2023.8.13主日礼拝「マラナ・タ」Ⅰコリント人への手紙16:21-24


マラナ・タ、ヘブル語一つ覚えました!

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。暑い日々が続いておりますが、ようこそお集まりくださいました。毎週こうして、イエス様が復活された日を記念して、共に礼拝することができ感謝です。
 聖日の共同礼拝は、振り子運動のようだと思うことがあります。いくつもの振り子を縦に並べて一斉に動かすと、最初はバラバラに動き始めますが、しばらく待っていると、ある瞬間に動きが揃います。それからまたバラバラに動き、また一定時間経つと、動きが揃うのです。私たちが主に呼ばれて集まり、また主の使命をいただいて出ていく、毎週の動きは天から見ると、振り子運動のように見えるのではないかと思います。
 特に礼拝式では讃美歌を用いますが、共に歌を歌うということは、私たちの心を合わせる助けをしてくれています。また音楽は感情を表現できる道具です。私たちは信仰生活の中で様々な感情を経験しています。しかし、普段はそれぞれの歩みの中で経験をしているので、お互いにそれを知ることがありません。礼拝式で、共に歌い、主に向かって心の思いを表現して行く時に、あの兄弟も同じ主と歩み、私が経験したようなことを辿ってこられたのだ、この姉妹も同じ心で主を愛しておられるのだと感じるのです。それもまた、共同礼拝の喜びです。
 先月からは、礼拝前にも讃美の時がもたれていまして、感謝です。週に一度の、ほんの一時間程度の礼拝式でありますが、同じ主を知って、同じ主に仕えていることを喜び、感謝して、過ごしたいと思います。
 さて、聖書のメッセージに耳を傾ける時間をもちましょう。2年以上かけて、聖書全体のメッセージの骨組みを語ってまいりました。今日がひとまずの区切りとなります。聖書をお開きください。Iコリント人への手紙16:21-24(354ページ)【聖書朗読】
 
