2024.05.05 主日礼拝「主の真実を確信する」詩篇6篇


今日はこどもの日!
最近鯉のぼりの数がめっきり減りました。ちょっとさみしいです。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。GWの最中でありますが、主イエス様に呼んでいただき、こうして集まることがゆるされました。この朝も、教会のかしらであるイエス様をお迎えし、王座に座っていただきましょう。王座は王様が仕事をする場所です。あらゆる事柄を判断し、指示を出していくところです。主のところにあらゆる事柄を持っていきましょう。主の裁きはいつも公正で、正しい者を守り、平安を与えます。

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」御言葉から共に学んでいます。特に最近は主とのコミュニケーションについて教えられていますが、どうでしょうか、イエス様とのコミュニケーションは変わってきたでしょうか。主に教えていただいたことを、ひとつずつ実行していきましょう。聞いたことを実行していくときに私たちは変えられていきます。

また私たち一人一人の人生において、主とのコミュニケーションが深まってきているなら、今度は王寺教会という群れ(共同体)の歩みにおいて、主との関係を考えていきましょう。主と関係のない群れは教会ではありません。主に何も訴えない。主の行動を求めない。ただ自分たちだけで何かを計画し、何かをして、何かができたと言っているなら、それは教会ではありません。主イエス様がおられるところ。主が計画を立て、主が遣わし、主が成し遂げてくださる。それが教会です。クリスチャンは主の計画に聞き従い、主に遣わされて出ていき、主が成し遂げてくださるのを見て証言する人々です。

自分ひとりの個人的な人生では、主とともに歩んでいくことができるのに、群れとして歩もうとすると、なぜか世の生き方でやってしまうということがあると思います。祈りましょうと言われると「都合がついたら行きます」と言い、打ち合わせをしましょうと言われると「都合をつけて行きます」と言ったりしないでしょうか。主とのコミュニケーションなしに、教会の歩みはありません。教会はいつも主に聞き従います。神の国に相応しい歩みをしましょう。

聖書をお開きください。詩篇6篇(937ページ)【聖書朗読】

今日の話に入るにあたって、思い出しておきたいイエス様のことばがあります。山上の説教の一部です。イエス様はこう言われました。《心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ5:3-10)》

イエス様は「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」とおっしゃいました。今、悲しんでいる人が幸いですと。幸いなのは現在のことです。しかし慰められるのは未来のことです。日本語で読むと現在形か未来形か分かりにくいのですが、原語で調べるとはっきりしていて、続く節も同様です。柔和な者は幸い。これは現在形。地を受け継ぐ。これは未来形です。義に飢え渇く者は幸い。これは現在形。満ち足りる。これは未来形です。あわれみ深い者は幸い。これは現在形。あわれみを受ける。これは未来形です。「天の御国はその人たちのものだからです。」という文が最初と最後にあって、全体を挟み込んでいますが、これだけ現在形になっています。天の御国は今、その人たちのものという意味です。しかし「天の御国はすでに来ていて、やがて完全に来る」ものです。イエス様の再臨の時に完全な神の国が来るのですから、これもまた未来に完成することを指しています。

イエス様は「悲しむ人が慰められたから幸いです」とはおっしゃいませんでした。いま悲しむ人が、将来慰められるから、いま幸せですと言われました。これは世の常識とは違いますね。「悲しむ人は不幸です。慰められたら幸せになります。」これが世の考えではないでしょうか。しかし、主は言われます。「悲しむ者は慰められるから幸いです。」今あるものと未来にあるものとの間に幸いがあります。その狭間に今日のテーマである確信があるのです。

今日の詩篇6篇をもう一度見てみましょう。主に訴え、主の行動を求めて祈っていることばが並んでいます。ところが、7節と8節の間で何があったのでしょうか。ここで何かが起こっていますね。1-7節では、未来が暗闇で死んでしまうのではないかという思いで衰え果てている状態が表されています。ところが、8節から《不法を行う者たち みな私から離れて行け。【主】が私の泣く声を聞かれたからだ。【主】は私の切なる願いを聞き 【主】は私の祈りを受け入れられる。》と歌っています。ここで急に未来が開けたのです。主が祈りを聞いてくださったと確信し、衰え果てていたダビデが、一気に力づけられ、敵を散らしていく姿が、ここにあります。

私たちは目の前にある様々な事柄に捉えられ、困って、衰え果ててしまいます。貧しかったら困ります。悲しかったら悲しい。弱かったら辛い。不正を受けたら耐えられない。迫害されたら死にそうになる。いま直面していることに本当に衰え果ててしまうのです。それゆえに、私たちは主に訴えます。世の強い人たちは、自分の力で打開しようとするでしょう。しかし私たちは主の牧場の羊です。もし仮に、私たちに打開する力があったとしても、弱い人たちと同じところに身を置き、ただ主に訴えます。力で押しのけたり、お金で解決したり、能力で切り抜けたり、そのようなことでは状況を根本的に打開することはできません。ダビデ王はイスラエルの歴史上で最も偉大な王様でした。彼は優れた能力があり、莫大な資産があり、忠実な兵士が多くいました。都には城壁があり、王宮には警備兵がいました。ところが、この詩篇6篇はダビデ王の祈りです。敵のゆえに弱まるとは、いったいどんな状況でしょうか。彼が弱い人たちと同じところに身を置いていたからこそ、この祈りがあり得たのです。ダビデが主に訴え、行動を求めたように、私たちも主に訴え、主の行動を求めて祈ります。

