっていません。続きがあります。主と人の間に入ることが執り成しですが、人の側に立って主のあわれみを求めることがあれば、その逆の側、すなわち主の側に立つこともあります。モーセは山から下りて、民が何をしているか自分の目で見ました。そして主の代わりに怒りを燃え上がらせ、10のことばの石版を砕きました。神の祝福である律法を渡しませんでした。罪を犯したものへ祝福を渡さないということです。主の側に立って、アロンに「何をしたのか」と責任を問い、偶像礼拝をした者たちを滅ぼしました。そして、その後に、もう一度、残された民の側に立って、「彼らの罪を赦してください」と願いました。

民がしたことに対して、主が何と言っておられるのか、どのように反応しておられるのかを、モーセは民に伝えました。モーセがそのようにしなければ、民は山の上で主が怒りを燃え上がらせておられたことを知らないままだったでしょう。主が何を考えておられるか人に伝えないで、上の方で主とやり取りして丸く収めるのは執り成しと言いません。それはあくまでその人と主のコミュニケーションにならなくてはいけないからです。最終的にその人と主がつながるために、執り成し手がいるのです。

《「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(イザ6:8)》と言われる主の声が聞こえてこないでしょうか。イザヤはこう答えました。《「ここに私がおります。私を遣わしてください。」》主は昔も今も変わらず、執り成し手を遣わされるお方です。どんなにマスメディアが発達し、インターネットが普及しても、主が誰かを執り成し手として遣わされることは変わりませんでした。これからも変わらないでしょう。

主を知っている人はみな、主の執り成しができます。主が何を考えておられるか、どう反応されるか知っているので、それを伝えることができるからです。あなたの周りにいる人たちは、あなたの執り成しを通して主を知ることができます。こうしてその人と主のコミュニケーションが始まります。そのために私たちは遣わされるのです。今日、主の声を聞いて、出ていこうではありませんか。

お祈りします《しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。》

天の父なる神様。私たちのうちに住んでおられる自分の御霊によって、私たちの死ぬべきからだも生かしてくださるお方。私たちの主よ。

主イエス様の執り成しがなければ、誰一人としてあなたを知ることができる人はいませんでした。またあなたが遣わされた執り成し手が、私とあなたの間に入って、執り成してくれなければ、今のあなたとの関係はありませんでした。あなたの御業はなんと不思議なことでしょう。

今日、あなたは私たちを誰かと主の関係の間に入るように押し出してくださっています。ここに私たちがおります。私たちを遣わしてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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