2023.10.8 主日礼拝「はるかにまさる道」Ⅰコリント人への手紙13章


14日はゴスペル同好会です。クリスマスに向けての練習をします。

是非ご参加ください!

秀丸 · 1 時間前
(まさまさ)

礼拝説教 中尾道程牧師

しばらく前に、「牧師の責任 信徒の責任」(野田秀著)という本を読んでいました。
 その中の、「付として正論について」という項目に次のようなことが記されていました。
 『正しいということは、間違っていないという意味では正しいのですが、それが意見としてだけ主張されると、正しいのではあるけれども必ずしも受けとめられないことがあります。それぞれの社会で「正論を吐く」人ばかりが幅をきかせるとしたら、なかなか難しいことになるでしょう。人に受け入れられるためには、正論を吐くだけではだめなのです。
 上司が言ったそうです。 「おまえの言うことは正しいが、おれはおまえがきらいだ。」  だからといって、お世辞やお追従を言っていればよいということではありませんが……。
 正論は実際性に乏しいとは、理屈だけの冷たいものでもあるということです。 私は長い間、牧師して奉仕をしてきましたが、自分は正論を吐いてきたのにすぎないのではないかという反省があります。
  たとえば、これは牧師の間でも話題になることですが、悩みをもち、牧師に相談したいのだが、牧師のところに行きたくない人があります。理由は、牧師の答えはわかっている。信仰によって乗り越えなさい、と言われるに決まっているから、というのです。もし牧師がただそう答えるとすれば、まさにそれは正論であり、相談者は「ごもっともです」と
言って引き下がるしかないでしょう。最後はそうなるとしても、よく聞き、相手の状態をよく理解し、共に苦しみを分け合ってこそ、答えが単なる正論に終わらないに違いありません。
  牧師だけではありません。クリスチャン全体が正しくあろうとするゆえに、あるいは正しいという錯覚から正論を吐きやすいのです。
  たとえば、役員会を開いたとします。
 全員の意見が違ったとしましょう。役員になるくらいの人の意見が桁はずれにおかしいということはあまりない、と思います。つまり、どれもが正論でありながら、全部異なる意見であることがあり得ます。正論と正論がぶつかったら、やっかいなことになります。 ここで大切なことは、言葉にこだわっていえば、だれもが「正論を吐かない」ことです。
 そこで私たちが必要とするもう一つの問いかけは、自分の正しさが人に益するものになっているかということです。
 ……聖書を読む人は、正しさも大切ですが、それ以上に必要なものは“愛”であることを知るでしょう。』とありました。
 パリサイ人がイエス様に、「律法の中でどの戒めが一番重要か」と質問した時に、イエス様は旧約聖書(申6:5、レビ19:18)から引用して、「全身全霊で神様を愛すること」と、「隣人を自分自身のように愛すること」と答えられました。
 そこで、―「コリント第一・13章」の個所から聖書の教えている「愛:アガペー」についてー
  「はるかにまさる道」と題して、思い巡らしてみたいと思います。
 ニュースやいろんなことを見聞きして、この所から語るべく2か月以上前から心に通っていましたが、私にこのことを語る資格があるとか、出来ているとは思っていません。
 それで、説教準備のために祈り続けていましたが、準備が出来ないで時だけが進んで行き、説教箇所を変更しようかとも思いましたが、導かれたと信じて準備をしました。
 ですから、私が出来ているから語るというのではなく、皆様と一緒に聴き従わせていただきたいと願いつつ語らせていただきたいと思っています。
 
1、愛のない賜物          1~3節
 この所には、「愛がなければ」「愛がないなら」と言って、それぞれの賜物と愛が対比されています。それは、「異言に対して」―人の異言やみ使いの異言で話しても、といわれています。コリントの教会では異言で語ることについて、とても関心が払われていて、それが大きく評価されていました。しかし、「異言は」その解き明かしをする人がいないなら、周りの人にとっては理解できない言葉です。どんなに素晴らしいと言っても、そこに愛がなければ騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じーただの騒音なのです。
 さらに、「預言の賜物」「あらゆる奥義と知識」「山を動かすほどの完全な信仰」これらがあっても、愛がないなら、無に等しいー何にも無いのと同じだというのです。「持物すべてを与え」「からだを引き渡す」、これらは愛なしにはできないことですが、それが純粋な愛によらなければ、何の役にも立たないのです。それらは、「愛がないなら」砂で作った立派な建物(砂上の楼閣)のようです。
 