そのように祈るうちに、私たちは主の真実を思い出します。まさにこの7節と8節の間で起こっているのは、主の真実を確信したということ、主が約束してくださる未来が確定的に見えたということです。(ところで「真実」という言葉は、聖書用語です。「真実の愛(イザヤ54:8)」とか、「真実をもってさばく(箴言29:14)」とか、「神は真実な方(Iコリント10:13)」とか、聖書の色んなところで出てきます。この真実とは、約束した通りに行うという意味です。でも、日本語辞書を引いても、「真実」に「約束通りに行う」という意味は出てきません。うそ偽りのない、本当のという意味が出てきます。当たらずとも遠からずという感じはしますが、約束通りに行ってくださるという意味からはズレますね。真実な気持ちとか、真実の姿とか、物を形容する言葉であって、人は形容しない言葉です。ですから、聖書内の用語(クリスチャン業界用語)だということ覚えておいてください。)

みなさんの中で、陳情をしたことがある方はおられますか。議会や議員のところに言って、実情を説明し、善処してもらえるようにお願いすることです。議会や議員は、問題を解決するための決定権をもっています。彼らが問題を認識し、それに取り組んでくれれば、放置されている問題が解決に動き出すわけです。まぁ時々、「事態を注視し、真摯に受け止めます」と言って結局何もしない人もいないわけではありませんが。でも、もし陳情した相手が、分かったと言って、その通りに腰を上げ、確実に行動を起こしてくれる人だったらどうでしょうか。想像してみてください。あなたが何か案件をもって、陳情に行こうとしています。その議員に話をするまでは、どうなることか案じながら、ソワソワすることでしょう。でも、部屋に通してもらって、一通り話をして、書類を渡して、分かりましたと言ってもらって、部屋を出た。そうしたらどうなりますか。「ああ、これで大丈夫だ」と思いませんか。その時点では、まだ何も状況は変わっていません。でも、これで未来が変わると思うと、全く世界が変わってしまうことでしょう。私たちが主に祈るとき、このことが起こっているのです。

主は王の王であられるお方です。この世界を造り、治めておられます。しばらくの間、主の目に悪であることが行われていても、たとえそれが人の目には永遠のように見えたとしても、それらが永遠に続くことは決してありません。主がおられるからです。私たちが主に訴え、行動を求めて祈るとき、私たちは天の王座の前に出ているのです。この世界と後の世の決定権を唯一もっておられる王の前に進み出て、陳情しているのです。主に訴えるまでは、将来がどうなってしまうのか案じ、衰え果てていますが、ついに主が訴えを聞いてくださった時、《【主】が私の泣く声を聞かれた》と力強く言うことができます。パウロはテサロニケ教会への手紙にこう書いています。《主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。(IIテサ3:3)》

人の目には永遠のように見える悪とは何でしょうか。いくつかのことが聖書に出てきます。衣食住の必要が足りず貧しいこと。疫病におそわれていること。軍隊が攻めてきて取り囲まれること。人から追い詰められ、虐げられること。神である主に従わない人たちが繁栄して、神をあなどっていること。「神はどこにいるのか」と言う人たちが平気で犯罪を犯していること。主ではない他の人たちに支配され、讃美歌の一つでも歌ってみろと言われ恥ずかしい思いをさせられることなどです。これらのことは一時だけ主が忍耐しておられる悪です。主に訴えて祈るとき、主はご自分の子たちを見捨てることはなさいません。

主の真実を確信していくなら、それを人生のあらゆる出来事の中で経験していくなら、やがてよみがえりの希望へとつながります。伝道者の書は、日の下の歩みが空しいことを教えています。その結論はこうでした。《結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(伝2:13-14)》人生の歩みを経て、最終的に気がつくことは、神である主が王座におられるということです。主がすべてのことを判断する場におられるということ。陳情をするなら、主のところにもっていくべきだということです。《「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(使14:22)》と聖書は言っていますが、主はご自分の子たちを見捨てることはなさいません。やがて帰ってきてくださって、主を信じる者たちをよみがえらせてくださいます。私たちはまだ完全なよみがえりを受け取っていませんが、すでに確信しています。主は真実なお方だからです。私たちにとって希望とは願いではなく確定された未来です。

主との関係には、主の真実を確信するという信頼関係があります。約束を忘れてしまう人であれば、陳情しても、忘れられてしまうのではないかと不安のままでしょう。しかし、主は約束を覚えて、そのおことばの通りに実行してくださるお方ですから、陳情に行くだけで、私たちの心は一気に晴れるのです。

お祈りします《不法を行う者たち みな私から離れて行け。【主】が私の泣く声を聞かれたからだ。【主】は私の切なる願いを聞き 【主】は私の祈りを受け入れられる。》

天の父なる神様。あなたは私たちの神。私たちはあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。

私たちは世において多くの苦しみを経験します。それはあなたが私たちを心配してあらかじめ教えてくださっていたことでした。ですから苦しみがあることには驚きません。しかし、この実情をあなたにお話せずにいられるでしょうか。私たちの泣く声を、私たちの嘆きを、私たちの叫びを聞いてください。私たちがみ前に出て、あなたの王座の前に行くとき、どうかイエス様の十字架を思い出して、私たちをあわれみ、金の笏を差し伸ばしてください。私たちの訴えを残らず聞いてください。私たちは一つ残らず、あなたに告げます。何が起こっているのか、すべてお知らせします。どうかあなたの子たちをかえりみて、救い出し、守り、導き、養ってください。

あなたにすべてを告げることができたとき、私たちはもう大丈夫だと確信します。あなたが真実なお方であることを知っているからです。私たちは主をほめたたえます。その義にふさわしく、いと高き方、主のみ名をほめ歌います。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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