2023.9.24主日礼拝「主イエスを喜ぶこと」ルカの福音書17:11-19

すっかり秋らしくなりお空が高くなりました。

この気候がずっと続いて欲しい今日この頃です。

秀丸 · 1 時間前
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。今週も新しい日が始まりました。私たちの主イエス様の恵みに感謝しましょう。主の御前に休み、すべての事柄は主から始まり、主が私たちを用いて、成し遂げてくださることをまず認めましょう。今週も恵みの時が始まります。
 今日は入門編のお話をします。私は入門編のお話をする時に、イエス様と人々の会話を思い出します。福音書にイエス様と誰かの会話が沢山記されています。イエス様は度々、人々から何かを尋ねられていました。イエス様の答えは、一見すると、質問と噛み合っていないように思えることがあります。イエス様はいつも自由に話しておられました。質問というのは、例えば誘導尋問という言葉があるように、相手が返す言葉を制限します。質問にはテーマがあり、時に限られた選択肢があります。囲われた土俵があるのです。しかしイエス様の関心は質問の土俵にではなく、会話をしている相手にあります。
 入門編と聞けば、キリスト教の成立過程とか、聖書は誰が書いたかとか、クリスチャンはどのような宗教儀式や規律を守っているのかとか、そのようなことが質問として頭に挙がってくるでしょう。しかし、私が入門編としてお話しているのは、イエス様のことです。入門って何でしょう。それは、あなたがイエス・キリストを見つけることです。すべては主イエスとの出会いから始まるのです。
 主イエスは十字架にかかって死に、葬られ、3日目によみがえって、天に昇り、今も生きておられ、聖霊を遣わしておられるとクリスチャンは証言しています。これは確かな証言であり、聖書がその証拠です。聖書は2千年以上に渡って、手書きで書き写すことによって後世に伝えられてきました。「本当に何千年も写本が繰り返されてきたのか?そんなもの教会が作った“お話”だ」と言う人たちもいました。しかし、考古学の発展により、発掘してみたら、確かに古代の地層から聖書が出てきて、作り話ではないことが証明されました。イエス様がよみがえられたことを目撃し、共に40日間過ごした人たちの当時の証言が、ここにあるのです。
 よみがえられ、今も生きておられるイエス様は、あなたの周りにいるクリスチャンたちに語りかけられました。クリスチャンたちは、よみがえりのイエス様と出会いました。今日、あなたにもイエス様は語りかけておられ、主を知るように願っておられます。
 聖書をお開きください。ルカの福音書17:11-19(153ページ)【聖書朗読】
 
