2024.04.28 主日礼拝「わたしの愛にとどまりなさい」ヨハネの福音書13:36-14:11

 


教会の壁絵が新しくなりました♪

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今週も兄弟姉妹と共に主を見上げる恵みを与えられ感謝いたします。

イエス様がよみがえられてから、天に昇られるまで40日間ありました。いくつかの出来事を聖書から思い出すことができます。ひとつの大きなことは、イエス様が弟子たちのところに戻ってこられたということです。この弟子たちはイエス様を裏切った人たちでした。イスカリオテのユダは、イエス様を売り渡したので、裏切りのイメージが強いですが、裏切ったのはユダだけではありません。イエス様が捉えられた夜、弟子たちはみな、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。不当な裁判の間も、都を歩かされている間も、十字架にかけられてからも、イエス様を助けることはなく、自分たちのいのちを心配して、鍵をかけた部屋に隠れていました。

そんな弟子たちのところに、主は戻ってこられました。これは只事ではありません。普通の人なら「絶対に許せない、二度と顔も見たくない」と思うのではないでしょうか。ところが、イエス様は弟子たちを愛しておられました。

私たちはついついイエス様が愛のお方であることを忘れてしまいます。言葉尻や一部の表現を見て、イエス様を誤解しています。私たちはイエス様を発見する必要があるのではないでしょうか。読み飛ばしてしまわないで、時に立ち止まり、「主よ、私はあなたを知りたいです」と祈り、その場面で何が起こっているのか教えていただくようにしましょう。

聖書をお開きください。ヨハネの福音書13:36-14:11(213ページ)【聖書朗読】

今日の場面はイエス様と3人の弟子(ペテロ、トマス、ピリポ)の会話です。この3人はすでに数年間、イエス様と行動を共にしていました。初対面ではありません。しかし、イエス様のことをまるで知らないかのように、「おっしゃることが分からない」と質問しています。私は妻と結婚して7年になりますが、まだまだお互いについて新しい発見があります。また驚くことに、私の両親は結婚してウン十年ですけれども、時々、相手の新しい一面を発見するそうです。それはまるで新しい人との出会いのようですね。相手は何も変わっていないわけですが、相手を知る知識が増えると、人が変わったかのように感じることもあります。それが素晴らしい変化か、失望か、いろいろありますけれども。しかし聖書には《この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。(ローマ10:11)》と書いてあります。イエス様を知る知識が増し加わることで失望することは決してないのです。

さて、今日の場面に入る前に、イエス様は弟子たちにこのようにおっしゃいました。33節《子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。…わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。》この話は、この時に初めてではなく、7章でも8章でもすでに伝えておられたことでした(7:33-34、8:21)。具体的には「イエス様が復活された後、御父のおられる天に帰られ、弟子たちは地上に残されること、しかしイエス様は再臨の日に帰ってこられること」を指しています(14:12)。しかし、弟子たちはイエス様の昇天や再臨を具体的にイメージすることができませんでした。

弟子たちはイエス様の言葉を聞いて不安になりました。ペテロは《主よ、どこにおいでになるのですか。…なぜ今ついて行けないのですか。》と尋ねました。この時の気持ちを想像してみてください。「イエス様はどこかに行くと言っている。私たちと離れて、私たちはそこには一緒に行けないとおっしゃっている。」尊敬し、信頼して、心の支えになっている人が、自分でどこかに行くと言っているのです。ペテロはその言葉を受け入れられませんでした。「いのちも捨てます」とは最大の努力をしてでも、離れたりしませんということです。しかし、イエス様が予告されたように、ペテロはこの数時間後に自分からイエス様を離れ去っていくことになります。

イエス様は《わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。》と言われました。今度はトマスが、《「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」》と言いました。トマスは見たものを信じるタイプの人です。「その道というのは国道何号線ですか?」と。居なくなるなら行き先ぐらい分かるようにしといてくださいという感じですね。トマスはこの数日後、復活のイエス様を見るまで信じないと言いました。

イエス様は「わたしが道です」と答えられました。《わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。》と教えてくださいました。すると、今度はピリポが言いました。《「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」》目に見えない神様を目に見えるようにしてくださいとイエス様に言いました。イエス様こそ、人の目に見えるように、触れられるように、聞けるように、人となって地に来てくださった主ですのに、ピリポは父を見せてくださいと言ったのです。

