2023.9.3主日礼拝「主に従う」伝道者の書12:13-14


今年のクリスマスのテーマ決まりました!
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。今日も兄弟姉妹と共に主を賛美する時をもってていますこと感謝します。
 今日はイエス様が復活された日曜日であり、私たちが週に一度集まって礼拝式をもっている日です。私は聖日の、この時間を意識して礼拝式と呼ぶことがあります。礼拝と呼ぶと、この時間だけが礼拝の時間であるように感じられるかもしれないと思うからです。礼拝式は私たちが一堂に集まって、主の御前で心を注ぎだす時であり、まさに礼拝の時です。しかし、神である主は私たちの感情だけを求めておられるのではありません。むしろ私たちの心を求めておられます。歴代誌にはこのような一節があります。《【主】はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。(II歴16:9)》礼拝式の讃美のうちに、また祈りのうちに、私たちの感情があふれてくることは大切なことですが、感情は時々、私たちの行動と離れて舞い上がっていくことがあります。私たちは日曜日の朝だけ神の御前にいるのではありません。いつも主の目は私たちに注がれていて、主の道に従っていくことを求められているのです。それは私たちの人生の生き方に関する事柄です。
 私たちの信仰と、それに基づいた生活は、まず聞くことから始まります。今日も御言葉に耳を傾けましょう。聖書をお開きください。伝道者の書12:13-14(1154ページ)【聖書朗読】
 これまで聖書全体の物語を読んできました。聖書には時間の流れがあり、起承転結のような物語独特のメッセージの伝え方があります。聖書を細切れにしないようにと言われるのはそのためです。聖書全体から始めて、ズームインして、毎日読んでおられる箇所のメッセージを受け取っていただきたいと思います。
 そういうわけで、前回までに一通り旧約聖書と新約聖書の物語を説明し終えました。神が天と地を創造し、人を造った。人は神を離れて罪を犯した。神はアブラハムを選び、イスラエルの歴史を通して、人にメッセージを送られた。御子イエス様が来てくださり、十字架と復活が成し遂げられた。主イエス様は天に昇っていかれ、やがて帰ってこられる。このような物語(実際にこの世界で起こっている出来事)でした。しかし、それにしては聖書のいろんな部分を飛ばしているなと、お気づきになられたのではないでしょうか。そうなのです。聖書は物語の筋書きだけではないのです。
 確かに福音の物語は聖書の中心です。それは聖書の骨と言えるでしょう。では聖書は骨だけなのかと言えば、実は骨に肉がついているのです。聖書が示す神の物語、すなわちこの世界で昔から今までに起こってきたこと、そして未来に起こることの中に、私たちは存在し、生きています。では、この物語を生きている私たちは、どのように人生を生きていくのでしょうか。それは骨に対する肉の部分です。
 これから、旧約聖書の方に戻ろうとしていますが、同じ話を繰り返していくのではなく、骨に肉をつけていきたいと思います。つまり、神の物語を生きている私たちは、神である主とどのような関係をもって人生を歩むのか、またこの世界で他の人とどのような関係をもって歩むのか、さらに自分自身や私たち自身(神の群れ、教会)とどのような関係をもって歩むのか、お話していきたいと思います。
 まず今日からお話しするのは、神である主とどのような関係で生きていくのかです。
 今日は伝道者の書の結論部分を開かせていただきました。《結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(13節)》
 聖書全体の物語を追っていきますと、私たち人と神である主との関係性が見えてきます。またそれは始まりから終わりまで変わることがない関係性です。《はじめに神が天と地を創造された。(創1:1)》《神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創1:26-27)》創世記にこのように書かれているように、主は人の創造主であり、人は主に造られた者です。アダムとエバだけではありません、私たち一人ひとりも造られました。詩篇にはこう書かれています。《あなたこそ私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。(詩篇139:13)》主と人との関係は、創造主と造られた者の関係です。
 また神の民イスラエルはアブラハムから始まりましたが、国としての始まりは出エジプトにあるとも言えます。十のことばは、次のように始まっていました。《わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。(出20:2,申5:6)》主と人との関係は、救出してくださった方と解放され、買い取られた者の関係です。モーセはファラオに主のことばを告げました。《イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。(出4:22-23)》救い主と従う者の関係があります。
 主と私たちは、創造主と被造物、陶芸家と器、王としもべ、羊飼いと羊、父と子なのです。その関係は変わることがありません。イエス様は仕える者として来てくださったとおっしゃいましたが、それは私たちが王になって、主がしもべになったという意味ではありません。先日引用したイエス様の例え話がありました。《主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。(ルカ12:36-37)》この例え話でも、主人としもべの立場が入れ替わったとは言っていません。主人がしもべの姿をとって給仕してくれるという話なのです。
 私たちは主に仕え、主に従うように造られています。ところが、この「従う」ということが、どうしてもやりたくない感じがするのです。実際、エデンの園でアダムとエバは、善悪の知識の実を食べて、神のようになろうとしました。神と人の関係性を変えたくなったのです。これが罪です。私たちの心には神と私の関係を逆転させてやりたいという欲があるのです。
