2023.4.16主日礼拝「ガリラヤ湖上にて」マルコの福音書4章35~41節

今日のメッセージの箇所は嵐をしずめてくださるイエス様の記事からです。
「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。」詩篇46編の言葉が引用されました。私にとっても
お守りのような聖句。何度も唱え心の嵐を静めます。自然界をも従わせる創造主が私を守ってくださるのですから(Re)

[礼拝説教] 中尾道程師

3月半ばから2~3週間程、私たちの健康のことで皆様にご心配とご迷惑をおかけし、お祈りを頂き感謝します。先週のイースターに合わせるかのように、神様は癒してくださり、礼拝に出席が出来ました。ありがとうございます。

イースターの次の聖日ということで、十字架と復活の箇所から開くべきかとも思いましたが、すでに準備を始めていました箇所からと導かれて開きました。イエス様は、ガリラヤ湖のほとりで湖上の舟に乗って、陸地に群がる弟子たちを始めとする群衆に、神の国について多くのたとえを用いて話をされました。

 そして、その締め括りとしてイエス様は「聞く耳ある者は聞きなさい」(9、12、23節)と語られました。
 さらに弟子たちには、その霊的な解き明かしをもしてくださいました。そうして、夕方になったので次の地に行くべく弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。そして、その途上のガリラヤ湖々上でトラブルが起きたのでした。それは、4章の前半の神の国の御業を、イエス様が成してくださる権威を持っておられるお方です。との信仰を持っているかが試されることとなったように思えます。
  ―この個所からー
  「ガリラヤ湖上にて」との題で、共に学びたいと思います。
 
1、弟子たちはイエスをお連れした 35~37節
 イエス様のことばによって、弟子たちは群衆をその地に残したまま、イエス様を舟にお乗せして、ガリラヤ湖の沖に進んで行きました。しばらく進んでいくうちに、イエス様はお疲れだったのでしょう、船尾で眠ってしまわれました。イエス様が、眠っておられる間にトラブルが起きました。それは、激しい突風が起きて舟が沈みそうになったということです。私たちの生涯には様々な波や嵐があり、時には「もうだめだ」と思うような事も起きることがあります。自分の健康が害され、家庭に問題が起き、リストラに遭い、あるいは定年を迎え等、様々な問題に遭うことも知っています。彼らが遭ったのは、ガリラヤ湖を自分の庭のようにして漁していた弟子たちさえ、命の危険を感じた程のものでした。私たちの疑問は、イエス様が一緒におられるのにどうして苦しみがあるのですか?との大きなものです。どうして、「クリスチャンになったのに苦しみに遭うのですか、イエス様がおられるのに困難が起きるのですか」とは、世の人々の責め立てる質問であって、私たちの心を痛める悩みでもあります。ヤコブの子のヨセフは、「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。」(創世記39章3節)と証しされているのに、エジプトのポティファルの下で又牢獄で苦しみを味わったのです。ヨブ記は、正しいものがどうして苦しみに遭うのかについて追及し友達から責められてその苦しみは増しますが、その答えは得られませんでした。しかし、その後に彼の以前の倍の祝福を神様は与えてくださいました。ただ、詩篇の記者は「神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。」と告白しています。
 
2、イエスは風を叱りつけられた  38、39節
 突風で舟の中に水がいっぱいに入ったので、いまにも沈むかと恐れて弟子たちは、イエス様を起こしました。
 それで、イエス様は起き上がって風を𠮟りつけて、突風を沈めてしまわれました。
 イエス様は、湖に「黙れ、静まれ」と言われたのです。これは(レンスキー)「黙らせよ。そして静まらせ続けよ。」ということだと言っています。自然界を支配して力を発揮するのは、自然界の主であられる神様のなさることです。それで、イエス様は主なる神様であられ、被造物を支配し、収める権威を持っておられるお方であられることを示されたのです。ペテロやヨハネたち、弟子たちの何人かはガリラヤ湖の漁師たちです。彼らは、ガリラヤ湖で何度か突風に遭って、その逃れ方もよく知っていたでしょう。その弟子たちが、“先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と悲壮的に叫ぶ程の大変な目に遭いました。その激しい突風を「黙れ、静まれ」と命じて、一瞬にして静めてしまわれたのです。
人の病をいやし、悪霊を追い出してこられたイエス様が、自然界をも「黙れ、静まれ」と命じて、静めてしまわれたのです。このお方が、私たちと同じ人となり、貧しいマリヤの子として生まれ、突風の中でも眠る程疲れる弱さを持っておられるお方となってくださったことは驚くばかりです。そして、このお方こそが私たちに救いを与える贖い主であられるのです。
 
3、イエスは彼らに言われた 40、41節
 弟子たちは、船が沈まないように必死になって懸命に労し続けています。ところが、かたやイエス様に目を向けると、舟の船尾で枕してぐっすりと眠っておられるのです。弟子たちは、一生懸命になって自分たちを救おうとしているのにも関わらず、頼りにしているはずのイエス様は、その傍らで何もなかったかのようにぐっすりと眠っておられます。それを見た弟子たちの心には、怒りに満ちたものさえ沸き起こってしまったのでしょう。私たちが窮地に陥っていて、そこから何とかして救出されようとしてもがいている時に、傍らで平然としている人がいたらなら、私たちはどのような気持ちになるでしょうか。弟子たちは、イエス様に対して、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と、半分怒りを込めるかのようにして叫んでいます。彼らは、今の状況を一瞬に解決することが出来るイエス様が一緒におられるのに、そこにおられないかのように慌てふためいていました。
そればかりか、“風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言って、風を凪にしてしまった”イエス様の権威に対して恐れを抱きました。その恐れに対して、イエス様は「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」と、言われたのです。弟子たちは、イエス様は自然界まで従わせる主なるお方だという信仰までは持てていなかったようです。私たちの信じ従っているイエス様は、「神にとって不可能なことは何もありません。」と告白され、信じられるべき神様であられると信じる者でありたいものです。
―お祈りをします。―





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