2、愛の特色         4~7節
 では、その愛とはと言って、その性格を紹介しています。
 しかし、これから見ていこうとする愛の特色・性格を備えている人は、真の人となられた主イエス・キリストご自身だけであって、私たちは誰も不完全です。私たちが罪赦されて救われたのは、神様が愛のお方であるように愛ある者となるためなのです。(ヨハネの手紙Ⅰ・4章7~12節)―新483頁
 寛容は、心長く待って忍耐深く持ちこたえる、辛抱強い人です。
 親切は、穏やかで憐み深く、優しい人です。
 ねたみませんとは、他の人の繁栄や成功を苦々しく思わないのです。
 自慢せずとは、人に自分のすばらしさを言いふらしません。
 高慢になりませんとは、「高慢」にはふくらますという意味があり、自分は偉大だと過大評価しないのです。
 礼儀に反することをせずとは、荒らしくなく、ぶっきら棒でもなく、醜い行動をしないのです。それは優雅さを失わないということです。
 自分の利益を求めずとは、自分が繁栄するということは罪ではありませんが、それを人生最大の追求課題とはしないということです。
 苛立たずとは、怒りは感情的な爆発で、そのような爆発を克服するのです。
 人がした悪を心に留めずの、「心に留める又は思わず」は、計算するとか記帳するという意味です。それは、帳簿に悪ということを記入しておいて、後でそれを問題にするような帳簿を持たないのです。つまり、他人の悪をいつまでも執念深く覚えているようなことをしないということです。
 不正を喜ばずとは、愛は悪そのものに対しては不賛成「NO」を表すのです。
 真理を喜ぶとは、真理をあるいは真理と共に喜ぶのです。
 穏やかに真理を喜び、また真理の喜びを分かち合います。
 すべてを耐えるとは、その「耐える」が二つの意味を持っています。
それは、「おおう」と「耐えること、あるいは忍こと」で、愛は私たちの怒りをちょうど船が水の侵入を防ぐように、又めん鳥がひな鳥を覆って外敵から守るようにします。
 すべてを信じとは、人に対する信頼を保ち、だれについてであっても根拠のないうわさや報告を、簡単にだまされて受けいれることをしないのです。
 すべてを望みとは、第一に神様との関係において、その約束の確かさと、善を絶対的に信じ切り、人との関係においても、他の人の善意を信じる気持ちを貫きます。
 愛は、最悪のものを見ることができ、それでもなお最善を信じ切ることができるのです。
 全てを忍びますとは、試練や苦しみに打ちひしがれずに、雄々しくそこを通り抜ける忍耐を表します。それは、最も激しい戦いの中にあって、びくともしない兵士の持つ忍耐です。
 
3、愛の永続性         8~13節
  預言も異言も知識も私たちがこの地上生涯の間だけですから、すたれてやむといわれています。しかし、「愛は決して耐えることがありません。」とあり、愛は世の造られる前から存在し、世の終わった後も働き続けるのです。現在の私たちの知識は限られていて、預言も真理の全てを残らず表しているとは言えません。ですから完全なもの(愛の実体)が現れたなら、不完全なものである預言、異言、知識はすたれるのです。パウロは、この完全なものと不完全なものの対比を子どもの考えと大人の考えの差に例えています。そして、彼はコリントのクリスチャンがバランスの取れた大人の考えに成長することを祈っています。
 もう一つのたとえは、鏡で見る像とじかに見る像との差です。コリントは、鏡の産地としても有名だったようですが、当時の鏡は銅などの金属を磨いて作ったもので、見る物をぼんやりとしか見られませんでした。そのように、私たちの主イエス様に関する知識は鏡で見る像のように限られ、不完全なものです。しかし、主が再び来られる日の「その時」、私たちは主と顔と顔を合わせて相見ることになります。その時、私たちの「見えないものを信じる」信仰は成就します。そうして今、私たちを支えている希望は現実となります。ですから愛こそが来るべき世での支配原理となるのです。(13節)「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(12勝31節a)に言われていますように、「あなたがたは、よりすぐれた賜物(愛)を熱心に求め」ようではありませんか。
―お祈りします。―

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