2023.10.22 教団創立記念礼拝「アブラハムの子ザアカイ」ルカの福音書19:1-10


来週はこの絵を描かれた先生がゲストで来られます!
楽しみです♪
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。本日はインマヌエル綜合伝道団の創立記念礼拝です。昨日10月21日は78回目の教団創立記念日でした。インマヌエル綜合伝道団が始まる前も遡れば、中田重治のホーリネス教会、アメリカのホーリネス運動、ジョン・ウェスレーのメソジスト運動…と繋がっていき、最初の源流はイエス様の弟子たちの群れということになります。(さらに遡って、神の民イスラエル、アブラハム、アダムと流れを見ることもできます。)
 その繋がっている流れの中で、戦争がいくつも起こった20世紀前半のキリスト教会の合同はひとつの大きな出来事でした。政府の強い要請(圧力)により、プロテスタント諸派は日本基督教団というひとつの組織にまとめられることになりました。やがて第二次世界大戦が起こり、戦争が終わって、合同教会の縛りも解かれ、焼け跡から新しい時代が始まります。戦時中にはキリスト教会への弾圧があり、多くの牧師が理由が分からないまま投獄されました。教会の組織は有事にあって、ある意味で崩され、これから建て直していこうとしていたのです。
 そのような中で、蔦田二雄師は戦前の教会組織の建て直しのために働くのではなく、新しい宣教の働きを始めていく思いを主から与えられていました。戦前にはホーリネス教会の分裂騒動があり、裁判を起こすほど両陣が争い、相手を罵倒したり、到底イエス様の教会とは証しできない状況を見ていました。色々と巡る思いがあったのではないかと思います。本当に主に献身し、神の国とその義を求めている人たちが加わってくれることを願って、蔦田二雄師はこれまでの同労者たちに手紙を送り、イムマヌエル綜合伝道団を主の導きにより起すことを伝えました。今日、プリントしてお配りしましたのは、その手紙の内容です。
 人間が体と魂によって、ひとつの生きたものとなっているように、教会と神の国の関係もひとつとなる必要があるでしょう。目に見えるものは、主の御手によって作り変えられます。それは陶器作家が、焼きあがった器を地面に叩きつけて壊す様子と似ています。私たちには、「主よ、何てことをなさるのですか」と思う時期があります。しかし、教会は神の国を表すキリストのからだであるように願われています。芸術家に妥協はありません。思い描いたものが目の前に現れるまで、やり直しは続きます。
 「教会は会社ではありません。生けるキリストのからだです。」王寺教会に来た初日から、このことをお伝えし続けていますが、十分に伝えきれていない力不足を感じながら3年目を過ごしています。主イエス様は働きの先頭に立って、教会を導いておられます。神の国と神の義をまず第一に求める人が加わってくるように願って、あなたを招いておられます。
 さて、聖書をお開きください。ルカ19:1-10(157ページ)【聖書朗読】
 
