2023.9.10主日礼拝「主を恐れる」詩篇33:14-22


朝晩少し涼しくなりました。秋の気配を感じつつ。
(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。イエス様のヨベルの年がやってきました。良い知らせが告知されています。負い目はすべて赦されました。今日も共に礼拝をもち、神の赦しが現実にあることを証しています。赦された人たちの群れ、教会に福音があります。
 今年もクリスマスに向けた準備が始まっています。先日は1回目のクリスマス運営委員会が開かれ、テーマなどが話し合われました。教会の働きにおいて、会議はとても大切なことです。実は初代教会の頃から今日に至るまで、教会は様々な事柄を話し合うために会議を開いてきました。なぜ大切なのでしょう。それは教会が聖霊の一致を守っていくためです。パウロがエペソ教会に送った手紙には《御霊による一致を熱心に保ちなさい(エペソ4:3)》と書いてあります。先日、午後の会の交わりの時に「教会は本当に色んな人が集まっている」という話が出ました。実に多種多様で、背景の違う人たちが、神に召されて群れとされているのが教会です。ですから生まれながらの状態では一致なんて到底無理です。しかし主は私たちに御霊による一致を与えてくださいました。すなわち、同じ主イエス様によって救われたという一致です。私たちには神から与えられた一致を保っていくという使命があるのです。
 会議を開いて話し合う時、私たちの心はどこにあるでしょうか。私たちをひとつの群れとして動かしてくださるのは聖霊です。ですから、色々と報告したり議論したりしていますが、心は聖霊を仰いでいます。みんながそうすることで、御霊による一致を保って群れとして歩み続けることができるのです。
 会議のために祈ってくださいと言われますが、何を祈るのでしょうか。会議の中に聖霊の働きへの恐れがあるように祈ってくださいということです。いつもお祈りいただきありがとうございます。
 さて、今日も聖書をお開きください。詩篇33:14-24(963ページ)【聖書朗読】
 
 先週から、「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」というテーマで話をしています。先週は「主に従う」という題でお話しました。今日は「主を恐れる」ことについてお話します。
 主を恐れるとはどういうことでしょうか。イエス様は度々、弟子たちに「恐れることはない」とおっしゃいました。例えば、変貌山でイエス様の姿が変わり、モーセとエリヤが現れて、3人で話し合っている様子を見ているうちに、天からの神の声を聞いたペテロたちは非常に恐れました。すると、イエス様が近づいて彼らに触れ、《「起きなさい。恐れることはない」(マタイ17:7)》とおっしゃいました。また旧約聖書にも、イザヤ書には《恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)》と書いてあります。確かに主は私たちに「恐れるな」と言っておられるのです。
 それでは、今日の箇所の8節《全地よ 【主】を恐れよ。すべて世界に住む者よ 主の御前におののけ。》18節《見よ 【主】の目は主を恐れる者に注がれる。》とは、どういうことなのでしょうか。申命記5:22-29に、注目すべき出来事がありました。荒野で生まれた第2世代のイスラエル人に、モーセがシナイ山での出来事を教えている場面です。(この箇所の直前には十のことばが記されています。)《あなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちが私のもとに近づき、そして言った。「私たちの神、【主】は今、ご自分の栄光と偉大さを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。今日、私たちは、神が人に語られても人が生きているのを見ました。今、なぜ私たちは死ななければならないのでしょうか。この大きい火は私たちを焼き尽くそうとしています。もしこの上なお私たちの神、【主】の御声を聞くなら、私たちは死んでしまいます。いったい肉なる者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者があったでしょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、【主】が言われることをすべて聞き、私たちの神、【主】があなたにお告げになることをすべて私たちに告げてください。私たちは聞いて行います。」