イエス様はこの時、弟子たちを安心させようとしておられます。《あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。》とおっしゃったのです。しかし、この時、この瞬間、イエス様のことばは弟子たちを不安にさせました。弟子たちはイエス様のことばが理解できず、イエス様が居なくなるという点しか頭に入ってこなかったからです。イエス様が考えておられたのは、この瞬間の不安ではなく、いざイエス様が居なくなってしまった時の平安でした。当時、イエス様とユダヤ人の宗教指導者たちとの緊張が高まっていて、弟子たちはただでさえ不穏な空気を感じていました。そこでイエス様が、「わたしはあなたがたがついてこれないところに行ってしまう」と言われたら、弟子たちは不安になるに決まっています。でも、イエス様はもっと先にある試練のことを考えて、備えていてくださいました。

弟子たちの反応は、「大変なことが起こるなら、自分たちで何とかしよう」という姿勢です。イエス様を見失わないように全力でしがみついていよう。イエス様の行く道を把握しておこう。自分の目で神様を見えるようになっておこう。自分で予防しておけば不安はない、自分で分かっておけば不安はない、自分の能力をつけておけば不安はない。この後、読み進めていきますと、16:17までいっても、まだこう言っています。《そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。》しかし、イエス様は「わたしを信じなさい」とおっしゃいました。イエス様がお話になったことは、その時点では誰にも想像がつかないことでした。ですから、いくら頭をひねっても分からないことなのです。イエス様が天に昇っていかれる様子を見た時に、初めて、この話だったのかと分かることです。イエス様が彼らに願われたのは、イエス様を信じることでした。イエス様がおっしゃる通りになることが一番安全だ。イエス様が備えてくださるから大丈夫だ。イエス様を知っているのだから十分だと信じることでした。

「分からない、分からない」と言い続けた弟子たちですが、イエス様は彼らを本当に愛しておられました。ここから続く14章、15章、16章とイエス様は教え続けなさり、17章では、何と彼らのためにイエス様ご自身が祈ってくださったのです。イエス様はこう言っておられます。《父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(15:9)》イエス様が「わたしの愛にとどまりなさい」と言ってくださらなければ、どうなっていたことかと思います。もし「危険の時にわたしを見捨てて逃げないようにしなさい」とか、「わたしを知らないと言わないようにしなさい」とか、「復活を疑わないようにしなさい」と言われていたら、大変なことでした。弟子たちはみな、それに失敗したからです。ところがイエス様は「わたしの愛にとどまりなさい」と言ってくださったのでした。イエス様を見捨てて逃げ、イエスなど知らないとのろいをかけて誓い、釘の後に指を差し入れるまで復活を信じないと言った時、まだそこにイエス様の愛がありました。弟子たちがイエス様の愛にとどまり続けたというよりも、彼らが逃れることができないほど、イエス様の愛はすべてをおおって、ひろく、ふかく、包んでいたのです。

ダビデ王はこのように歌いました。《私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って 海の果てに住んでも そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。たとえ私が「おお闇よ 私をおおえ。私の周りの光よ 夜となれ」と言っても あなたにとっては闇も暗くなく 夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。(詩139:7-12)》

またパウロはこのように書いています。《だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。…私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:35,38-39)》

私たちがイエス様に投げかける言葉は、見当違いであることが多いのではないでしょうか。自分がしっかりすれば大丈夫とどこかで思ってのではないでしょうか。ですから、いざ大きな困難に直面すると大慌てしてしまいます。そんなめちゃめちゃな人生はやめて、イエス様を信じませんか。私たちを心配してくださるお方。私たちが知り得ないこともすべて知っていてくださるお方。いざという時のために必要なことをあらかじめ教えてくださるお方。失敗し続けても、決して見捨てることなさらないお方。私たちが聞いて、自分の目で見て、じっと見つめ、自分の手でさわることができるように人として表れてくださった主ヤハウェ(Iヨハネ1:1)。この主イエス様を信じましょう。

お祈りします《わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。》

天の父なる神様。私たちが歩くのも伏すのも見守り、私たちの道のすべてを知り抜いておられるお方。私たちの主よ。

あなたに至る道として、イエス様が私たちのところに来てくださいました。私たちは自分の人生の行く先を知りません。その先を知らないので、きっと大丈夫だろうと思って、自信を持っています。しかし、あなたはすべてを知り抜いておられ、私たちを心配してくださっています。これから迎える試練に備え、必要なことを教え、わたしを信じ、わたしにつながっていなさいと招いてくださっています。道、真理、いのちである主イエス様。わからないからと不安になってしまう私たちをあわれんでください。あなたの言われること、あなたのなさることはすべて意味があり、愛のゆえであることを信じます。人の予防策や、計画、能力はいざという時に何の役にもたちません。ただあなただけが依り頼めるお方です。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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