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2024.05.012 主日礼拝「ロトへの主のあわれみ」創世記19:12-16

エステル会の素晴らしい讃美を聴けました。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。イースターから40日が過ぎ、イエス様が天に昇られた日を記念しています。私たちはこの朝、ともにこの日を覚えて、この地で「イエス様が主である」と証言しています。多くの人々に福音を伝えましょう。

イエス様が今日、私たちの目に見えないのは、復活の日から40日目に天に上げられたからです。《雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった》と使徒の働きに書いています。使徒の働きの前編はルカの福音書ですが、その最後に書かれているエマオの途上の出来事にも、2人の弟子たちがイエス様に気が付いた途端、イエス様が見えなくなったと記録があります。イエス様は死からよみがえられた後、また死んでしまったのではありません。天のみ座に上げられ、人の目には見えなくなられました。その後、イエス様が遣わしてくださった聖霊は目に見えるお方ではありません。風が吹いてきたような響きや炎のような舌など、聖霊の臨在を目にした人たちはいましたが、聖霊なる主は目に見えないお方として、私たちと共にいてくださいます。

主イエス様が天に昇られた時、弟子たちに語られたことばは何だったでしょうか。《ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。》という天使の伝言。《エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。》というイエス様のことばがありました。「さぁ、すぐに祈り始めなさい」ということです。彼らはすぐに祈り始めました。120人ほどの人が集まって祈っていたそうです。ところが主の時が満ちるまで待てないで行動を起こしてしまったのは、あのペテロでした。イシュマエルを思い出すような、マッティアの選出が間に入っていますが、ついに五旬節の日に時が来て、聖霊が弟子たちに注がれました。その後、主イエス様ご自身によって、サウロ(パウロ)が使徒職に選ばれ、宣教の働きが主のみ手によって広がっていきました。目に見えなくてもイエス様は引き続き教会のリーダーであり、ご自分で選ばれた人々を遣わし、多くの人を救われました。

目に見えないけれども王寺教会のかしらであるイエス様が、何をしておられるのか、気が付くことができるように目をさましていましょう。聖書にある主のみ言葉を思い出し、早速祈り始めましょう。主が遣わしてくださる時が来たら、躊躇せずに行動しましょう。たとえ出だしが遅れてしまっても、主が促してくださることを実行しましょう。そして主の働きの結果を見て、主を証ししましょう。

聖書をお開きください。創世記19:12-16(28ページ)【聖書朗読】

アブラハムの時代にソドムとゴモラという都市が、天から降った硫黄と火によって滅ぼされました。この時、アブラハムの甥のロトがソドムに住んでいたのです。

アブラハムの甥のロトは、アブラハムが故郷を離れて、カナンにやってきた時に一緒に付いてきた人でした(創12:5)。カナンに着いて、町ではない場所に移動式住居を張り、家畜を遊牧した時、ロトはアブラハムと共に住んでいました。彼は天幕を所有していたと書いてありますので、子どものようにアブラハムの家に住んでいたのではなく、彼は自分の独立した家を持っていたようです。しばらく一緒に遊牧生活を続けていた一族でしたが、やがてアブラハムの家とロトの家で争いが起こるようになってしまいました。それぞれの家畜は大変多くいましたが、土地に生えている草は限られています。それでそれぞれの家の家畜を世話していた人たちが争うようになってしまったのです。

アブラハムはこのことに大変心を痛め、ロトと話をして、別々の場所に分かれることにしました。その時、ロトは土地が潤っている低地を選びました。聖書にはこう書いてあります。《アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。(創13:12)》アブラハムは引き続き「地」に住んで不安定な遊牧生活を続けていった一方で、ロトは「町々」に住んで安定的なカナン人の生活に馴染んでいった様子が伺えます。

さて、ロトが移り住んだソドムですが、主に対して甚だしく罪深い者たちが住んでいた町でした。不道徳があり、叫びが主のもとに届いたと言います(創18:20)。旧約聖書で「主に向かう叫び」が出てきたら、それは弱く虐げられている人たちが助けてくれと叫んでいる声のことを指しています。この町の仕業により、多くの人たちが涙を流し、必死に助けを求めていたのです。主が人を滅ぼされるには、それに値する理由があります。主は、主の御心を行う人たち、主に叫び求める人たちをお見捨てになりません。主の正しい裁きは、弱く虐げられている人たちにとっての救いです。

主がソドムとゴモラを滅ぼされると聞いたアブラハムは、主のあわれみを求めて、祈りの格闘をしました。正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですかと何度も問いかけたのです。

一方、ロトはソドムで不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていました(IIペテロ2:8)。彼に正しい心があったのは、アブラハムと共に主のことばに従って、故郷を離れて旅をしてきた日々があったからです。彼もまた主を知っていました。しかし、心を痛めていたことと、町の習慣を拒否しないで上手くやろうとすることは、彼の中で両立するように思えることでした。その日、2人の主の使いが彼の家にやってきました。ソドムとゴモラを滅ぼす前にロトの一家を町から逃れさせようとしたのです。ところがその夜、町の男たちが若い者から年寄りまで、隅々からやってきて、ロトの家を取り囲みました。そして言いました。《「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(創19:5)》「知りたい」とは、性的な暴行を加えたいという意味です。それに対して、ロトは止めてくれと言いますが、その代わりに娘たちを連れてくるから好きにしろとも言いました。にわかに信じられないような言葉ですが、ロトがソドムの風習にずいぶん染まっていたことが分かります。正しい心を痛めているのに、行動では妥協してしまう姿が見られます。彼は自分の天幕があったのですから、いつでも町を離れて、以前のように町の外で生活できたのです。しかし彼は町に住み続けました。