 サマリヤとガリラヤという地名が出てきました。旧約聖書を読むと、これらの土地の背景が分かります。サマリヤにはサマリヤ人、ガリラヤにはユダヤ人が住んでいます。彼らは実は古代イスラエル王国に同じルーツをもつ民族でした。ただし、北のサマリヤ人は他の民族の血も混じっている人たちで、南のユダヤ人はイスラエル民族の中だけで結婚することを厳格に守ってきた人たちです。同じルーツをもちながら、お互いに敵対する関係でした。また古代イスラエル人の神はヤハウェと呼ばれるお方なのですが、サマリヤ人はゲリジム山でヤハウェを礼拝し、ユダヤ人はエルサレムでヤハウェを礼拝しました。古代イスラエル王国(ダビデ王国)の都はエルサレムにありましたので、ユダヤ人はサマリヤ人に対し、優越感を持っていました。私たちの民族が純粋で、私たちの神殿が由緒正しいと思っていたからです。サマリヤ人は見下されていたのです。
 そのような敵対する民族でありながら、今回イエス様が通られた場所では、ユダヤ人とサマリヤ人が一緒に生活をしていました。彼らはみなツァラアトに冒された人たちだったのです。ツァラアトとは(これも旧約聖書に出てきます:レビ記13-14章)、古代イスラエルにおける宗教的な穢れを指します。ツァラアトの人は汚い、他の人も汚れに触ると一定期間、汚れると教えられていました。ツァラアトに冒された人たちは、普通の人の町から離れて、暮らさなければなりませんでした。もしツァラアトが治ったら、祭司に見せに行きます。所定の検査でツァラアトが無くなっていることを祭司が確認し、「この人はもう汚れていない、この人はきよい」と宣言すると、治った人たちは普通の人たちの町に帰ることができます。そういうことで、彼らはサマリヤ人とユダヤ人という、普通なら敵対する民族同士の人たちでしたが、同じくツァラアトに冒され、町を離れて生活しなければならなかったので、民族どうこうは脇において、一緒に生活していたのです。
 ツァラアトに冒された人たちは、町から離れて暮らすだけではなく、普通の人たちが近づいてきた時に、遠く離れた場所から叫ばなければならないと決められていました。自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりません(レビ13:45)。このような人生を想像できますか。自分は汚れていると自覚し、人々から離れていなければならないだけでなく、それを隠しておくこともできません。人が近づいてきたら、大声で「私は汚い」と伝えなければなりません。
 今日の日本でも、実は他人から離れて暮らしている人たちがいます。町に住んでいる人たちは彼らに気が付いていません。町で彼らを見かけないからです。しかし、実は近くにいて透明人間のようにして暮らしています。彼らはイラショナル・ビリーフ(irrational belief:心理学用語)という強い信念に縛られて、苦しんでいる人たちと言われています。例えばこのような信念です。「完璧な仕事をしなければならない」「親に迷惑をかけるべきではない」「意味のない一日を送ってはならない」「同年代と同じような生活をすべきだ」「人に嫌われてはならない」「他者からの評価に値する自分でいなくてはいけない」「失敗しない選択をしなければならない」「なんたかの肩書は大切だ」「争いはさけるべきだ」「人からの指示や意見を受け入れなくてはならない」。これらを満足に成功させられる人など存在しません。確かに世間で耳にすることがある信念ですが、大体の人は、これらのことは程々でよいか、実際は全く気にすることはないと考えるのです。ところが何かのキッカケで、非常に強く縛られてしまうと、ひとまずの解決法は他人と触れないで暮らすことになります。
 ツァラアトの人たちは、イエス様の一行が近づいてきた時、普段ならば遠く離れた場所から「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした。でも意を決して、別の言葉を叫びました。《「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」(13節)》イエス様を出迎えたということは、イエス様のうわさを聞いていたのでしょう。イエス様が《すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒や(マタイ9:35)》しておられたことを知っていたと思います。普通はツァラアトの問題が治療されるなんてことはありません。もし自然に治ったら、町に戻れるということだけです。祭司は治ったかどうかを調べてくれますが、癒やすことはできません。「でもイエス様なら、私たちのわずらいを癒やしてくれるかもしれない。」と思ったのでしょう。《「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」》と大声で叫びました。
 イエス様は《「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」》とおっしゃいました。ツァラアトの人が祭司のところに行くのは、皮膚に現れているツァラアトの特徴が消えた時だけです。きよいと宣言してもらうために行くのです。彼らがイエス様に言われたとおりに祭司のところに向かうと、その途中でツァラアトの特徴が皮膚から消えました。これで祭司のところに行けば、きよいと宣言してもらえ、ついに町に戻ることができます。9人はそのまま祭司のところに向かって、きよいと宣言してもらい、町に入っていったことでしょう。しかし、そのうちの一人は、そのまま祭司のところに行かないで、大声で神をほめたたえながら引き返してきました。そして、イエス様の足元にひれ伏して(礼拝の姿勢)、感謝しました。ツァラアトが治ったのですから、彼は祭司に見てもらって、町に入ることができます。でも彼にとって、それは後回しでも良いことでした。
