2023.6.11主日礼拝「信仰と従順と忍耐」ヘブル人への手紙3:7-19

(kさんの描かれた紫陽花)

梅雨の晴れ間から夏がのぞいていますね。気温差がこたえる天候です。今日も神様のお家に来ておことばを聴ける幸いを思います。今日は「主を信じるとは何か?」のお話です。信じてもパリサイ人のようでなく、主を求め続け、主に従う心を聖書から学びたいです。(Re)
 [礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。今朝もようこそお集まりくださいました。それぞれの感謝を携えて、それらを束にし、主のみ前にささげる礼拝の時です。個人個人の感謝が群れの感謝となる日です。共に喜び楽しみましょう。
 聖書の解き明かしを2年ほど続けてきました。聖書は、1500年もの長い年月の間に、40人近くの人を通して、それぞれに書かれた、66冊の書物を合本したものです。普通に考えれば、意味の繋がりを見つけることは不可能と思えますが、聖書には「聖書全体を通して語られているメッセージ」があります。
 旧約聖書から初めて、毎週少しずつお話してきました。創世記の1-11章には、天地を創造された神さまと人類全体の間に何があったのかを記しています。それからアブラハムが選ばれ、人類の代表としてイスラエル民族が登場しました。古代イスラエル民族と神である主ヤハウェとの関係を見て、すべての人が主を思い出すようにと願われていました。イスラエル民族は国の分裂などがあり、やがてユダヤ人と呼ばれるようになります。そのユダヤ人の中から、主イエス様は生まれてくださり、十字架にかかられました。十字架は罪の贖いのためでありましたが、2つのものを1つにするためでもありました。それはユダヤ人とユダヤ人以外(異邦人)という区別を、1つにするということです。こうして民族によらない、割礼によらないイエス様の教会が始まりました。教会には主の霊が宿り、神の国の到来を宣べ伝えています。これらの歴史は作り話ではありません。実際に歴史の中で起こってきたことです。聖書のメッセージは理想郷のことではなく、私たちが生きているこの世界のことを語っているのです。
 先週から聖書全体のメッセージをまとめ始めています。聖書全体の出来事を下地にした話ですので、これまでの物語の流れを思い出しながら聞いていただきたいと思います。
 聖書をお開きください。ヘブル人への手紙3:7-19(440ページ)【聖書朗読】
 
