2023.4.9 イースター礼拝 「復活されたのだから」 使徒の働き10章34~43節

イースターおめでとうございます!
コロナ禍がなんとか落ち着いて迎えた今年の復活祭に深い意味を覚えます。しかし不安定な世に生きる私たちにさらなる苦難が襲ってくるかもしれない。でもくじけない勇気を与えられました。それは、イエス様が生きていらっしゃるから。苦難を乗り越え死から復活したイエス様が今も私たちと共に生きておられるから!
礼拝後に、今年で3年目、王寺教会に任命された中尾敬一先生とご家族の歓迎の時が持たれました。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬牧師

 イースターおめでとうございます。主イエス様は死からよみがえられ、今も生きておられます。天に昇っていかれたので、目には見えませんが私たちとともにいてくださいます。この朝は、年に一度、主イエス様の復活を思い出し、記念する礼拝の時です。


また王寺教会にとってもう一つの記念日でもあります。今朝もYouTubeでライブ配信をしていますが、ちょうど3年前のイースター礼拝に最初の中継配信が行われました。2019年の12月に始まった新型コロナウイルスの流行は、数ヶ月で日本に上陸し、2020年3月に有名なコメディアンが亡くなり、4月には全国で緊急事態宣言が発令されました。それに伴って、全国の多くの教会と同様に、2020年イースター礼拝で最初の中継配信が始まったわけです。それから毎週、礼拝の中継配信が継続されてきました。密を回避し、感染症の流行を阻止するのに有効だったことはもちろんですが、それに加えて、従来ですと介護や育児、入院などで会堂に来ることが難しかった方、時間の都合が合わなかった方、集会のない地域にお住まいの方などがオンライン礼拝に参加することができるようになりました。3年前はこれからどうなってしまうのだろうかと途方に暮れてしまいましたが、3年を乗り越えた今、そこを通ったからこその恵みを見ています。

 イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られた後、弟子たちは本当に途方に暮れてしまいました。エルサレムにいた弟子たちの群れからは、ひとり、またひとりと人々が去っていきました。そのうちの2人がエマオの途上を歩いていた男たちです。これからどうしたら良いのかと思っていた弟子たちに、復活のイエス様は現れてくださいました。イエス様の十字架の死は終わりではなく、墓からのよみがえりにつながり、そこから新しく始まったのです。イースターは新しい始まりの朝です。主イエス様を信じる人は、イエス様の復活にあずかり、イエス様とともに生きるようになります(IIテモテ2:11)。
 聖書をお開きください。使徒の働き10:34-43(255ページ)【聖書朗読】
 