【主】は、あなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばを聞かれた。【主】は私に言われた。「わたしは、この民があなたに話していることばを聞いた。彼らの言ったことはみな、もっともである。彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るようになってほしい。そうすれば、彼らもその子孫も永久に幸せになる。》ここに主の心が表されています。「彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るようになってほしい。」21世紀においても変わることのない主の心です。
 恐れという一つの言葉ですが、3つに分解できると思います。ひとつは畏れ敬う心(畏敬の念)による恐れ、もうひとつは自分が間違っている時に感じる神に対する否定的な恐れ、最後に状況に対する恐怖です。主は、私たちがいつも主を畏れ敬うことを願っておられます。一方で、自分の間違いや汚れのために神の怒りと裁きを恐れる人には、罪が赦される時に「恐れることはない」と告げられます。状況に対する恐怖がある時には、恐れることはない、私により頼みなさいと力強く励ましてくださいます。
 13-15節《【主】は 天から目を注ぎ 人の子らをすべてご覧になる。御座が据えられた所から 地に住むすべての者に目を留められる。主は 一人ひとりの心を形造り わざのすべてを読み取る方。》主はすべてを知っておられるお方です。私たちの行いをすべて天からご覧になり、私たちの心の中まで知っておられます。ですから私たちは主を恐れるのです。(畏敬の念? 神の怒りへの恐怖? 自分の感情を確認してみましょう)
 古代イスラエル人たちは、度々、主ヤハウェを嘲る人たちに囲まれ、攻撃を受けました。主を嘲る人たち(ゴリアテ、バビロン人など)は、ある意味では社会で成功している人たちのように見えました。彼らは自分の利益を追求し、それを最大化している人たちでした。主に依り頼むことを嘲り、愚かなこととみなす人たちの前で、主を信じる者であることを隠し、主の敵の仲間入りをしたくなるような場面があります。ペテロは、裁判所でイエス様の弟子であることを隠しました。でも、主を恐れるということは、主の敵の敵となるということです。主を恐れる人は、身の危険を感じたり、恥を感じるような場面で、それでも《【主】よ。… 彼らは私の敵となりました(詩139:22)》と告白します。
 また、主を恐れる人は、神と人を混同することがありません。主はご自分の民に「聖別」を教えなさいました。神の属する物、すなわち聖なる物(場所、時間、行為、人)を他のものと分けるようにと命じられました。これは彼らが最初に与えられた型でありました。先週もお話しましたように、型通りに行えという命令は、最初のステップとして型通りに行いながら主の心を知りなさいという意味です。聖別し、きよいものと汚れたものに分けることは、神である主が私たちとは違う、礼拝と尊敬を受けるに値するお方であることを示すためでした。ある時、神を恐れるローマの百人隊長がいました。配下にいる兵士が病気で死にそうになっていたのです。周りの人たちはイエス様に、あの百人隊長はとても良い人だから助けてくださいと熱心にお願いしたのです。百人隊長の家にイエス様が向かっておられると、途中で百人隊長の友人がイエス様のところにやってきました。百人隊長からの伝言を預かっていました。伝言はこうです。《「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。(ルカ7:6-7)》これが主を恐れるということです。主と私の違いをわきまえているのです。
 そして、主を恐れる人は自分の限界を知っています。ヨブ記のテーマは「自分の知識が無限でないことを認めること」です。ヨブと彼の友人たちは、ヨブに降り掛かった不幸の原因についてアレコレと議論しました。静かに聞いておられた主は、最後に御口を開き、人が知り得ないことも全て主はご存知であることを教えなさいました。ヨブは主に答えました。《ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。(ヨブ40:3)》これは主への恐れですね。
