2023.9.17主日礼拝「認知症と私たちの希望」イザヤ書49:13-21

昨日のゴスペルには懐かしい方も来られました。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。この朝は謝恩日聖日礼拝の時をともにもたせていただいています。教会の行事としまして、謝恩日といえば敬老のお祝いをする日というイメージがあります。今日の礼拝の後に、敬老の祝福の時をもつ予定になっていますが、それと同時に、牧師の働きをおぼえる日でもあります。
 神である主はことばを語られるお方であり、また王として治め、羊飼いのように守り導き、万軍の主として敵と戦われるお方です。ご自分の群れのかしらとして、喜んで牧してくださるお方です。ところが、歴史を振り返りますと、民の方は神である主を怖がって、「主が私たちに直接語られることがないようにしてください」とシナイ山でお願いをしました。またカナンの地では、「私たちのために人間の王を立ててください」とお願いをしました。それで主は譲歩してくださり、民の願いを聞き入れて、預言者や王を選び、任命されました。現代でも「やっぱり牧師がいてくれないと困ります」とか、「牧師が言うと同じことでも違うんです」とか、耳にすることがあります。今でも数千年前と同じことが起こっているのだなと感じています。主は譲歩してくださいました。しかし決して譲ることのなかったことは、彼らを選ぶのは主ご自身であるということです。推薦や選挙で選ばれることはありませんでした。主に選ばれ、油注がれた人たちは、主に仕え、主のことばを伝える者、また主の手足として働きました。民の願いによって、選ばれることになったのに、その働きは、民に歓迎されないことがよくありました。モーセやダビデの人生をみてください。神に召されることがなく、静かな人生を送っていれば、むしろ幸せだったかもしれないと人間的には思えるほどです。しかし、ダビデは詩篇の中で《私の神【主】よ 私はあなたに身を避けます。》と詠っています。どんなに困難のある人生でも、主が近くいてくださることは一番の幸せでした。
 御言葉の奉仕は軽くみられることがあるのではないでしょうか。そんなことよりやってほしいことが山ほどあるのにと思うことはないでしょうか。私たちはみんな、忘れやすい者たちです。神の恵みを思い出すためのキッカケを必要としています。私たちの願いのために、主が譲歩してくださっていること、主はあなたのために幾人もの働き人に人生をささげて仕えるようにと声をかけ、召してくださったことを思い出し、主に感謝しましょう。
 今日も聖書をお開きください。イザヤ書49:13-21(1252ページ)【聖書朗読】
 
 ある時、ある方が私に言われた一つの言葉を思い出します。教会の集いに参加された方が帰り際に、おっしゃったことでした。それまでに私とその方がお会いしたのは2、3回くらいでした。その時、周りには私とその方の他に誰もいませんで、他の方々は声が聞こえない向こうの方にいたのです。目の前に牧師がいて、ご自分は帰ろうとしているので、ほんの短い時間、何かを言うことができるという瞬間です。その時、その方はこうおっしゃったのです。「私、認知症なんだって。」
 認知症は脳出血や脳梗塞などによって神経が損傷して起こるものやアルツハイマー病によって起こるものなど、いくつか原因があるようですが、一番多いのがアルツハイマー病です。アルツハイマーは未だに解明が出来ておらず、現代医学では治すことができない病です。また症状は進行していきます。認知症という言葉からも連想されるように、まず記憶に問題が起こってきます。最近の出来事を覚えていられない。話す時に言いたい言葉が出てこない。お金や薬の管理などができなくなってくる。計画や予想が困難になる。これが最初の段階です。もう少し進むと、時間や日付が分からなくなる。よく知っているはずの場所で道に迷う。徘徊する。着る服を選べなくなるといった症状が出てきます。やがて、身の回りのお世話を自分でできない。話す頻度が減り、聞いたことを理解できなくなる。歩いたり飲み込んだりするのが難しくなる。家族の顔を認識するのが難しいという症状が出ます。
 そういうわけで、自分の身に認知症が始まっているということは恐ろしいことですね。予防法は色々と言われていて、喫煙が良くないとか、オメガ3を取るとか、健康的な食生活、運動や脳トレをするとか色々ですが、一番の要因は加齢だそうです。65歳以上の人は5年毎に認知症の率が倍増していくと聞きましたが、結局のところ、どれだけ予防に努めても絶対にならない方法はありません。
