2023.8.27主日礼拝「彼らの信仰」マルコの福音書2:1-12


夏休みの終わりが近づいてまいりましたが、みなさまどうお過ごしでしょうか
まだまだ暑い日が続きますのでお体に気を付けてくださいね。

(まさまさ)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。兄弟姉妹と共に、主イエス様が罪を背負って十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえられたことを証ししましょう。主に従い、主を礼拝することは、私たちの証となります。
 今年に入ってから王寺教会では、第4聖日を伝道礼拝としています。入門と私が名付けて、これまで7回のメッセージをさせていただきました。クリスチャンでない方が聖書の話を真剣にきいてみようと思うまでには、ずいぶん長い旅があるだろうと思います。神から語られる言葉に耳を傾けようと思う方は、めっきり減ってしまったからです。人々はむしろ、医者の言葉を聞いてみようとか、熟練した経験者や科学者の言葉を聞いてみようとか思っています。また特に人気があるのは心理カウンセラーの話ですね。心理学的に言って、自分の考え方をどのように変えれば、生きづらさから開放されるのだろうかと、熱心に耳を傾けています。しかし、神の言葉とは上からの知恵であって、人がどれだけ考え抜いても知ることが出来ない知恵です。聖書は神の知恵なのです。
 ですから、神の言葉である聖書に耳を傾けてみようと思われた時点で、入門の半分は来ておられると言って良いでしょう。多くの場合は、クリスチャンと出会って、彼らが聖書を読んで、イエス様に出会ったことを聞いたことがきっかけになっているのではないでしょうか。
 神である主がメッセージを発しておられると知り、聖書を読んでいくと、最終的にひとつの選択肢にたどり着きます。「私には選択肢がある」と知ることになります。その選択肢とは、イエス・キリストをあなたの神、あなたの主として受け入れ従うか、従わないかの選択肢です。キリストは主ですと告白するか、拒否するかの選択肢です。イエス様の門の前に立って、門をくぐるか、引き返すか選ばなければならないことを知ることになります。イエス・キリストという門をくぐれば、神の国、永遠のいのちに入るのです。
 クリスチャンである方は、すでに通り過ぎた事柄で自分には関係ないと思っておられるかもしれませんが、イエス様の弟子たちを思い出してください。ペテロも、トマスも、あるいはユダも、門の前に立ったのは一度だけではありません。心が砕かれて、神の愛の深さを知ることが何度もありました。「あなたはわたしを誰だと言いますか」とイエス様に問われる瞬間が、信仰生活には何度もあるのです。
 聖書をお開きください。マルコの福音書2:1-12(67ページ)【聖書朗読】
 
 カペナウムでの出来事です。この地名を聞いたことがありませんか。先月もカペナウムでシモン・ペテロの姑が熱病から癒やされた話でした。それからイエス様は数日、別の場所に出かけておられ、カペナウムに帰ってこられました。家におられたということですが、ナザレ出身のイエス様はカペナウムに自宅がありません。この家とは、カペナウムにあるペテロの家のことでしょう。あのペテロの姑が病から直ちに癒やされた場所です。イエス様が家におられることが知れ渡ったので、多くに人が集まりました。どうしてでしょうか。癒やしの奇跡があったからでしょうね。
 人々はイエス様の話を聞きたいと思って集まってきました。現代の私たちが、医者や熟練したその道の経験者、有名大学の博士、心理カウンセラーの話を聞いてみたいと思って、本を読んだり、テレビ特集を見たり、セミナーに参加したりするのと同じような状況です。戸口のところまで隙間もないほどになりました。
 すると、人々が一人の中風の人を、連れてきました。中風とは、下の脚注をみると、すなわち、からだが麻痺した人と書いてあります。寝床に乗せられて、4人の人に担がれていました。人々が彼を連れてきて、4人に担がれていたとうことですから、彼を連れてきた人々は4人以上であったかもしれません。家には群衆が隙間もないほどに集まっていたので、屋根に上がって、穴を開けて、寝床ごとイエス様の前に吊り降ろしました。
 さて、イエス様の話を聞きに集まっていた多くの人は、どう思ったでしょうか。噂に聞いていたイエスの奇跡が見れそうだぞと思ったでしょう。イエスは、こんな可哀想な人を見て、すぐに病気を癒すに違いない。どうなるんだ、どうなるんだ。「見えないよ。見えない。」「押すなよ。押すな。」人々は興味津々です。