 主イエス様は安息日の備え日(前日)に十字架にかけられて死に、墓に葬られました。それから静かな安息日があり、3日目の週の新しい日(日曜)の朝、イエス様は墓からよみがえり、弟子たちの前に復活のからだで現れてくださいました。まず墓を訪れた女性たちに現れ、次にペテロ、他の使徒たち、そして500人以上の兄弟姉妹に同時に現れました。天に昇られた後も、最後の使徒パウロに現れてくださいました(Iコリント15)。通常、2000年前の出来事で、例えば5~8個の考古学的文書が発掘されたら証拠として非常に強固だと言われるなかで、新約聖書の写本は5000くらいあります。何百年も後になって「イエスは生き返ったことにしておこう」と書き換えられたのではなく、ナザレのイエスがよみがえられたのを見たという証言が確実に存在していたのです。
 今日はイースターですから、イエス様が復活された日に何が起こったかとか、どうしてイエス様の復活が歴史的事実だといえるのかとか、そのようなことを更にお話しても良いのですが、今回は別のテーマを選ぶことにしました。今年は「イエス様の復活されたから何なのか」をお話したいと思います。
 イスラエルの民がアブラハムから始まって以来、神の民の歴史はイエス様の十字架に向かっていました。人間が罪の呪いからどうしても逃れられないこと、むしろ自ら呪いを受けるべき行動を選んでいってしまうことを突きつけられ、最後は神のあわれみにすがる他ないと、やがてくる「その日」の救いをはるか未来に見て、期待していたのです。福音書以前を生きていた人々はイエス様の死と復活に向かっていました。今度、主イエス様の死と復活を見た人たちは、使徒の働き以降に入っていきました。すると、今度は過去を振り返って、イエス様の死と復活を見、「主がよみがえられたのだから、〇〇」というようになりました。「主が民を贖ってくださる日がいつか来るのだから」と言っていた人々が「主が民を贖ってくださったのだから」と言うようになりました。私たちはどちらの時代を生きているのかと言えば、後者です。「主イエス様が十字架にかかって死に、三日目によみがえられたのだから、〇〇」と話す時代を、私たちは生きているのです。
 イエス様の死と復活は、神の救いの約束の成就でした。イザヤ書を開いてみましょう。イザヤ53:12《それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。》「苦難のしもべ」が多くの人の罪を負って死ぬことが伝えられています。その後、どうなるのでしょうか。54:4《恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。》7-8節《わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。》「苦難のしもべ」が罪を負ってとりなしをする日、神の怒りはついになだめられ、辱めを受けなくて済むようになるのです。旧約時代の人々はずっとこの日を待っていました。その日がイエス様の十字架によってついに成就しました。イエス様は神の怒りをなだめる完全な生贄となり、私たちに振り下ろされるべきだった聖い怒りは過ぎ去りました。
 それからイエス様はよみがえられました。主イエス様の死と復活は必ずセットです。死んだままで復活しなかったなら意味がありません。死ぬことがなく生き続けていたのなら意味がありません。主は死んでよみがえられたのです。主キリストが死なれたのは、「苦難のしもべ」として世に来られたからです。イエス様は、事実、主でありキリストであるお方ですが、主でありキリストであることを脇において世に来られたのです。主であられることを主張せず、その威光と力を使おうとせず、苦難のしもべとして罪を負って死ぬために来られました。しかし、死んだ後にイエス様がよみがえられたのは、再び主でありキリストであることを取り戻されたということです(使徒2:36)。
 イエス様が主でありキリストであることを取り戻されたので、今は存分にご自身の威光と力を用いておられます。主として、王なるキリストとして、人々を救うために、人々を守るために、人々を導くために、人々を養うために、人々を癒すために、主イエス様の力強い御手が動かされ、イエス様の霊(聖霊)が遣わされています。主イエス様は今や天において私たちの祈りを聞いてくださるお方です。パウロはダマスコの途上でイエス様と出会い、その後、エルサレム神殿で祈っていた時、再び現れたイエス様に祈っています(使徒22:17-21)。今まではそのようなことはあり得なかったのです。祈りは先祖の神、主ヤハウェに捧げられていました。もしイエス様が死んで終わりであれば、神の使いとして用いられた偉大な人物だっただけです。しかしイエス様は事実、主でありキリストであられ、そのあり方を復活によって取り戻されました。ですから、主イエス様のみ名(イエスご自身)によって、制限なく神の業がなされているのです。
 その神の業のうち最も重要なことは、主イエスを信じるものが救われることです。ペテロとヨハネが美しの門で生まれつき足の不自由な人を、ナザレのイエス・キリストの名によって癒やした時、このように言っています。《この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。… この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:10,12)》イエス様はご自身のあり方を捨てられないとは考えないで、苦難のしもべとなり、すべての人の罪を負って死なれました。イエス様の十字架の死によって、神のあわれみがもたらされました。人は赦されるのです。その同じイエス様が死からよみがえり、神である主の栄光を再び取り戻されました。ですから、そのイエス様のみ名を呼ぶなら、主イエス様の力と権威によってあなたは救われるのです。
 それ以前は、神の民イスラエルを見て、彼らに現れた主を求める必要がありました。イスラエル民族でない、私たちのような人からは遠く感じますね。それでもラハブやルツのように、イスラエル民族に加えられて、主を仰ぎ、ヤハウェの真実のあわれみを受け取った人たちもいました。しかし今や、私たちはイエス様を見上げたら良いのです。
 かつて神である主がアブラムに現れて約束してくださった契約を覚えていますか。「わたしが示す地へ行って、祝福となりなさい。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」この契約です。アブラハムの子孫イスラエル人たちは、主との契約を守ることができたのでしょうか。いいえ。あのギデオンの勇士が次々と数を減らされたように、古代イスラエル民族は試され、次々と数が小さくなっていきました。主に仕えないで、偶像に仕えたからです。ダビデ王国は南北に分かれ、まず北王国イスラエルが削ぎ落とされました。残ったのは南ユダの民(ユダヤ人)です。ユダヤ人もエルサレムを追い出され、捕囚となりました。70年後、エルサレムに戻ってきた人たちはたったの一握りです。その一握りの人たちも、やがてサドカイ派やパリサイ派などになっていき、本当に神に従う人ではなくなってしまいました。誰が残ったのでしょうか。だた一人、イスラエルの中のイスラエルとして残ったのは、ユダヤ人の王と頭上に掲げられて十字架にかけられたイエス様です。ただイエス様だけが、十字架の死にまでも神に従い、祝福となられました。世界のすべての人は、イエス様によって祝福されるのです。このイエス様によって救われるのです。アブラハム契約はイエス様によって成就しました。
 使徒の働き以降、弟子たちは口をそろえて言いました。「ナザレのイエス様は十字架にかけられて死に、三日目によみがえられのですから、あなたがたは主イエスを信じなさい」と。
 人生の中で思ってもいなかった問題に直面し、途方に暮れている方がおられるでしょう。すべての人の人生に、人の知らない様々な問題があると言っても過言ではないと思います。こんなはずではなかった。あの時、別の方向に進んでいたら。ああ、私の人生は最後までこの調子で行くのか。人生は終わってしまった。そのように思うことはないでしょうか。しかし時に、大自然を見て、水平線までいっぱいに広がる海原を見て、何万年もかけて形成された壮大な山脈の連なりを見て、真っ暗な空に広がる満天の星空を見て、その雄大さに圧倒され、私が悩んでいることはちっぽけなことだなと思うことがあると言います。もし大自然を見てそう思えるなら、その大自然を造り、お世話をしておられる主を知った時、なおさら自分の悩みが実は小さいことであったことを知るのではないでしょうか。クリスチャンたちも異口同音に言っています。「私の人生はこのようになると思っていなかった。しかし主は、あのイースターに復活された主イエス様は、すべてのことを良いことに変えてくださった」と証ししています。
 ナザレのイエス様は十字架にかけられて死に、葬られて、三日目に墓からよみがえられました。天に昇り、私たちには見えなくなられましたが、いつも私たちと共におられるお方です。いまも生きて、主としてキリストとして神の御業をなしておられます。このイエス・キリストはすべての人の主です。ですから、主イエスを信じなさい。
 