その事件の後、主の使いは彼らが来た理由をロトに告げました。「主が町を滅ぼそうとしておられるので、身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい」と教えました。するとロトは、娘の夫たちのところに行って、彼らに《「立って、この場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」》と言いました。婿たちは悪い冗談のように思われ、何もしませんでした。ロトも町を出ていこうとする気配がありません。一体どういうことでしょう。ロトは、主の使いのことばをそれなりに受け止めてはいるけれども、本気で行動を起こそうとはしません。さらに、夜が明けるころ、御使いたちはロトをせき立てて言いました。《「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます。」》しかし、ロトはためらっていました。彼はためらっていた。彼はこの時点で、もはや町とともに滅びていくしかありませんでした。

ところが、それにも関わらず、御使いたちは、ロトの手と、彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんで、町の外に連れ出しました。聖書にはこう書いてあります。《これは、彼に対する【主】のあわれみによることである。(16節)》また、19:29にはこうあります。《神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。》神である主がアブラハムを覚えておられたので、ロトをあわれんでくださり、彼と彼の妻と娘たちは、ギリギリのところで滅びを免れました。(その後で自ら滅びを選んだロトの妻の例はありますが。)

ロトの姿を見るとき、私たちは家族のこと、特に子どもたちのことを思い出すのではないでしょうか。自分自身の子どもたちはもちろん、かつて教会学校に通っていた子どもたちを思い出すことでしょう。幼い頃に主を知って、主を礼拝することを学び、私たちと共に主のみまえに出ていました。しかしどんな子たちも、そのうちに自立していく日がありました。分かれて行くことには、問題は感じないのですが、果たしてどのような生き方をしているのか、とても気になります。ロトとイサクの違いは何だったでしょうか。ロトとヤコブの違いは何だったでしょうか。イサクは井戸をめぐる争いの中で、主と個人的に出会いました。ヤコブは父の家を離れて、一人で野宿した時に、天にかかるハシゴと主を見ました。イサクやヤコブは、自分の人生の中で主と出会い、ついにカナン人の町に入らず、主とともに寄留者として歩み続けました。一方でロトは、アブラハムと一緒に行動していた時に、アブラハムを通して主を知り、アブラハムの下で天幕生活をしていただけでした。やがてアブラハムの家から離れたとき、町に入っていきました。彼は主を知っていて、主の使いのことばを受け入れることも知っていました。しかし、町の習慣に影響を受け、主に従うことをためらう人になっていました。

子どもたちの様子を、時々、聞きますと、困ったことがあると祈っているみたいです。イエス様は信じていると言っています。良かったなと思いつつも、では、人生を聖別して、いるか、自分が良いと思った道を進むのではなく主が示してくださった道を従って歩んでいるかといえば、心配になります。正しい心を痛めながらも、その行動では世の生き方にならって歩んでいる姿を見ることがあるでしょう。実を結ばない者は切り倒されると言われたイエス様のことばは非常に厳しいものです(ルカ13:6-9)。私たちの一番願うことは、彼らもまた自分の人生の中で主と出会い、主に従っていくことです。もう一度、自分の天幕を出して、町を離れ、主とともに、また神の民と共に寄留者生活を始めることです。イエス様が教えてくださったように、主の十字架と復活を記念して兄弟姉妹と共に主の食卓にあずかり、イエス様の教会として主を証することを願っています。しかし少なくとも、いざという時にためらわず主のことばに従って行動するようにと願います。

そうとはいえ、子どもたちと言っても、もう大人になり、中年になって、親が影響を与えられる時期はとうに過ぎてしまっています。彼ら自身の人生については、主に委ねるしかないでしょう。しかし失望してしまうことはありません。主がアブラハムを覚えておられたので、ロトをあわれんでくださったことを思い出しましょう。私たちがまず主を知る者として主のみ前に歩み続けましょう。アブラハムは愛するイサクをささげるように言われた時、翌朝すぐに行動を起こしました。私たち自身がためらわず主に従う者であり続けることです。また、あきらめないで、主に向かって祈りの格闘を続けようではありませんか。アブラハムのように、またヤコブのように、主のあわれみを求めて格闘しましょう。主はあわれんでくださるお方です。主の裁きがあることを教え、せき立てて言い、ついには手をつかんで連れ出してくださるお方です。

お祈りします《彼はためらっていた。するとその人たちは、彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんだ。これは、彼に対する【主】のあわれみによることである。》

天の父なる神様。アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、私たちを恵み、あわれみ、顧みて、滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて捨てることはなさらなかったお方。私たちの主よ。

私たちはあなたの牧場の羊です。あなたが用意してくださる場所、あなたが導いてくださるところに私たちは参ります。あなたが共におられるところ、そこが一番良いところだからです。主よ。私たちの子どもたちが一緒についてきて、共に過ごしていた日々を思い出してください。あなたは子どもたちを招き、いのちに至る知恵を教えてくださいました。罪から贖い出し、神の民に加えてくださいました。

しかし、私たちと分かれた後で、彼らの多くが主を知る心を持ちつつも、世の生き方に倣うことを受け入れ、主に従うことをためらうようになっていることに心を痛めています。主よ。どうかあわれんでください。あなたの約束を思い出してください。裁きの日に世で積み上げてきたものはすべて焼け落ちますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かると言ってくださったことを忘れないでください。

私たちは決してあきらめません。あなたが祈りを聞いてくださるからです。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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