 ところが不可解なことが起こりました。イエス様は彼らの信仰を見たというのです。中風の人と彼を連れてきた人々の信仰をご覧になり、そして中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。多くの人が想像していたのとは違うことが起こったのです。「信仰」とは何でしょうか。これは旧約聖書を読むと分かってくることなのですが。イエス様を神が遣わされた救い主キリストとして信じ、王として受け入れることを信仰と言います。神である主はこの世界を無から創造し、ご自分のかたちに人間をお造りになりました。ところが人は神との親密な関係を捨ててでも、自分が神のようになろうとしました。神との関係が破壊されてしまったのです。しかし主は人をお見捨てにはなりませんでした。それほどまでに愛しておられたからです。世界の中からアブラハムを選び、彼と彼の子孫イスラエル民族と特別な関係を結ばれました。古代イスラエル人は神の恵みによって、神との関係を取り戻したのです。ところが、彼らは主の御前に罪を犯し、他の神々を求めました。自分たちを見出し、契約を結んでくださった主を捨てたのです。しかし、それにも関わらず、主は彼らを滅ぼし尽くさず、やがて彼らを赦し、関係を回復すると約束してくださいました。主は、人を赦すために苦難のしもべと呼ばれるキリストを遣わすと言われました。苦難のしもべは、罪を犯した人の咎を背負って、呪いを受け、神に罰せられ、打たれ、苦しめられ、砕かれると預言されていました。イエス様はその主キリストだったのです。無実の方が十字架にかかり、人の罪を背負って、神の罰を受けました。神を恐れる人たちは、何百年間も約束のキリストが来てくださることを待っていました。この中風の人もキリストを待ち望んでいた人だったのです。
 彼はからだが麻痺していたので自分で移動することができませんでした。聖書の預言の通りに、バプテスマのヨハネの後にナザレのイエス様が人々の前に現れたと、ニュースを聞いたのでしょう。彼はイエス様を迎えたいと思ったのです。東方の博士たちが星を見てイエス様を訪ねてきたように、彼もできることなら、イエス様のところに歩いて行って、主を歓迎し、礼拝したいと願ったのでしょう。でも、からだが麻痺していて自分では起き上がることもできません。ところが彼には周りの人々がいたのです。彼らもまた信仰をもって、キリストを待ち望んでいた人たちでした。みなさん、どうですか。病気の友人がいて、病が治るために何とかしたいと聞いたら、動いてあげたいと思うでしょう。でも、病気で動けない人が、礼拝しに行きたいと言ったら、わざわざ労力をかけて連れて行くでしょうか。「君、ちょっと無理だよ。お家でお祈りしてたら?神がいるなら、神の方から来てくれたら良いじゃない」と言うかもしれませんね。しかし、彼らは中風の人を担いで、イエス様をキリストとしてお迎えするために、イエス様がいる家にやってきました。一筋縄ではいきませんでした。中に入れない。どうしよう。帰ろうか。いや、屋根を開いて中に吊り降ろしてあげよう。イエス様は、中風の人の信仰を見ました。また彼を連れてきた人たち、諦めないで天井に穴を開けた人たちの信仰を見ました。そして「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。彼らはその時、罪が赦されて、失っていた神との関係を取り戻したのです。赦されたので、以前のように親しく神と人格的な交流をもつことができるようになりました。
 一体、何が起こっているのか、さっぱり分からず眺めていたのは、最初から家に集まってきていた多くの人たちです。麻痺の人が床から起き上がるぞと思って見ていたのに、何も起こりません。目の前で起こった、神と人の関係の回復を理解することができず、何だこれはと思っています。聖書学者が何人か座っていて、心のなかであれこれと考えていました。《「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」》このように考えているのですから、イエス様をキリストとは思っていなかったことが分かります。イエス様を王としてお迎えする心は微塵もありませんでした。彼らは聖書学者なのですから、他の誰よりもキリストの預言を知っているはずではありませんか。イエス様は言われました。《「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。》病気を治すことは神業かもしれませんが、ある程度は人にもできることです。しかし罪を赦すのは神にしか出来ないことです。誰かと仲違いしてしまって、他の誰かが来て、あなたを赦しますよと言っても関係は回復しないでしょう。仲違いした相手が赦しますよと言わなければ解決しません。神と仲違いしたのですから、罪を赦すのは神にしか出来ないのです。聖書学者たちを始め、集まっていた多くの人々は、目の前で人の罪が赦されたのに、まだイエス様をキリストとして信じないで、「起きて、寝床をたたんで歩け」といつ言うのだろうかと思っていました。罪を赦す権威をもっておられるイエス様なら、病を直ちに癒し、中風の人を歩かせることは、より簡単にできます。