 Iコリント人への手紙の最後のあいさつです。《私パウロが、自分の手であいさつを記します。》と書いてあります。普段はパウロが話したことを、横にいる手紙を書く人が書いています。しかし、この最後の短い部分はパウロ自身が書いたとあります。彼が教会への思いを込めて、丁寧に書き送ったことばです。
 今日の説教題はマラナタです。「マラナ・タ」は聖書の言葉なのですが、どこに出てくるでしょうか。先程朗読しました箇所の22節の脚注をご覧ください。※ア「マラナ・タ」と書いてあります。原文では、アラム語の「מרנאתא」を音訳した言葉が書いてあるという意味です。新約聖書はギリシャ語で書かれています。ですから、アラム語で話している言葉もギリシャ語の意味に訳して、ギリシャ語で書くものです。そうでなければ、読む人に言いたいことが伝わらないでしょう。エルサレム教会ならまだしも、コリント教会でアラム語が分かる人はいないはずです。しかし、(外来語のカタカナのようなことですね)アラム語の発音の通りに「Μαραναθά」と書いてあるのです。
 私たちもこれと似たようなことを教会で話しています。「アーメン」というヘブル語です。ヘブル語なんて誰も使わないのに、お祈りの締めくくりになると、突然ヘブル語が出てきて、「アーメン」とみんな言っています。実はアメリカ人もフランス人も中国人も、みんな同じくヘブル語の音訳を使っています。なぜなら「アーメン」で意味が通じるからです。それほど、みんなが使っている単語だということです。「マラナ・タ」も当時の教会にとっては、みんなに通じる祈りのことばだったことが分かります。
 マラナ(来てください)・タ(主よ)。初代教会の人々はいつもこのように祈り、主が来てくださる希望をもって、日々を歩んでいました。主とは、イエス様のことです。来てくださいとは、イエス様が《わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(ヨハネ14:3)》と約束してくださったので、約束どおりに迎えに来てくださいという意味です。
 イエス様が天に登っていかれた日、天の使いが弟子たちに現れて、《あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11)》と告げました。何かの例え話や、象徴的な表現ではなく、実際にイエス様が2千年前に地上に来られたのと同じ有様で、私たちを迎えに来られるのです。その日、その時がいつになるのか、誰にも分かりません。何とイエス様でさえご存知ないとおっしゃいました。ただ天の御父だけがご存知なのだと言うのです。イエス様が帰ってこられる時がいつか、誰にも分かりません。聖書にも書いてありません。聖書のことばを捏ねくり回して、何年の何月何日と言う人がいても信じてはいけません。聖書には主が私たちに伝えたいと思われることを書いてあります。伝えないと決めておられることは聖書に書いてありません。
 主が帰ってこられる日(再臨)がどんな様子か、イエス様が弟子たちに教えてくださったことがあります(マタイ24章)。私たちは、戦争や、巨大災害が起こった時に、世の終わりだと感じるものですが、再臨の日は、むしろ人々が平和だと感じ、ごくごく平凡な日常の生活を送っている時に突然、盗人のようにやってくるとイエス様はおっしゃいました。それまでに、前兆として、「わたしこそキリストだ」と名乗る偽キリストが大勢現れ、また偽預言者も大勢現れて、人々を惑わします。私たちも気をつけていましょう。イエス様は《人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。…そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。(マタイ24:27,30)》と言われましたので、全世界の人が本物のイエス様の再臨を一瞬のうちに見るのです。「実はここだけの話、キリストは帰ってきていて、みんな気がついていないんですよ」というのは全部偽物です。
 さて、聖書全体のメッセージの最後に、すべての人の希望として語られているのは、イエス様が帰ってこられる時に、さばきと報酬があるということです。
 まず「主のさばき」の話をしましょう。ペテロは使徒の働きの中で、《イエスは、ご自分が、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方であることを、人々に宣べ伝え、証しするように、私たちに命じられました。(使徒10:42)》と言っています。その日、イエス様はすべての人を神の国に迎え入れられる人と、外に投げ出されてしまう人とに分けるのです。悔い改めない人、御霊の実を結ばない人、他人をさばく人、人を心から赦さない人、兄弟姉妹に対して怒り「愚か者」と言う人、自分の不当な行為を謝らず、赦しを求めない人、キリストの婚礼に相応しくない衣を着ている人、主人がいない間に悪にふけるしもべのような人、神からの賜物を浪費した人、イエス様を王として迎えることを望まない人、人をつまずかせ正しい道から遠ざける人、イエス様を否定する人、聖霊を冒涜する人、口先だけで「主よ、主よ」と言うだけで神の御心を行わない人、神に不従順な人は、みな神の怒りを受け滅ぼされます。しかし、最後まで耐え忍んだ人たちは、イエス様に迎えられ、完全に来た新しいエルサレムに入れられるのです。
 さばきの話をすると、愛の神に相応しくない恐ろしい話だと思われることがあります。さばきは愛の神に相応しくないのでしょうか。例えば、世の中には裁判官や警察官がいます。彼らは逮捕したり、判決を下したりします。彼らの職務が公正で、正当である場合、人々に歓迎されるはずです。なぜなら悪人を正しくさばくことは、被害を受けた人々を救うことになるからです。愛の神は、虐げられている人々を守り、救い出すお方です。主のさばきは真実で正しく、間違うことがありません。神のさばきがあるということは、人の希望なのです。ローマ人への手紙には、こう書かれています。《愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)》
 次に「主からの報酬」の話をしましょう。悔い改めて、イエス様の十字架の贖いを信じ、信仰を告白して、神の御心を行い、再臨の時まで耐え忍ぶ人は、主からの報いを受け取ります。イエス様はこう言われました。《心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。(マタイ5:3-10)》この約束が、ついに実現します。また、その日に起こることを例えて、主イエス様は言われました。《主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。(ルカ12:36-37)》なんと驚くべきことでしょうか。私たちはその日、主と顔と顔をあわせてお会いするのです。主はご自分の国に、ご自分の子たちを迎え入れ、祝宴を開き、そばに来て給仕してくださいます。
 主と顔と顔をあわせてお会いする。神の国を受け継ぎ、永遠の幸いをいただく。主が一人ひとりを喜び、仕えてくださる。これが主からの報酬です。この世で、自分の十字架を負い、イエス様に従ってきた人にとって、待ちに待った報酬が用意されています。
 そういうわけですから、主が帰ってこられる日まで忍耐しましょう。イエス様はおっしゃいました。《わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。》神の御心とは何でしたか。「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」ことです。愛するとは何でしょうか。イエス様が赦されたように、私たちも赦すことです。またコリント人への手紙にはこうあります。《愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。(Iコリント13:4-7)》そして、神の御心に従う人たちに結ばれる御霊の実は《愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)》
 こう言うと、「私は失敗ばかりだ」と思うでしょう。生まれながらの肉の性質によっては、どうやっても神の御心に従うことはできません。出来ないことを主の御前で認め、イエス様の十字架を仰いで、御霊の助けを祈り、そして聖霊の力によって、もう一度やってみることです。それでも何度も失敗するでしょう。でも、歩き始めようとしている子どもが何度も尻もちをついて失敗し続けているうちに、歩けるようになるように、御霊に依り頼み続けるなら、私たちは変えられていきます。イエス様が帰ってこられる日に、そのようにしている姿を見られる人は幸いです。
 いつも目を覚まして、兄弟姉妹と共にマラナ・タ(主よ、来てください)と祈り待ち望み、神を愛し、隣人を自分自身のように愛して、再臨の時まで耐え忍びましょう。主が一人ひとりの報いを用意して、迎え入れてくださいます。
 お祈りします《主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。》
 
 天の父なる神様。愛であるお方。私たち一人ひとりを喜び、私たちの喜びのために新しい天と新しい地を創造してくださる主よ。あなたの知恵はすべてにまさり、正しく、完全です。
 主イエス様。私たちの場所を用意したら、また来て、私たちを迎えてくださると約束してくださいました。あなたは真実なお方です。その日が早くやってくるように、心待ちにしています。この世界には、あらゆる悪がはびこり、日々邪悪なことが繰り返されています。主よ。人々の叫びに耳を傾けてください。いつまでこれが続くのでしょうか。出エジプトの主よ。私たちはあなたの救いの日を待ち望んでいます。
 あなたが来られる日まで、私たちが忍耐の限りを尽くして、御心を行い続けることができるように助けてください。あなたが私たちをきよめてくださることなしに、御霊の実を結ぶことはできません。私たちの内には良いものがないのです。主よ。あなたの十字架を仰いで切に求めます。十字架の贖いは、単に罪の結果を免除するだけに留まらず、私たちを主イエス様の似姿に作りかえてくださるためであったことを信じます。
 主が帰ってこられる日まで、私たちは主に従い、いつでも、どんな平凡な日にも、主とお会いする備えをして、待っています。マラナタ。主よ、来てください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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