2023.10.1召天者記念礼拝「永遠の栄光の喜び」Ⅱコリント人への手紙4:14-18

今日は先に天に送った兄姉を偲ぶ会でした。
秀丸 · 1 時間前
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。2023年の召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。王寺教会では毎年一度、教会員であった、また教会に関わりのあった召天者を偲んで、召天者記念礼拝をもっています。教会でお一人ひとりのお名前を呼び、共に召された兄弟姉妹を思い出すささやかなひとときであります。主にある家族としてこのような時を共に過ごさせていただけることは感謝なことです。
 しばらくの時、聖書からお話させていただきたいと思います。召天者を思い出す時に、聖書に目を留めることは大切なことです。イエス様がある時、先に亡くなった人の様子を教えてくださったことがありました。その話の中で、死んだ後の様子を自分で見た男は、もう一度よみがえって、自分の家族にこの様子を伝えたいと申し出ました。しかし、生きている人には聖書があるので、その必要はないと答えられたのでした。聖書には先に召されていった方々が、この地に生きている私たちに伝えたいと願っていることが記されているといいます。そういうわけで、聖書のお話をさせていただいています。
 聖書はとても分厚くて、文字ばっかりで、古代の言葉を翻訳したものですので、なかなか読みづらく、意味が捉えにくい本です。それでも頑張って読んでみますと、どうやら古代イスラエル民族という人たちの歴史であることが分かってきます。この古代イスラエル民族が辿ってきた歴史は、世界中のすべての人の人生の縮図だと聖書は示しているのです。とても不思議なことですね。でも、私たちが今日思い出しています、兄弟姉妹がクリスチャンとして生涯を歩み続けなさったということは、「確かに古代イスラエル民族が主とともに歩んできた歴史は、私にとっても人生の縮図であった」と証言してこられたということなのです。
 教会は毎年この時期に、仮庵という出来事を思い出しています。今日も会堂には仮庵の飾りがあり、珍しく思われたことでしょう。仮庵とは、一時的な住まいという意味です。キャンプ場でテントを張って、過ごされたことはありますか。実際はモンゴルの移動式住居のようなイメージに近いのですが、テントのようなことです。あるいは災害時の仮設住宅を思い浮かべていただいてもいいと思います。古代イスラエル民族は、歴史の中で、仮庵に住みながら、荒野を旅して生活していたことがありました。彼らは自分の場所といえる領土を持っていなかったのです。いつも、どこにいっても、余所者でした。土地の人たちの顔色を伺いながら、不便を強いられていました。しかし、彼らの神である主は、ずっと昔からひとつの約束をしておられたのです。彼らがやがて土地を手にして、ひとつの国となり、世界中の人の驚きとなるという約束でした。そして聖書が記録しているのは、古代イスラエル民族が神の約束どおりに、自分たちの土地をいただき、ひとつの国となったということです。
 このことは私たちひとりひとりの人生に起こっていることであり、また召された兄弟姉妹が歩まれた人生に起こったことだと聖書は言います。すなわち、私たちが「人生」と呼んでいるものは、仮の住まいであり、最終的に私たちが永遠に住まうところは、イエス様が用意しておられる約束の地にあるのです。私たちもやがて、先に召された兄弟姉妹と再開し、共に約束の地で永遠に住まうことになります。
 さて、前置きが長くなりましたが、今日は聖書の中にある使徒パウロの言葉を読ませていただきたいと思います。《主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(IIコリント人への手紙4:14-18)》
 ここに「落胆」「衰える」「苦難」という言葉が出てきます。仮の住まいといえば、簡単に壊れてしまったり、暑い・寒いなど不快であったり、心が落ち着かず不安を感じさせたり、土地の人から嫌がらせを受けたりするものです。私たちの人生はどうでしょうか。また今日思い出している、あの方々はどのような人生を送られたでしょうか。目に見えるところには「衰え」や「苦難」と呼べるものがあったのではないでしょうか。しかし、クリスチャンは見えないものに目を留めるというのです。見えないものとは、神の約束です。この仮住まいの生活は必ず終わりが来て、永遠の住まい(「私の土地」と言える場所)に迎え入れられるという希望のことです。ですから、目に見えるのは苦難であるかもしれませんが、目に見えない希望があるので、苦難を乗り越えていくことができるのです。
 パウロはこの苦難について、「一時の軽い苦難」と書いています。この人はそんなに苦労しなかったんだねと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。別の箇所ではこのように書いてありました。《労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。》このレベルの苦難です。凄まじいですね。でも、パウロはこのようなことを指して、「一時の軽い苦難」と言ったのです。比較してみたら、そんなに凄まじいと思える人生ですら軽いと言えるほど、神である主が約束してくださったことは大きな大きな恵みなのです。《私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。》
 先に召された方々のクリスチャンとしての歩みを思い出してみてください。その人生の歩みには素晴らしいことが沢山あったと思います。また同時に大変なことも、大きな波のように何度もやってきたのではないでしょうか。あの方々はどうやって苦難を過ぎたのでしょうか。なぜ落胆することがなかったのでしょうか。それは主がいつも彼らと共にいてくださって助けてくださったからであり、それゆえに主が誠実なお方だと知っていたからでしょう。そして神の約束の希望を確信なさっていたのです。今は、希望の確信が現実となり、「主の約束を信じて歩みなさいよ」と私たちに伝えたく願っておられると思います。
 日本では、人が亡くなると「安らかなご永眠をお祈りします」と言いますね。亡くなった後は安らかに、というのが日本人のイメージですね。「人生には色々な煩わしいことがあったけれども、ついにそれらから解放されて、心が安らかになられますように」願っている、ということだと思います。一方で、聖書を読んで分かる、生涯を終えた人たちの様子は、「安らか」とはちょっと違うのです。ヨハネの黙示録にはこのような描写があります。《その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」(黙7:9-12)》安らかとは、またちょっと違いますね。むしろ、喜びに満ちて、讃美している姿があります。
 どんな苦難も、一時の軽い苦難と言えてしまうほどに素晴らしい永遠の栄光が待っているのです。これが聖書が伝えていること、イエス様によれば、先に亡くなった人々がよみがえってでも家族に伝えたいと願っていることです。主イエスを信じ、天の御国にはいる準備をしているなら、私たちもやがて永遠の住まいに迎え入れられます。先に召された兄弟姉妹も、主に連なる私たちもみな、イエス様のよみがえりにあずかり、共によみがえって神のみ前に立ち、再会する時がやってきます。一緒に永遠の栄光をいただく日です。それは喜びの時です。私たちは喜び、共に讃美します。
 
 お祈りします《主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。》
 
 天の父なる神様。御子を死の苦しみから解き放って、よみがえらせたお方。また同じように、死人をよみがえらせ、いのちをお与えになるお方。私たちの主よ。
 今朝、私たちは召天者記念礼拝の時を、御前で喜んでいます。あなたの元に召された方々は消えてしまったのではありません。仮住まいから解放されて、主のみ元におられます。私たちとともによみがえって復活のからだをいただく日を待ち望んでおられます。「大切なことは聖書に書いてある。それをよく読み、神である主の声に耳を傾けて、信じて歩みなさい」と言っておられることでしょう。
 主よ。私たちの目を永遠の栄光に満ちる天に向けさせてください。私たちの仮庵の旅は続いています。最後まで忍耐をもって歩み続け、ついに喜びに満ちた再会の日を迎えることができますように助け導いてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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