 それゆえ主を恐れる人は、主の御前で休みます。主はご自分の民に休むことを教えられました。《安息日を守って、これを聖なるものとせよ。…あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。(申5:12-14)》私たちの努力が最重要であると考えるべきではありません。あたかもすべてが私たちの努力次第であるかのように思ってはいけません。偉大なことをする責任が私にあると思わないことです。神を恐れる人は、人間の限界を知り、神のみ前にリラックスしています。偉大なこと、不思議なことは、主が行われるのです。ダビデの詩篇にはこのような一節があります。《あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は 大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。【主】よ わが岩 わが贖い主よ。(詩19:13-14)》神である主に受け入れられるには、努力ではなく、神の助けが必要なのです。主を恐れる人は、神の助けを求めて祈ります。
 このように主を恐れる人は、目の前の状況を恐れないで、神の言葉を恐れます。これから手術を受けるという時に、友人や家族が「大丈夫だよ、心配ないよ」と言ってくれるでしょう。それから、執刀医が来て「大丈夫ですよ。心配ありません」と言ってくれたらどうでしょうか。もちろん友人や家族の言葉は嬉しいですけれど、医師が心配ないと言う言葉ほど安心できるものはないのではないでしょうか。医師は、病気の状態を知っていて、どのような手順で何を行うか知っており、自分の手で手術を行おうとしているのです。状況をコントロールできる人が大丈夫と言うのなら、とても安心です。主を恐れる人は、主がすべてをコントロールできるお方であることを認めているので、感情的な恐怖が襲ってきても、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と語られる主のことばに慰められるのです。
 最後に、主を恐れる人は、主が示される未来を受け入れ、主を待ち望みます。18節《見よ 【主】の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。》主はご計画をもっておられるお方ですが、そのご計画を民に予め教えておられました。アブラハムには「あなたはこれから一つの国民となる」と、イスラエルの王たちには「悔い改めなければバビロンに滅ぼされる」と、捕囚・帰還の民には「キリストが来て、罪は赦される」と、ご計画をお知らせになっていました。主を恐れる人は、主の計画が必ず成ることを受け入れていたのです。現代の私たちに示されている神の計画は、イエス様が帰ってこられるということです。例えば、これから台風が来ますよと言われて、目をつむり、耳をふさいで知らない知らないと言っていたら、恐怖はなくなるのかもしれませんが、本当の安心ではありません。賢い人は、台風がやってくる状況に恐怖をおぼえるのではなく、台風の予報を重く受け止めます。イエス様が帰ってこられた時に、神の恵みを喜ぶでしょうか、神の怒りを恐れているでしょうか。その時までに、神である主と、関係の断絶を解決して、平和である人は幸いです。あなたとの関係を取り戻したいと、神の御手が伸ばされているのですから、今のうちに関係を回復することです。主を恐れる人は、主の恵みを待ち望みます。
 お祈りします《私たちのたましいは【主】を待ち望む。主は私たちの助け 私たちの盾。まことに 私たちの心は主を喜び 私たちは聖なる御名に拠り頼む。》
 
 天の父なる神様。地のすべてを治める王、あなたの御名は唯一です。
 主よ。私たちはあなたを恐れます。あなたは天に住まいを設けられるお方、私たちは地に住む者です。罪深い私たちには御顔を仰ぐ資格すらないはずでした。それにも関わらず、あなたのいつくしみは深く驚くばかりです。あなたは私たちの叫びを聞き、答えてくださるのです。あなたはすべての恐怖から、私たちを救い出してくださいます。私たちの盾となり敵から守ってくださいます。私たちはあなたに身を避け、あらゆるときに、あなたをほめたたえます。あなたを賛美します。私たちのたましいは、あなたを誇ります。
 すべての偉大なこと、不思議なことを成し遂げてくださる主よ。私たちは今、御前に休み、一つとなって御名をあがめています。口を大きく開け、待ち望む時、あなたが満たしてくださることを学んでいます。主を恐れる者には乏しいことがありません。
 十字架の贖いにより、罪の代価を支払い、イエス様を信じる者に神との平和を与えてくださったことをありがとうございます。主が帰ってこられる日を待ち望み、今週も主の御名を証しして歩みます。私たちのすべての歩みを守り、助けてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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