 今日は、ザアカイという人がイエス様と出会った時の話です。彼は取税人の長で、金持ちでした。私はよく教会のチラシ配りに出かけます。周辺の住宅街を歩き回って、ポスティングをします。すると、世の中には色んな住宅があるのだなと気が付きます。アパートのような集合住宅があれば、庭付きの一軒家や、関所のような門構えの豪邸まであります。ここに住む人はどんな生活をしているのだろうか、なんて考えることもあります。外から見ますと、キレイで静かな環境の中、広々とした最新の豪邸に住んでいる人たちは、きっと心穏やかに生活しているに違いないと思えてきます。きっと社会的に素晴らしい地位にいて、世界を変えるような良い仕事をしているに違いないと思えてきます。
 しかし、私たちが持っている印象は実際の姿と違うことがあるのも、時に事実です。今年は、中古車販売の業界トップ企業で、パワハラと不正が発覚しました。違反行為の点数が合計360点以上積み上がると民間車検場としての指定が取り消しとなるそうですが、その企業のある店舗では1万3584点の違反が見つかったのです。嘘のような本当の話です。
 ザアカイは取税人のかしらであったと書いてあります。当時のユダヤ人自治区はローマ帝国にありました。ローマ帝国の税金を、人々から徴収するのが取税人です。エズラやネヘミヤの時代に、ユダヤ人がエルサレムに帰ってきて、神殿を再建してから、400年以上経っています。預言者も現れることなく、ローマ帝国の下で“現代化”していく時代にあって、帝国政府の仕事を担う取税人は、ユダヤ自治区という狭い世界から視野を広げれば、まあ悪い仕事ではなかったわけです。ところが、嘘のような本当の話、評価される地位にいる人たちが清らかな倫理観をもって、公正に仕事をしているに違いないという印象は、事実でないことがあるのです。当時の取税人はそうでした。ザアカイには、人々から脅し取った物がありました。おそらく業界の中に騙し取る慣習があったのでしょう。福音書の他の箇所には「取税人」が悪い人たちを指す言葉として出てきます。地元の人々は取税人が悪行を働いていることを知っていましたが、監督者には見つからない方法でうまくやっていたのです。
 不正が蔓延っている業界でうまく立ち回るのは、どういう状態でしょうか。ひとりだけ清く正しく生きようとすれば、周りと歯車が合わなくなりますね。彼が取税人の長となれたのは、周りの人たちとうまく仕事をしてこれたからであり、業界の慣習に巻かれてきたのではないでしょうか。
 そんなザアカイは、ナザレのイエスの噂を聞いていました。イエス様は神の国が近づいたと宣べ伝え、悪霊を追い出し、人々のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やしておられました。ザアカイはユダヤ人でしたので、旧約時代のことを知っていました。しかし、古代イスラエル民族がひとつの国であったのは、千年前の話です。おとぎ話ではなかったのでしょうか。今になって聖書に書いてあった、主ヤハウェの治める国がやってくるというのでしょうか。
 ザアカイは、ナザレのイエスが町にやってくると聞いて、イエスがどんな方か見ようとしました。その様子から、彼の熱心さが伝わってきます。3-5節《彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」》このイエス様の言葉を読んで、びっくりですね。日本では、初対面の人の家に泊まりに来るなんて、普通はないし、迷惑ですから。でも、当時のユダヤ人文化では、安息日に人々を食事に招く習慣がありました。客人が泊まる用意もあったのです。ましてザアカイは金持ちですから、部屋も食べ物も働く人たちも十分でした。イエス様がカペナウムでペテロの家に泊まっていたこと、ベタニアでラザロ・マルタ・マリヤの家に泊まっていたことを思い出してください。イエス様はとても親しい人の家に滞在しながら、その地域を巡り歩いておられました。「エリコでは誰の家に泊まるんだろうか」と人々が話している様子が思い浮かびます。イエス様はエリコに入る前から、そこにザアカイがいることを知っておられました。彼が熱心にイエス様がどんな方か見ようとして出てくること、木に登ってまで近づいて見ようすることを知っておられました。今日はザアカイの家に泊まることにしておられたのです。ここにザアカイとイエス様の交流があります。ザアカイは熱心にイエス様を知りたいと思い、イエス様はその思いを一番の方法で受け止めてくださいました。
 ザアカイはイエス様を家に迎えた後、一大決心をしました。立ち上がって、主に言ったと書いてあります。ザアカイは施しや弁償の話をしていますが、旧約聖書を読んだことがないと、ちょっと意味が分からない部分でしょう。これは旧約聖書の律法(出22:1、IIサム12::6)に書いてあることなのです。かつて、ザアカイから1400年前に、主ヤハウェはご自分の民に律法を与えて、神の国の生き方をお教えになりました。民のもつ財産は、すべて神から恵みによって与えられているのであって、民の間に貧しい人がいてはならないのです。また神がひとりひとりに与えられた所有権を侵して、盗んだものは、元の物を返し、さらに自分の物を相手に与えなければなりませんでした。もし手元に補償分がないなら、持ち物を売ったり、補償を終えるまで働き続けるように教えられました。でも、ザアカイの生きている今は、ローマ帝国の時代です。そんなおとぎ話のような、千年以上前の聖書に従うのでしょうか。ローマの取税人の長なのですから、このままの人生を続ければ安泰ではないでしょうか。しかし、ザアカイは立ち上がって、決意をしたのです。目の前におられるイエス様が主であることを認め、取税人としての生き方をやめて、神の国の生き方を選ぶと宣言し、実行しました。
 ザアカイが人々から脅し取っていたと認めたら、どうなるでしょうか。収税所に迷惑がかかります。悪者同士の迷惑なんてどうでもいいだろと一般人は思いますが、政治家が記憶にございませんなど言っている様子を見ると、どうでもいい話ではないようです。なぜ記憶が失くなるのでしょうか。あの先生に、この先生に迷惑がかかるからですね。ザアカイは取税人の長を辞めさせられるでしょうし、取税人で居続けることもできなかったのではないかと思います。
 またザアカイはこの補償によって、財産をほとんど無くしてしまうでしょう。財産の半分を施すというのは、律法の基準よりもはるかに多くを手放すということです。彼が立ち上がった時、この家も手放すと決意したことでしょう。
 一体何が、彼をここまでの決意に至らせたのでしょうか。_ ザアカイは主イエス様と出会ったのです。それまでは、もう聖書の時代は終わったと思っていました。ローマ帝国の仕事をしているということは、もう新しい時代が来て、神がいるとか言っていた時代は終わったと考えていたということです。しかし、ザアカイはナザレのイエスと出会いました。イエス様がザアカイを探して、神の国に迎え入れるために、彼の家に泊まることをすでに計画して、あのいちじく桑の木の下に足を運んでくださいました。ザアカイはイエス様を喜んで迎え、自宅で話をするうちに、イエス様が聖書に書かれていた主であることを知りました。おとぎ話と思っていた、あの聖書の主が自分を探しに来てくださって、目の前におられる。彼は自分が神の国の掟に従っていない人間であることを分かっていました。それにも関わらず、神の国の外側にいる自分を、主は探しに来てくださったのです。
 取税人の生き方に巻かれて、人々から脅し取ったり、騙したりしても、こうなっているんだから仕方がないと思っていた何かが、イエス様と出会って、ボロボロと崩れ始めました。  

