2023.2.5主日礼拝「キリストの復活は初穂」Iコリント人への手紙15章12~26節

教会の玄関に飾られた花
教会に耳の聞こえない方が時々おいでになります。会員の中に手話の出来る方がいてその方がお世話してくださるのですが、今回はお休みだったので私がお世話することに。メッセージの原稿を示しながら、いま進んでいるところはどこかをお伝えする役目でした。賛美の時、その方は声を出さずに、手を動かして歌われます。その動きの優雅さに心を奪われました。心から溢れ出る神様への賛美は、手を使って歌うこともできるのだと!ハンディキャップを持つ方々を通して神の姿が現れてきます。メッセージは新約聖書の手紙のほとんどを書いたパウロとその信仰について。(Re)


[礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。10年に1度の寒波を守られ、今日も主のみ前に集まり、喜び楽しむ時をもっていますこと感謝です。
 しばらく前の説教で、ユダヤ教のことを話しました。私たちがユダヤ教と呼んでいる宗教は旧約聖書の後の時代に起こりましたと説明しました。するとある方から感想をいただきました。「ええっつ!?そうなの?」と思われたそうで、その感想を聞いた私も「ええっつ!?ご存知なかったですか?」とビックリしてしまいました。ユダヤ教はバビロン捕囚からの帰還の後も、外国に支配され、民族は各地にバラバラに散らばってしまい、神の声を聞くことが出来ない沈黙の時代に起こりました。苦悩の中でユダヤ人たちが神を引き寄せようとしたのです。イエス様は「ユダヤ教徒は白く塗った墓だ(見た目はキレイだが、中身は死んでいる)」と指摘なさいました。
 旧約聖書の時代にパリサイ派はいません。イエス様は旧約聖書を否定なさったのではなく、その受け取り方を間違えている人たちを非難されました。旧約聖書でも新約聖書でも一貫しているのは、そこに神の心を知る人と、神の心を知らない人がいるということです。旧約聖書におけるヤハウェの指摘は、福音書におけるイエス様の指摘と同じです。上っ面をなでるのではなく、神の心を知りなさいとおっしゃるのです。
 さて、そうすると、使徒パウロがイエス様と出会い、主を信じる人となったことは大きな意味をもっていることが見えてきます。パウロは以前、サウロという名前でした。彼はパリサイ派のユダヤ人であり、ユダヤ人の中のユダヤ人であると自他共に認める人でした。(ピリピ3:15-16)後にパウロはそれゆえに「私は罪人のかしらです」と言ったのです。すなわち、神の民として選ばれていながら、本当の主を知らずに生き、背きの罪のために、枝を折られて、燃える焼却場に投げ捨てられようとしていた民を代表する人物でした。イエス様は先のものが後になり、後のものが先になりますと言われ、取税人や遊女が主イエス様を信じて先に救われていることをお示しになりました。イエス様の言葉によれば、ユダヤ人のパリサイ派は先に選ばれたのに、後になった人たち、最も神の救いから遠い人々でした。パウロはそのユダヤ人のパリサイ派の筆頭だったのです。まさに「罪人のかしら」です。しかし彼は復活のイエス様と出会い、救われたのです。神のあわれみは、救いから最も遠い人を見捨てることがないのです。
 新約聖書に入っているパウロが書いた手紙は、ローマ人への手紙、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙、テモテへの手紙、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙です。今日はコリント人への手紙を開いてみたいと思います。
 聖書をお開きください。Iコリント人への手紙15:12-26(350ページ)【聖書朗読】
 