 イエス様は続けて言われました。《しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」》これはとても皮肉なことですね。人の罪が赦されたことを見ても、イエス様が誰かわからないのに、より簡単に、人でもできるかもしれない病の癒やしを見たときに、イエス様がキリストであることを知るかもしれないと言うのです。おかしい話ですよね。でも今でも、こんなおかしいことがあるのです。
 教会に来てみてください。ここに神の奇跡があります。神に罪を赦された人たちが集まっています。罪を赦されて、神の子とされ、主と親しく交流している人たちがいます。現実を見ろ、どこに神がいるのかと言われますが、神がいないのならどうして罪を赦された人たちがいるのですか。イエス様が私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、死を完全に処理して、よみがえってくださり、そのようにして罪を赦してくださったので、赦された人たちがいるのです。それを目の前で見ているのに、わからないのです。その代わりに、人間でもできるかもしれない、人々をあっと驚かすような奇跡を見れば、神を知るかもしれないと言われています。とても皮肉なことです。
 クリスチャンである方々にも、考えていただきたいことがあります。伝道、伝道と言いますが、ペテロの家に隙間もないほどに人々が集まった様子を目指していませんか。それが伝道だと思っていませんか。イエス様は何を見ておられたのでしょうか。集まった人数でしょうか。来た人の顔ぶれでしょうか。イエス様は中風の人と彼を連れてきて人たちの信仰を見ておられました。もし周りの人たちが、「え、ナザレのイエスを迎えるために行きたい?礼拝に行きたい?そんなん別にいいじゃん」と言ったら、中風の人はイエスのところには行けませんでした。彼らも、イエス様を王として迎え入れることの重要性を分かっていたので、この出来事が実現したのです。彼らに信仰がなければ_、私たちにイエス様を歓迎し礼拝したいという信仰がなければ、実現しません。イエス様は彼らの信仰を見ておられたのです。
 神である主はあなたをお造りになり、お世話してこられた方です。このお方との関係を失っている人は、心に埋めることのできない穴をもっていると言われています。主を拒んで生きてきた罪を、イエス様は赦すために世に来てくださいました。イエス様をキリストとして迎え入れ、礼拝しに来てください。教会の敷居は高いとよく言われます。周りにクリスチャンはいませんか。私もイエス様を礼拝しに行ってみたいから、一緒に行ってと頼んでみてください。喜んで、労をおしまないで連れてきてくれるでしょう。主はあなたを招いておられます。
 お祈りします《イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。》
 
 天の父なる神様。人の罪を大きな恵みによって赦してくださるお方。ひとり子をお与えになったほどに世を愛しておられる主よ。あなたはすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
 私たちを愛して、丁寧に形造ってくださった主よ。私たちはあなたを知らず、あなたとの関係を拒んで生きてきたことに気が付いていませんでした。しかし、イエス様、あなたは預言の星と共に、私たちのところに来てくださいました。それで私たちの人生には重大な選択肢があることを知ったのです。あなたを私の神、私の主として受け入れるか、拒み続けるかの選択肢です。
 主よ。私たちの心には、あなたとの交流によってしか埋めることのできない穴が開いています。あらゆるもので埋め合わせをしようと試みましたが、虚しさが返ってきただけでした。今、ただひたすら求めるのは、あなたとの和解です。あなたとの関係に平和があることを願っています。私たちの罪は、イエス様の十字架に磔にされ、その打ち傷によって赦されたことを信じます。王よ。あなたを歓迎し、礼拝します。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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