もうこんな生き方は要らない。ザアカイは立ち上がり、全てを捨てて主に従う決心をしました。
 そんなザアカイを、イエス様は「アブラハムの子」と呼ばれました。このニュアンスをお分かりいただけるでしょうか。ユダヤ人はアブラハムの子孫です。アブラハムの信仰によって、その子孫は神に選ばれたのです。ところがユダヤ人は罪を重ね、神の民であっても、神の目に良しと認められる人とそうでない人がいるようになりました。ユダヤ人たちは誰が良いユダヤ人で、誰が悪いユダヤ人かの線引をしていました。取税人は罪人と呼ばれ、ユダヤ人の血を引いていても、悪い側の奴らだと言われていました。イエス様は、ザアカイを正しいユダヤ人になりましたとおっしゃったのではなく、彼はアブラハムの子だとおっしゃいました。現代風に言えば、あなたは正しい教会員だと言われたのではなく、あなたはイエス・キリストの弟子だと言われたということです。
 さて、今日、ザアカイとイエス様の出会いの話をしました。それは、あなたの登っている木の下にも、イエス様が来ておられるとお知らせしたかったからです。あなたは今の小さな世界に籠もったままで良いのですか。あなたも立ち上がって、主イエスに従いませんか。主イエスは言われます。「今日、救いがこの家に来ました。この人もわたしの弟子なのですから。」
 
 お祈りします《人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。》
 
 天の父なる神様。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに、手を差しのべ、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言っておられる主よ(イザヤ65:1)。
 わたしたちは、あなたがどんな方か見たいと思って、この桑の木に登りました。まさか、あなたが木の下で足を止め、上を見上げて話しかけられるとは思いもしませんでした。聖書なんて何千年も前に外国で書かれた古文書です。時代は変わりました。人々は神を信じる時代は終わったと言っています。第一、わたしたちは自分が流れ着いた業界の中で息をし、そのルールに従ってきました。聖書の掟に照らせば、神の国に入る資格はないのです。
 ところがあなたは、私たち一人ひとりの木の下にやってきて、「この人もわたしの弟子だ」とおっしゃっています。あなたのような方は他にいません。
 いま、あなたが主であることを知りました。立ち上がり、全てを捨てて、主イエスに従います。主が生きておられるのですから、聖書は古びて過ぎ去った言葉ではないことを知りました。どうかわたしたちを神の国に入れてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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