 パウロが書いた手紙を読む上で、大切なことがあります。パウロの教えは、主イエス様の教えと齟齬がない(イエス様の教えを伝えている)ということです。巷では、「イエスはあくまでユダヤ教の教師であって、パウロがそれを拡張し、広め、キリスト教が生まれた」と言っている人がいます。先日もTiktokで見かけました。ハート(いいね)がいっぱい付いていました。彼は実際に聖書を調べたことも、おそらく詳細に読んだこともないのだろうと思います。パウロがキリスト教を形作ったというのは明らかな間違いです。少なくとも、みなさんはそのような考えに出くわした時、これに反証できるようにしておいてください。このような考えが人々を真理から遠ざけているからです。
 パウロはイエス様の教会において、マイナスからスタートした人です。彼は厳格なパリサイ派で、教会のリーダーの一人であったステパノを石打刑にした人です。彼はあの現場の責任者で、石を投げる人たちは彼の前に上着を置きました。その事件の後、教会に対する激しい迫害が起こり、《サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた(使徒8:3)》のです。エルサレムのクリスチャンは迫害のために散り散りに逃げていきました。クリスチャンたちはパウロがやったことを覚えていました。その後パウロは復活のイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャンとなりましたが、教会の人々はどのように彼を受け入れたでしょうか。イエス様が最も非難されたパリサイ派の人間です。「もしかしたらパウロは私たちを騙すために、イエス様を信じたふりをしているのではないか」と恐る恐るの人々もいたはずです。事実、教会の中でパウロを使徒として認めない人たちがいたのです。
 もしパウロの言葉が、ペテロたちと違っていたらどうなるでしょうか。イエス様を実際に見て、教えを聞いた人々が生きている時代です。ペテロたちでさえ、もしイエス様と違うことを教えていたら、イエス様と違うと指摘されるだろう時代に、パウロが持論を語っていたとすれば誰が受け入れるでしょうか。少なくとも教会はパウロを異端者として非難し、パウロの言う事を聞いてはいけないとペテロたちが伝えるはずです。ところが、ペテロはIIペテロ3:15で《愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです》と言っていて、「私がいま書いていることは、パウロも同じことを書いていますね」と手紙に書いてあるのです。
 パウロはイエス様の教えを書き換えたり、拡大したりしていません。イエス様によって主を知り、神の心を知ったのです。教会は主イエス様が建てました。イエス様が天に昇られてからは、聖霊がペテロたちと同様に、パウロも導かれ、彼らは一致して、主イエス様の教えを伝え続けたのです。ここに至ってパウロの弱さは強みになりました。ユダヤ人の中のユダヤ人、パリサイ派であったことは、罪人のかしらの印であり、神の救いから最も遠いという弱さでありましたが、イエス様と出会い、啓示の光に照らされて、彼の旧約聖書の知識は活き始めました。
 旧約聖書時代を生きていた古代イスラエル人たちは、やがて主の日がくることを預言者から聞いていました。今の時代と来るべき時代がある。新しい創造の日がやってきて、主は民にご自分の霊を注がれ、世界に正義と公正をもたらし、自然界を変えてくださると聞いていました(イザヤ32:15-20)。イザヤ書やエゼキエル書に記されています。
 そしてついに約束の救い主がきて、主の日はやってきたのです。イエス様はイザヤ書を朗読し、《今日、この聖書のことばが実現しました。(ヨハネ4:21)》と宣言なさいました。しかし、段々と分かってきたことは、来るべき時代は夜明けのようにしてやってきたということです。確かに日が昇って朝が始まったけれど、まだ夜の闇が残っている状態です。今、私たちはその時代を生きています。イエス様は神の国がすでに到来し、やがて完全に来ることを解き明かされました。また信じるものに永遠のいのちが与えられていて、やがて再臨の日に永遠のいのちが完全に復活のからだとして現れることを教えてくださいました。パウロも同じことを丁寧に解き明かしています。神の国や永遠のいのちという表現はあまり使っていませんが、旧約聖書の出来事を基にしながら説明しています。アダムやアブラハム、イサク、モーセ、また幕屋や神殿など旧約聖書を知っている人がイメージしやすい事柄を用いて教えています。
 2023年を生きている私たちは、悪の時代が留まっているにもかかわらず、約束されていた来るべき時代の幕がすでに上がったことを知りました。エゼキエル37:12-14に来るべき時代に何が起こるか預言されています。《それゆえ、預言して彼らに言え。『【神】である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが【主】であることを知る。また、わたしがあなたがたのうちにわたしの霊を入れると、あなたがたは生き返る。わたしはあなたがたを、あなたがたの地に住まわせる。このとき、あなたがたは、【主】であるわたしが語り、これを成し遂げたことを知る──【主】のことば。』》主の新しい創造の時代が来ると、主の霊が人のうちに入り、人が生き返ります。今日、お開きした箇所でパウロが話しているのはこのことです。旧約時代に人々が待ち望んでいた、主の新しい創造の時代が来たと。それなのにそれを信じないで、失望している人が教会の中にいるのはどういうことですかと言っているのです。