 認知症になると、出来事を忘れてしまうのですから、どんな出来事があったのかを他の能力を使って推測しながら話すことになります。「今、お腹が空いている。だからきっとご飯はまだ食べていないのだろう」とか、「お金が減っている。何か買い物をしたのだろう」とか、思い出すという手段は使えないので、現状から推測します。それが当たっているときもあれば、そうでない時もあります。当たっている時ばかりではないので、いらいらすることがでてきます。いや、ご飯は食べたと言われているのに、お腹が空いているのはどういうことだろう。食べさせてもらってないのに、食べたと言ってるんじゃないかと、疑い始めると、お世話している人も大変になってきます。でも、イライラしてしまうのも理解できるのではないでしょうか。また言葉が出てこない。必要な単語が思い出せないというのも大変なことです。思ったことを自由に伝えられないのです。子どものような状態ですね。ついに言葉が出ないので、叫んだり喚いたりしてしまいます。うまくコミュニケーションが取れないことによって、孤独を感じていくようになります。
 今日の箇所の14節をもう一度みてください。《しかし、シオンは言った。「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。》内にこもって孤独感を強めている人の言葉のようですね。これに対して、主は何とお答えになったでしょうか。《女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。》_ 放蕩息子を思い出してください。彼は父の家に帰って、こう言おうと心に決めました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」でも、実際に父の前に帰っていった時、心に決めた通りに話すことができるでしょうか。色んなことを考えながら、彼は父の家に向かったと思います。ところが彼は心に決めていた言葉をすぐに言えなかった。いえ、言う暇がなかったのです。《まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした(ルカ15:20)》からです。たとえ、心に思ったことを口に出せなかったとしても、主はあなたを忘れておられません。たとえ、あなたが知っているはずの場所で道に迷い、帰れなくなってしまっても、羊飼いである主は、99匹の羊を置いて、1匹の羊であるあなたを探しに来てくださいます。
 聖書を開いてみてください。そこに書かれているのはどんな物語ですか。幾度も神の恵みを忘れてしまう人々を、一時も忘れることがなかった主の物語ではありませんか。出エジプトを思い出してください。エジプトをようやく脱出して、良かったと思っていたら、後ろからエジプトの軍隊が追いかけてきました。目の前は海、後ろには軍隊。もう一巻の終わりと思った時、主は海を2つに分けて、民を救われました。誰の目にも明らかな偉大な神の恵みのわざでした。やがてイスラエル人は主の恵みを忘れてしまいます。どのくらいの期間、彼らは神の恵みを覚えていられたと思いますか。3年間でしょうか。いいえ。3ヶ月でしょうか。いいえ。3週間でしょうか。いいえ。何と、3日後に彼らは水がないと不平を言いだしました。「エジプトが良かった。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた時に(そんな過去はありません。奴隷だったのですから。)死んでいたら良かった。」霊的な認知症です。神の恵みを思い出せないのです。3日前のことでさえ!私たちはイスラエル人を笑えるでしょうか。
 それにも関わらず、主はご自分の子たちをお忘れになりませんでした。ここに良い知らせがあります。21節《そのとき、あなたは心の中で言うだろう。『だれが私に、この者たちを産んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、子を産めない女、捕囚のさすらい人であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。私は、ただひとり残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』》シオンはエルサレムの丘のことであり、イスラエル王国を指す言葉です。あなたとはイスラエル王国を擬人化していっていますので、子どもが産めないというのは、国の人口が増えないという意味です。「もう国は滅亡していくしかないと思えたのに、再び人口が増えている、これはどういうことだろう」という意味です。主がご自分の民をお忘れにならないで、もう一度建て直し、祝福してくださるのです。認知症にかかれば、もう症状が進行して、最後は死ぬだけだと絶望を感じることでしょう。しかし、主はあなたを忘れないで、もう一度建て直し、祝福してくださいます。すなわち、死は終わりではなく、主はあなたをよみがえらせ、すべてを新しくしてくださるのです。ここに本当の希望があります。