 先週は「罪」の話をしました。罪とは、①神の命令を守らないこと、②神である主を礼拝しないこと、③うなじを固くし、主に反抗して従わないことです。このような罪のために、神と人との関係は破綻しています。すべての人は罪を犯したので、神の裁きによって滅ぼされることになっています。ところが、私たちひとりひとりをお造りになった主は、私たちが滅びていくことを良しとされず、罪をご自分で背負って、私たちの身代わりに呪いとなられました。主イエス様は十字架にかけられ、死んで葬られました。あなたが罪を犯したからです。イエス様はあなたの罪の結果を、身代わりとして受け取り、ご自分のいのちを投げ出して、神の怒りをなだめてくださいました。イエス様を信じるなら、神の裁きは過ぎ越され、あなたには永遠のいのちが与えられます。神の子どもとされ、神の国に迎え入れられます。イエス様はその後、死からよみがえられました。それは私たちの罪が赦されたことを表しています。主を信じる者は、もはや裁きによる死に留まることなく、いのちが与えられるのです。
 今日のテーマは「主を信じること」「信仰」です。信じるとは何でしょうか。神の救いの恵みを受けるために、人に求められていることです。「信じなさい。そうすれば救われます」と聖書は教えています。ところが、この信じるということ(信仰)を、多くの人が誤解しています。それは今に始まった話ではなく、実は新約聖書の時代でも起こっていて、「パウロの手紙を読んだ人たちが、誤解している(IIペテロ3:16)」と書いてあるのです。
 イエス様は誤解が起こらないように、丁寧に、神の国がどのようなところか教えてくださいました。十字架だけを見せて、それだけで信仰が成り立つのなら、わざわざ何年もかけて弟子たちと共に行動し、人々に説教することはなかったでしょう。旧約聖書すら要らなかったでしょう。アダムとエバがエデンの園から追放されて、すぐにイエス様がフワァ~と現れて、十字架にかかって、死んでよみがえれば十分だったでしょう。何かよく分からないけど、十字架というものがあって、「さぁとにかく信じなさい」「はい。分かりました。信じました。」「良し」みたいな。そのようなことを信仰だと思っているとすれば、それは誤解しています。イエス様はそのようには教えておられませんでした。
 イエス様は《心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです(マタイ5:3)》とおっしゃいました。「心の貧しい」とは、詩篇などに出てくる言葉です。主を求め、ただ主に全く依り頼もうとする心を指しています。神である主との関係が壊れてしまって、繋がりが薄くなっている。私の心には主との繋がりが全く不足していて、その貧しさに喘いでいるという状態です。今日の箇所には、古代イスラエル人の荒野での出来事が引用されています。彼らは荒野で心を頑なにし、神に逆らい、神を試し、神の怒りを受けました。彼らは神をシナイ山で見ていたし、存在することは認めていました。しかし、心の貧しさを認め、神を求める心がありませんでした。12節では、このことを不信仰と呼んでいます。
 ヘブル人への手紙11章は、信仰の章です。この章をじっくり読んでみると、「信じることは、神に従って行動を起こすことと決して切り離すことができない」と分かります。「信仰によって〇〇しました」と沢山のことが書いてあります。
 それでは、パリサイ派のユダヤ人たちも、沢山の律法の決まりを行っていたので、素晴らしい人だったのではないでしょうか。なぜイエス様は彼らを非難されたのでしょうか。それは、パリサイ人たちが律法を守ることによって神の国に入れると思っていたからです。罪は神と人との関係を壊してしまう、だから罪を犯さなければ神の国に入ることができる、と考えたのです。しかし、律法はひとつでも違反すれば罪になります。律法によって神の前に正しいと認められる人はひとりもいません。ところが、彼らは腐っている部分を見つけても、そこを上から白いペンキで塗りつぶしてしまいました。そのようなことで神の目を欺くことができるでしょうか。絶対にできません。人は必ず律法によって有罪と認められ、従って、決して神の国に入ることはできません。あなたが神の国に入ることができる道はただひとつ、あなたの罪が赦されることによってしかありません。
 神の命令を守って神の怒りを逃れようとしても無駄になります。決して正しいと認められることがないからです。しかし、主イエス様を求めるなら、十字架の贖いの代価によって、罪が赦されます。イエス様を求める人は、神を愛する人なので、神の命令に聞き従います。《神の命令を守ること、それが、神を愛することです。(Iヨハネ5:3)》信じるとは、「了解しました」と言うだけのことではありません。信じるとは、主に従うということ、また主が帰ってこられるまで従い続けるということです。信仰には、従順と忍耐が伴うのです。「イエス様を信じなさい」と同じ意味で、別の言い方があります。「悔い改めて神に立ち返りなさい」という言葉です。
 パリサイ人も神の命令を守ろうとし、イエス様を信じる者も神の命令を守ろうとするなら同じことになるでしょうか。いいえ。両者は全く違います。パリサイ人のような理由で神の命令を守ろうとすることを律法主義と言います。律法主義から出てくるものは、自慢と他人の裁き(見下し)です。律法主義には神への愛がありません。罪人と呼ばれていた取税人の隣で神に祈っていたパリサイ人はこう言いました。《『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』(ルカ18:11-12)》またイエス様はこのように言われました。《あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。(ルカ6:41-42)》
 一方で、主イエス様を信じ、悔い改めて神に立ち返り、神の命令を守ろうとする人は、ますます自分の罪を認めるようになります。自慢も他人の裁き(見下し)もありません。罪の生活から悔い改めて、神の命令に生きるようになりたいと思い、聖書をよく読み始めると、今まで知らないで犯していた罪を更に発見していくことになります。そこにあるのは自慢ではなく、砕かれた心です。
 みなさん、自分の罪を発見することを恐れることはありません。イエス様も何度も何度も「恐れることはありません」と言われました。罪の代価はイエス様の十字架によって支払われたのです。罪の代価を支払っても良いと思えるほど、神の目にあなたは高価で尊く、それほどまで神はあなたを愛しておられるからです。あなたが今まで知らないで犯していた罪を新たに発見したということは、どういうことでしょうか。あなたを贖うための代価が思っていたよりも高かったということです。あの日、イエス様は罪の代価をすべて支払ってくださいました。罪の代価って500円くらいかなと思っていたかもしれません。でもある日、気が付きました。いや500円くらいじゃないぞ、5万円くらいはしたはずだぞ。またある日、気が付きました。いやいや、5万円程度じゃない、5億円くらいだ。さらにある日、気付きました。5億円で済まない、5兆円だ。_ イエス様はあの日、あなたの罪の代価をすべて支払ってくださいました。本当に5兆円で済んだのか分かりません。でも、すべて支払われました。それを支払っても良いほどに、神はあなたを愛しておられるからです。パウロはこのことを表現して言いました。《律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)》罪の深さを知れば知るほど、神が私たちの内にどれだけの価値を見ていたのかを知るので、自己卑下に陥ることはありません。ますます罪を認めるようになります。
 また、主イエス様を信じ、悔い改めて神に立ち返り、神の命令を守ろうとする人にあるのは、自慢(自分を誇る心)ではなく、主を誇る心です。「こんな罪人を神は救い出された。神に不可能なことはない。このようなお方は主の他にはいない。」と主を誇るのです。ここには神への愛があります。いつも主を求める心があるからです。《心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです(マタイ5:3)》
 主を信じることは、神に従うことと、終わりの日までしっかり保つことを伴っています。私たちは人々に「救われましょう」と呼びかけるべきでしょうか。いえ、むしろ「主を信じ、主に従いましょう」と伝えるべきです。イエス様自身がこのように宣べ伝えておられました。《まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。》イエス様が教えてくださった主の祈りでは、「罪をおゆるしください」と日々祈るように言われています。どんなに神の国と神の義を求めていても、気が付かないで犯した罪を見出すことが日常的にあることを示唆しています。しかしそれでも、祈りなさいと言われているのですから、主が赦してくださるということ、また聖霊の助けがあるということです。悔い改めて、神に立ち返りましょう。主を信じて、主に従いましょう。主はあなたを招いておられます。「わたしに従って来なさい」と。
 お祈りします《「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。》
 
 天の父なる神様。宣言するときに正しく、裁きのときにきよくあられるお方。私たちの主よ。不信仰な私たちをどうかあわれんでください。あなたの恵みにしたがって、私たちの背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって、私たちの咎をすっかり洗い去り、罪からきよめてください。
 神に用いられた人々は、みな信仰によって働きました。目に見えないものを確信し、主のことばに従って行いました。その信仰はむなしく返ってくることがありませんでした。主は生きておられ、主のことばは真実であるからです。心が貧しく、切に主を求める人々には、あなたは必ず報いてくださいます。求めなさい、探しなさい、たたきなさいと励ましてくださった主よ。求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれるとおっしゃったことばは、本当でした。
 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。
どうかご恩寵により、イエス様の教会にいつくしみを施し、あなたの宮の城壁を築き直してください。

 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。 

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