2023.1.29主日礼拝「総会では表しきれないイエス様の教会」ルカ10:1、17:20

寒さはまだまだ厳しいですが、陽光に春が感じられるようになりました。今日は礼拝のあと大事な総会の日です。礼拝メッセージはさながら濃縮エキスのよう。

教会は神の国、それは、神の国が集うひとりびとりの中にあるから。私たちが主と同じ思いを持つとき、私たちのただ中にあるから。私たちが動く時、神の国も移動し、さながら美しい香りが広がるように神の国が私たちと共に広がって行く…。その目に見えない光景を心に描いてうれしくてうっとりとしました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。今年最初の一ヶ月を共に過ごし、感謝の礼拝の時をもてますこと嬉しく思います。今日は礼拝後に総会がありますので、大切なことを短く、しかし密度は濃くお話ししたいと思います。

 教会総会は前年の報告と今年の予定を構成員が全員集まって協議、承認する場です。インマヌエル綜合伝道団の教会では毎年1月に各教会で行われています。なぜ総会があるかといえば、私たちが法人をもっているからです。宗教法人だけではなく、あらゆる法人は総会をします。ここでみなさんに頭の中でよく整理して理解しておいていただきたいことは、「王寺教会は宗教法人をもっている」ということです。「×王寺教会は法人である」ではなく、「⚪王寺教会は法人をもっている」のです。
 法人を持つとはどういう意味でしょうか。商売をしていらっしゃる方はよくご存知と思います。法人があれば、教会は法的な人格をもちます。様々な契約ができるようになり、総会や行政への届け出をちゃんとしていれば外からの信用も得られるようになります。私たちは世において活動し、財産を管理するための道具として法人をもっているのです。法人は道具であって、宗教法人があるから教会があるのではありません。
 教会は、イエス様が《わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます(マタイ16:18)》とおっしゃって始められた弟子たちの共同体です。イエス様の新しい契約による神の民です。旧い契約による神の民は罪のために枝を折られてしまい、信仰によるアブラハムの子孫が新しい契約によって接ぎ木されました。聖書を隈なく読んでも「宗教法人」はどこにも出てきませんし、総会を開かなければならないとイエス様が言われたこともありません。法人はあくまで道具だということ認識して、知恵を持って用いていきましょう。
 聖書をお開きください。ルカの福音書10:1,17-20【聖書朗読】
 
 宗教法人は教会にとって道具にすぎません。ですから、総会では表現できない部分が教会にはあるのです。
 イエス様は弟子たちのうち《七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされ》ました。イエス様も弟子たちも色々なところを動いていきます。これも教会の特徴です。教会は頭であるイエス様と、イエス様に従う弟子の群れです。イエス様はある時には神殿や会堂に行かれました。ある時には人々の生活の場、仕事の場、結婚式や祭り、病の床、悩む人の隠れ場に行かれました。ある時には人のいない丘や荒野に行かれました。教会はイエス様のおられるところへあちらへこちらへ、時に集まり、時に散らばります。時にイエス様の後をついていき、時にイエス様の前に派遣されます。
 イエス様は弟子たちに《『神の国があなたがたの近くに来ている』(9節)》と伝えさせました。イエス様があなたのところに来られますよと伝えなさいということです。神の国はイエス様のところにあります。《神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。(ルカ17:21)》悔い改めて「イエス様、あなたは私の主(私の王)です」と信じ受け入れるなら、その人は神の国に入るのです。イエス様が来ると神の国の入口がやってきます。
 イエス様の先に人々の所に派遣される弟子たちは、イエス様のみ名を用いる権威が与えられています。弟子たちが行く先々で、イエス様が来た時と同じような状態になるということです。人々は「神の国が近くに来ている」ことを知ります。そしてイエス様が来てくださって、その人はイエス様と出会うのです。イエス様との出会いは、ひとりの人の人生の中で起こります。軸はその人の人生にあり、いわゆる教会活動はその軸にちょいちょいと関わっている程度です。最初にチラシを渡して、次に行事に誘って、それからあの集会に、次は牧師との面談を…、、そのようにして伝道は進むものではありません。その人の人生にイエス様が来られて、そのうちに人生の出来事(転機)が起こってきます。その出来事の中で、その人は色々と考え、選択を迫られるのです。方向転換してイエス様に頼るのか、頑なになりイエス様に頼らないままでいるのかを選択することになります。
 そういうわけですから、私たちは誰かと出会ったなら、祈り始めるのです。その人の人生に起こってくる様々な出来事の中で、イエス様と出会い、十字架の贖いを受け取り、神の国に入るようにと願い、祈り続けます。これを個人伝道といいます。教会の兄弟姉妹の誰かがひとりで伝道することを個人伝道というのではありません(よくある誤解です)。個人伝道の「個人」は伝える人ではなく、伝えられる人の「個人」です。その人の人生に沿って、イエス様と出会えるようにという意味です。伝える人がひとりでも二人でも大勢でも、相手の人生が軸になっていれば個人伝道です。
 教会の働きにはイエス様のみ名の権威が与えられています。クリスチャンひとりひとりの働きには特別なしるしが伴うことでしょう。しかし私たちは自分たちの活動を誇るべきではありません。「クリスマスコンサートに⚪人来た。沢山伝道した!チラシを⚪万枚配った。ああ、大いに伝道した!」ではありません。イエス様が人々の所に来てくださること。人生の転機にイエス様と出会って変わったということ。それが伝道です。“教会の活動”は一役買ったかもしれない。でも、ほんの一役です。それを弁えず行事や活動を増やしすぎると、かえって伝道の邪魔になってしまうことすらあります。私たちは、イエス様が世の人々の一つ一つの人生に現れてくださっている働きの中に、関わらせていただいています。私たちは神の国に先に入れられて、イエス様のみ名によって働くことが許されているからです。どんな活動ができたか誇るのではなく、《あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい(20節)》とイエス様は言っておられます。

 お祈りします《どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。… どの町に入っても、…その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。》
 
 天の父なる神様。神の国のただ一つの門である主よ。私たち、ひとりひとりの人生に福音を伝える人を遣わしてくださり、神の国の入口が近づいていることを教えてくださったことをありがとうございます。その後、あなたは私たちの人生に来てくださいました。決心をしてイエス様を信じるまでにはしばらくかかりましたが、その間に私たちの前を去らないで忍耐してくださったことを感謝いたします。
 今度は私たちがイエス様の先遣隊とされていることを光栄に思います。この年も、私たちが出会うひとりひとりの人生を覚え、祈り続けることができるように助け導いてください。御子のみ名によって、神の宣教に参加することができる恵みをありがとうございます。これはあなたの働きです。あなたは知恵ある者を恥じ入らせるために無に等しい者を選ばれました。私たちはただあなたを誇りとします(Iコリント1:28)。
 礼拝後に教会総会を開きます。宗教法人を御心に従って、適切に用いていけるように助けてください。その中には世の価値観とのせめぎ合いがあります。私たちを守っていてください。何よりも、神の恵みによって成長し、神の愛によって結び合わされ、主によって建て上げられる教会としてくださいますようにお願いいたします。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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