 主はこの世界に権威と権威に従う者を造られました。例えば、親と子や、教師と生徒、政府と国民などです。それは神である主と私たち人との関係を教えるための養育者です。基本的に子は親に従い、生徒は教師に従い、国民は政府に従って、良い物を受け取っています。ところが人間は完全ではなく、また自己中心なので、従う人がいつも良いものばかり受け取るとは限らないのです。時に苦々しい経験をすることになります。このようなイエス様のことばがありました。《あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。(ルカ11:11-13)》「それならなおのこと」とおっしゃいました。天の父は人とは違う完全なお方です。私たちは人生のどこかで、親や、教師などの権威を与えられていた人を卒業して、神である主を直接知ることが必要です。多くの人が、主を見る時に、自分の親のイメージを重ね合わせています。「主に従う」と聞いて、苦々しい経験を思い出し、恐怖心や嫌悪感を感じているのです。主が備えてくださった養育者でありますが、その限界を認め、ある時点で主に目を向けて、主の愛とあわれみ、忍耐、謙遜、自己犠牲、養い、守り、癒やし、導き、訓練の完全さを知る必要があります。
 伝道者の書は、主に従うことをせず、自分の経験と知識に従うことを選んだ人の話です。そして、この世界に住む多くの人は、彼と同じように、神に従わないで幸せをつかむ人生を描いて、日々を歩んでいます。「神なんかいるわけないだろう。宗教は詐欺師のような人間が他人をコントロールするために作り出した騙しごとだ。神に従うなんて愚かだ」と人々は言っています。それは部分的に真理です。すべての宗教とそれらの神々は人が作り出したものであると、なんと聖書にそのように書いてあります。《袋から金を惜しげなく出し、銀を天秤で量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む。彼らはこれを肩に担いで運び、それがあったところに安置すると、それはそこに立ったままである。これはその場所から動かない。これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない。(イザヤ46:6-7)》ですから、現代人が経験と知識によって、発見した事実、すなわち「あらゆる宗教の神々は人の手によってつくられたものであり、実際には役に立たないものだ」という事実は間違っていないのです。しかしそれは、天と地を創造し、私たち一人ひとりを創造してくださった主が存在しないという説明にはなりません。聖書ははるか昔から、主の他には神はいないと言っているからです。それにも関わらず、神である主に従おうとしないで生きている人が大勢います。伝道者の書を書いた人は、自分の経験と知識に従う人生を歩んでみて、ついにひとつの結論に至りました。《結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。》この結論を見出すことが人の人生の目的です。
 主に従うとは、主の道を歩むことです。イスラエルは最初、細かな指示を受けて、型通りに従いなさいと教えられました。天幕の作り方、安息日の守り方、生贄の捧げ方など、律法には細かく指示が書かれています。しかしながら、主の命令は型を守り続けなさいという意味ではありませんでした。最初は型通りにしながら、主の心を学んでいきなさいということだったのです。やがて時代が進むにつれて、心が主と全く一つとなっているかが問われるようになりました。これは職人の弟子が、師匠から学ぶ様子に似ています。最初は細かい指示が与えられるでしょう。弟子は自分が今何をしているかも、よく分からないでとにかく従います。でも、いつまでも指示だけを考えていたら不十分なのです。師匠をよく見て、何を考えて、何を大切にしているのか、それがなぜ大切なのか学んでいかなければなりません。指示通りできるようになったら一人前ではありません。その道の心を知り、立ち回り方が自然と分かるようになって一人前です。主の道を見て、それを学び、主が歩まれたように私たちも主の道を歩んでいくこと、これが主に従うということです。
 それゆえに、主に従う人は、主の教えを喜びとし、聖書に心を留めます。「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」という格言がありますが、主のことばを読み、深く学び、思いを巡らせることに終わりはありません。《【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:2-3)》
 また主に従う人は、主の預言者に耳を傾け、警告に心を留めます。聖書には悪い知らせがあります。人々は預言者が好きではありません。彼らはまず悪い知らせを語るからです。「大丈夫だよ、平安だよ、危険はないよ」と言われるのは聞いていて心地よいのですが、聖書は良い知らせだけを伝えているのではありません。「悪い知らせが良い知らせになりました」というのが福音です。ですから、まず悪い知らせが届くのです。主の預言者に耳を傾け、主の警告に心を留める人は幸いです。悪い知らせの後に、良い知らせを聞くことになります。
 神である主と、人間である私たちの関係を確認してみましょう。私たちは主に従うように造られたのです。
 お祈りします《結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。》
 
 天の父なる神様。私たちの創造主、陶器師、王、羊飼い、父である主よ。あなたの御前に膝をかがめ、御名をあがめて、心から礼拝いたします。この世界において、あなただけが神であり、あなたの他に神はいません。
 あなたは、人間の経験と知識に従って生きてみようと試みる者たちを、しばらくの間、そのままにしていてくださっています。「やってみたいなら、試してみなさい、しかし、それは命をもたらさない」と警告し、忍耐をもって、私たちが結論を見出すことを期待しておられます。結局のところ、大昔から聖書を通して教えられていた通りだったと見出すことは、人の人生の大きな目的です。
 主よ。人の人生はなんと短いことでしょう。しかし、この人生が短くなければ、どうして人は人生の空しさに耐えることができるでしょうか。あなたの備えておられる新しい人生が永遠であることを感謝いたします。私たちがあなたに従うことを選んでも、あなたは放蕩息子を迎えた父のように、奴隷としてではなく、子として迎え入れてくださいます。その謙遜さと、自己犠牲の愛は他に見ることができません。あなたの牧場の羊を、今週も養ってください。私たちはあなたに従います。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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