 お祈りします《預言者たちもみなイエスについて、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられると、証ししています。》
 
 天の父なる神様。イースターの朝、約束の三日目に、あなたは御子イエス様をよみがえらせ、現れさせてくださいました。主イエス様が死に繋がれていることはあり得なかったからです(使徒2:24)。なんという喜びの朝でしょうか。
 イエス様。あなたは神のみ姿であられるのに、主でありキリストであることを脇において、苦難のしもべとなり、私たちの罪を代わりに負って、十字架で死なれました。あなたの命によって、神の怒りはなだめられ、過ぎ去ったのです。これほどの恵みが他にあるでしょうか。
 その同じお方が、死からよみがえって、再び主キリストとなられ、いまも生きて、私たちと共にいてくださいます。あなたは私たちの祈りを聞いて、答えてくださる主です。目には見えませんが、あなたのみ名の力は私たちの前に現れています。
 主よ。多くの人が問題に直面し途方に暮れています。伝える人がいなければ、彼らはそのようにして福音を知るのでしょうか。ここに私たちがいます。イエス様がすべての人の主であること、イエス様を信じる者は誰でも罪の赦されることを証しするために、それぞれの場所に置かれている者たちが、ここにおります。このイースターの朝も、私たちを遣わし、良い知らせを伝える人として用いてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

                                         礼拝後の牧師家族歓迎会の際 感謝と共に手渡された花束

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