 認知症にかかる人がいれば、その人を介護する人がいます。特に認知症にかかった家族の介護には、肉体的にはもちろん、精神的に疲れ果ててしまうほどの大変さがあるようです。愛する家族が、まるで別人のようになって、色んなことができなくなり、会話がままならなくなり、突然どこかに行ってしまったり、名前を忘れてしまったり、顔を見ても誰かわからないとなれば、つらいことです。「いま私がお世話しているこの人は、もうあの人ではなくなってしまったのだろうか」と苦しむこともあるでしょう。しかし、そのように思えることがあっても、別人になってしまったのではありません。特に短期的な最近の記憶は思い出すことが難しいようですが、思い出せる種類の記憶も沢山あるのです。
 思い出せる種類の記憶とは、遠い過去の記憶、体に染み付いた行動、感情を伴う出来事です。重度のアルツハイマー病の方でも、例えば、プロのバレエダンサーだった方が、ダンスの服装を着せられ、舞台に連れてこられて、音楽が鳴らされると、寸分の狂いなく踊れることがあるそうです。でも、家に帰って、「今日は何をしたの」と尋ねると、全然思い出せないのです。認知症の方々は、記憶を思い出すための助けを必要としています。でも助けがあれば思い出せます。思い出せば話すことができます。それを十分に来ていてもらえたら本当に嬉しいのです。そしてその嬉しいという感情は残ります。介護している人にとっても嬉しいことです。
 王寺教会でも、矢野姉をそれぞれに訪問しています。私が会いに行くと、毎回必ず自己紹介から始まります。私の顔は覚えておられないからです。「王寺教会の牧師です」と言います。すると姉妹は私が誰かは知りませんけれども、牧師というのは分かるのです。訪問しても、数時間後には忘れるのに意味あるかなと思っておられないでしょうか。意味はあるんです。神の恵みを思い出す助けができたのです。誰が訪問してきたかは忘れてしまいますが、神の恵みを思い出したという心が残ります。よく開かれていた聖書箇所や、写真、また賛美歌は感情を伴うので、思い出しやすい記憶です。
 それらは霊的な認知症にも効きます。私たちはどんなに若くても霊的な認知症です。でも、主が用意してくださったものは、どれも認知症であっても思い出せる種類の記憶なのです。例えば、聖書です。神の恵みを頭で覚えておきなさいと言われましたか。主は書いて残してくださったのです。忘れても、読んで思い出すことができます。イエス様の十字架はどうやって覚えておくのですか。聖餐式です。「わたしの血を飲み、肉を食べなさい。わたしを覚えて、これを行いなさい」と主は言われました。食べる、飲む。これは認知症であっても思い出せる種類の記憶です。《踊りをもって主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて主にほめ歌を歌え。(詩篇148:3)》踊りも音楽も、記憶を呼び覚まします。そして祈りです。「祈りは口より、いで来ぬとも、まことある魂の祈ぎ事なり。祈りは心の底に潜み 隠るる炎の燃え立つなり。(イ123)」たとえ言葉を引き出せなくても、祈ることができます。こうして私たちを助けを受けて、神の恵みを思い出しています。
 約束の地に着く前に、もうひとつ荒野を通らなければならないかもしれません。しかし主は共にいてくださり、あなたを忘れることがありません。あなたが荒野を通り過ぎるために必要なものを、すでに備えて、「恐れないで、わたしに従いなさい」と語りかけてくださっています。
 
 お祈りします《女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。》
 
 天の父なる神様。生まれる前から私たちを召し、母の胎内にいたときから私たちの名を呼ばれたお方。私たちの主よ。
 あなたは私たちを救い出してくださったお方です。この世の支配から解放してくださいました。あなたを知らず、あなたを拒み、自分勝手に生きてきた私たちの罪を赦し、あなたの子として迎え入れてくださいました。あなたの救いの恵みは海が分かれるよりも大きな驚くべき不思議な御業でした。ところが私たちはあなたの恵みをすぐに忘れてしまい。思い出すことができなくなってしまいます。
 どうかいつでもあなたの恵みを思い出せるようにしてください。そうできるように、あなたは多くの恵みの手段を備えてくださいました。たとえ病が私たちにおそいかかろうとも、あなたと共に、兄弟姉妹がいてくださり、神の恵みを思い出す助けをしてくれます。
 そして何よりも、あなたは私たちを忘れないと約束してくださいました。あなたは誠実なお方です。あなたの約束は確かです。あなたは私たちの本当の希望です。
 感謝して、主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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