 彼はツァラアトの意味を知っていたのだと思います。町から追放されて暮らすということは、エデンの園を思い出させます。人はエデンの園から追放されました(創3:23)。神である主から人が離れて暮らさなければならなくなったことを、民全体がいつも覚えておくために、彼らは町から離れて生活するように定められていたのでしょう。
 ツァラアトがきよくなって、人に近づくことができるということは、イエス様に近づけるようになったのです。彼は何よりもそれが嬉しかったのです。町に入ることはもういつでもできます。だからそんなことは後回しにして、「わたしはヤハウェだ(ヨハネ8:58)」とおっしゃったイエス様のところに、大きな声で讃美しながらやってきました。エデンの園を追放され、主との関係が切れてしまっていたのに、そのわずらいは癒やされて、もう一度、主に間近にお会いできるようになったのです。こんな奇跡は他にあるでしょうか。
 イエス様のところに引き返してきた一人はサマリヤ人でした。他の9人のうち何人がユダヤ人で、何人がサマリヤ人だったのか分かりませんが、イエス様はこう言われました。《「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」(17節)》サマリヤ人はユダヤ人に見下されていました。しかし、民族は問題ではありませんでした。主に近づけることを喜ぶ人は多くありません。本当に大切なことを見出す人は少ないのです。このサマリヤ人のように、主を喜ぶことの価値を知る人は幸いです。イエス様は彼に言われました。《「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(19節)》 10人ともツァラアトを癒やされたのです。しかしイエス様は、このサマリヤ人が救われたことを明らかになさいました。救いとは神との人格的な関係を回復することです。
 イエス様はどんなわずらいも癒やされるお方です。他人と触れれば自己否定の思いに引き込まれると恐れる方もおられるかもしれません。でも、イエス様ならどうでしょうか。「汚れている、汚れている」と叫んでいた人たちが、意を決して、イエス様を出迎え、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と叫びました。あなたもイエス様に祈ってみませんか。祈りは叫びだと聖書は言っています。そして主は叫びを聞いて、救ってくださると書いてあります。
 イエス・キリストは人の罪を背負って、十字架にかかって死なれました。あなたの身代わりとして命を犠牲にされました。ありのままのあなたはそれほどまでに神の目に高価で尊い存在だからです。そして、主イエスは、人間の敵である死に勝利し、よみがえられました。
 イエス様がきよめてくだされば、私たちは神である主に近づくことができます。「立ち上がって行きなさい」とイエス様は言われました。先に町に戻っていった9人は、喜び勇んで町に入っていたことでしょう。しかし、それからどうなったのか想像してみれば、きっと町に入った後に多くの困難にぶつかっただろうと思います。あのサマリヤ人も、イエス様を礼拝した後、町に入ったと思います。元ツァラアトの人なのですから、人々の目はそう簡単には優しくならなかったかもしれません。でも、彼には主が共にいてくださいました。どんな困難にぶつかろうとも、神と仲直りできているのですから。恐れることはないのです。
 主イエスを見出し、イエス様と出会って、立ち上がる、新しい人生を始めませんか。
 お祈りします《この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」…「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」》
 
 天の父なる神様。まことにあなたは大いなる方。大いに賛美される方。すべての神々にまさって恐れられる方です。
 イエス様。あなたはわたしたちの地に来てくださり、あらゆるわずらいを癒やされました。この世界にはあらゆる種類のわずらいがあります。時代が変われば良くなると期待しますが、時代が進むほどに新たなわずらいが現れています。しかし、主よ、あなたにはどんなわずらいも癒やすことがおできになります。どうか私たちをあわれんでください。
 あなたが私たちをきよめてくださるなら、私たちはあなたに近づくことができます。なんという喜び、なんという特権でしょう。すべての人々があなたを礼拝する喜びを知りますように。
 主よ。私たち、教会を良い知らせを伝える足として、用いてください。あなたが救いの御手を差し伸べておられることを伝えることができますように。主を礼拝する時が、毎週開かれ、誰でも招かれていることを伝えることができますように。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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