 23節に「初穂」とあります。旧約聖書でよく出てくる表現です。作物の収穫は一瞬で終わるものではありません。収穫し始めてから、収穫を完了するまで時間がかかります。初穂とは、一番最初に収穫した作物のことです。初穂だけで収穫が終わることはありません。初穂があり、残りの沢山の収穫があります。この収穫のイメージを頭に留めてください。主の新しい創造の時代は、すでに初穂を収穫しました。その初穂はキリストのよみがえりです。イエス様の復活です。初穂があるということは、残りの沢山の収穫があります。キリストに属している人たちの永遠のいのちによる復活です。私たちはまだ収穫の完了を見ていませんが、初穂の収穫はすでに見ました。キリストに属している人たちの復活をまだ見ていませんが、キリストの復活はすでに見ました。
 主の新しい創造の時代が幕を開けたのに、悪が残っている時代を生きるということは厄介なことです。一人でも多く、収穫にあずかることができるように、神が忍耐しておられるからだと知っていますが、私たちは苦悩し、時にうめいています。悪の時代の最後の敵は死です。キリストがよみがえり、聖霊が注がれても、今の時代を生きている限り、死は最後のあがきでクリスチャンを襲います。しかし、最後の敵が襲いかかってきても、できるのは地上のいのちを奪うことだけです。キリストに属している人たちには、永遠のいのちが今のいのちとは別にあります。復活のからだが地上のからだとは別にあります(15:40、44)。永遠のいのちを奪うことができる敵は存在しないのです。
 日曜日は主イエス様が墓からよみがえられた日です。イエス様の復活こそ、安息の意味するところです。それでクリスチャンは安息日である土曜日(週の最後の日)に礼拝するだけでなく、復活の朝である日曜日にも礼拝するようになりました。(後に日曜礼拝だけになりました。)私たちは共に集まり、この日を主のみ前で喜び楽しんでいます。なぜなら、キリストである主イエス様が初穂として生き返られたからです。初穂の収穫は、残りの収穫が続くことの証です。イエス様の復活は、キリスト属している私たちのよみがえりの保証です。イエス様の肉体に死が襲いかかったように、私たちもやがて死にます。しかし蒔かれた種が、死んでから新しい命の芽をだすように、私たちも朽ちないものによみがえらされるのです。新しい創造の時代はすでに始まっています。私たちは嬉しい!栄光のよみがえりは保証されています。
 さぁ、あなたも主イエス様のよみがえりを信じましょう。夜明けから朝になって、夜の闇が居場所を失う日がやってきます。神である主は何を待っているのでしょう。イエス様はなぜすぐに帰ってこられないのでしょう。世界中のクリスチャンたちは厄介な時代をうめきながら歩み、何を待っているのでしょう。_ あなたが主の元に帰ってくるのを待っているのです(IIペテロ3:9)。あなたに永遠のいのちを持ってほしいから。その為なら私たちも、苦しくても待つことができます。でも、《主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう(IIペテロ3:8)》であることを忘れないでください。主の日は突然やってきます。
 お祈りします《もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。》
 
 天の父なる神様。偉大さ、力、輝き、栄光、威厳をもってすべてを支配しておられる主よ。あなたの御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられています。
 罪の深みに沈んでいた者たちを、低く下って捜し、見つけ出して、救い出してくださった主よ。あなたの十字架の死に共にあずかり、死んだ私たちは、間もなく、あなたの復活に共にあずかり、朽ちない栄光のからだで生き返ろうとしています。イエス様。あなたは確かに十字架につけられ、死んで葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちからよみがえられました。私たちは目で直接見てはいませんが、その証言を聞き、それを信じています。初穂であるイエス様がよみがえられたのですから、再臨の日にイエス様に属している者はみな、よみがえります。なんという恵みでしょう。永遠のいのちにはもはや死がありません。
 新しい約束の時代が幕を開けたにもかかわらず、悪が支配を残している時代を私たちは生きています。永遠の時に比べれば、ほんの僅かの時間ですが、私たちにはまるでそれが全てであるかのように長く感じます。どうかあなたの深い愛と忍耐を私たちにも教えてください。この町のすべての人に、あなたが待っておられるという良い知らせを伝えることができますように。多くの人のために主イエス様のみ名によって祈り続けることができますように助け導いてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

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