2023.2.12主日礼拝「そして主の栄光をほめたたえる」エペソ人への手紙 1章3~14節

 


(教会玄関前のかわいい花たち)

寒さの中にも春の兆しがそこここに見えて明るい期待を与えてくれるお天気でした。今週のメッセージは、礼拝することとは?神の国とは?のお話です。目に見えないものが心の目で見えるようになれることを欲します。私たちが過去から今までそして将来まで、神様に愛されていて、いつも守られていることを、どんな試練にあってもそれを忘れることがないように。感謝と祈りを伴って。そこから神への礼拝の真の姿勢が起こってくるかな。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。この朝も兄弟姉妹と共に集められ、主のみ名を心と声を合わせて礼拝する恵みを感謝いたします。

 みなさまにとって、礼拝式のひとときはどのような時でしょうか。私たちクリスチャンには、世を生きる歩みの中で、天と交わる時があります。天と地が交わる時です。多くの人の証詞を伺っていますと、ひとりで神の前に静まって聖書を読み、また祈っている時にそれを感じることが多いようです。それでは礼拝式はどうでしょうか。最近、ある書籍を読んでいましたら、ある節の見出しに「礼拝に行くと逆に疲れるのはなぜ?」とありました。「いや、疲れることなんてないよ」とおっしゃる方もいれば、「分かる、分かる」と同感される方もおられるでしょう。その本は「信じても苦しい人へ」というタイトルで、結構読まれているそうです。
 聖書は何を私たちに伝えているのか。神である主は、聖書を通して何を教えておられるのか。旧約聖書と新約聖書で一貫しているメッセージとは何か。2年近くかけてお話ししております。今日は「神の栄光をほめたたえること」すなわち「礼拝」についてです。
 聖書をお開きください。エペソ人への手紙1:3-14(384ページ)【聖書朗読】
 
 聖書は創世記から始まっています。その初めは何の話だったでしょうか。「はじめに神が天と地を創造された。」天地創造の話ですね。しかし、それをよく読んでみると、実は聖書の最初の段落である1:1-2:3は「安息日」のことを言っているのです。天と地とそこに住む全てのものを創造し、なさっていたわざを完成されました(やめた・休んだとは完成したという意味)。神はその第7日を聖なる日とされました。聖なる日とされるとは(今年の標語聖句を思い出してください)、神である主が被造物の何とも全く異なり、唯一のお方であることを憶えるということです。安息日はすなわち礼拝の日です。
 では、聖書の最後のページはどうなっているでしょう。ヨハネの黙示録22章。新しい天と地の新しいエルサレムで、《神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。(黙示録22:3-4)》と書いてあります。聖書で「仕える」とは「礼拝する」と同じ意味の言葉です。聖書の最初は礼拝で始まり、最後も礼拝で終わっています。かつて罪のなかった世界に礼拝があり、やがて罪が取り除かれた世界に礼拝があります。
 また、最初と最後だけではありません。途中にも礼拝があります。旧約時代に神に選ばれた古代イスラエル人は、年間の歩みの中で、祭りを行い、神のわざを子どもたちに教えていました(レビ記23章)。そのカレンダーの中で一番最初に来る、最も大切な祭りは何だと思いますか。毎週の安息日です。《わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した。わたしは【主】である。(レビ22:33)》と前置きして、年間のカレンダーによってそれを表すように、特に毎週の7日目に安息日をおぼえなさいとおっしゃいました。
 これまで旧約聖書を長く読んできました。そこに書かれていたのは「神の宣教」でした。人の目に神様の姿が見えやすいか見えにくいか、時代によって状況が異なっていましたが、主が事を始められました。神様をすっかり忘れてしまった世界でアブラムを選ばれたのは主です。燃える芝に現れ、モーセを召し出したのは主です。神の家を建てようとしたダビデの言葉を退け、わたしがあなたのために家を建てるとおっしゃったのは主です。そして結論として言われていたことがあります。旧約聖書はとどのつまり、偶像礼拝との戦いです。「ただ主だけに頼りなさい」と。そのために人は救われたのです。
 この旧約聖書の結論ともいえるメッセージは、新約聖書に入っても変わっていません。神の御子イエス様は誰かに呼ばれて、地に来たのではありません。神に遣わされたのです。主イエス様が人を救われました。では、異邦人に福音が広がった時はどうですか。パウロが福音を外国人に伝え始めたのだったでしょうか。違いますね。主の使いがコルネリウスのところに来て、ヤッファにいるペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさいと言いました(使徒10)。そのころペテロは幻を見ていました。天から大きな入れ物が降りてきて、その中にきよくない動物が入っているのを見ました。声が聞こえてきて《「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」》《「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」》それが3回繰り返された後、コルネリウスの使者がペテロを訪ねてきました。それでペテロは主が自分をローマ人のところに派遣しようとしておられると気が付いたのです。主がすべてのことを先導しておられました。使徒の働きを書いたルカは、パウロの付き人でしたから、パウロ先生が素晴らしいと持ち上げたければいくらでもそうできたと思います。しかし、使徒の働きを読んでみても、パウロ先生がすごい、ペテロ先生が素晴らしいという話ではありません。使徒たちが主イエス様のみ名によって働いた、つまり主が使徒たちを用いて、ご自分の業をなさったという記録です。そして新約聖書の結論も旧約聖書と同じです。主イエス様を信じ、従いなさい。主イエス様のみ名を高く上げ、礼拝しなさい。人に頼ってはならない。富に仕えてはならない。つまりはそういうことです。
 神の宣教の最終目標地点は礼拝です。罪を悔い改めて天国への切符を手に入れることが最終目標地点だと思っている人が結構いるのではないでしょうか。前の時代にはそのことが特に強調されていたからです。確かに、神の怒りを受けるべき罪人は、神様と和解せずに礼拝の場に入ることはできません。それは必ず通らなければならない唯一の神の国の門です。でも、イエス様は神の国の祝宴には、招かれただけではなく、祝宴に入った後に着るべきとして用意されている服がありますとおっしゃいました(マタイ22:12)。他にも神の国に入ってからの話がいくつも書き残されています。エペソ人への手紙でパウロが語っているように、私たちの救いの先には、神をほめたたえる礼拝があるのです。神の民イスラエル人は、何故に責められたのでしょうか。彼らは主に救われました。約束の地カナンに入りました。しかし、その後に主を礼拝する歩みを続けなかったので責められたのです。
 さて、私たちは神である主を聖なる方とし、礼拝するように言われていますが、これを喜んで受け取る人と、否定的に取る人がいるでしょう。ある人は、「わたしを讃美し、ほめたたえよと命じるとは承認欲求が高めの奴だな」と思うのかもしれません。どこかの独裁国家の将軍様みたいに、人々が作り笑顔で「将軍様~」と手を叩いたり、涙を流して感動したり、そのような様子を思い出すかもしれません。でも、あの将軍様と私たちの主は全然違います。
 イエス様は天の神様を「アバ(abba)」と呼ばれました。アラム語で赤ちゃんが初めてお父さんを呼ぶ時の言葉です。日本で言う「パパ」です。律法学者たちは目を吊り上げたかもしれません。旧約聖書で神である主に「父よ」と呼びかけた人はいなかったからです。でも、聖書の神をよく知っている人なら、「父」と親しく呼ぶことに違和感はないでしょう。主はご自分の民に蛇を与えるようなお方ではなかったからです(マタイ7:10)。むしろ食べ物と着るものと、安全な住まいをいつも提供してくださいました(申29:5-9)。父が自分の子どもに必要なものを十分に与えるように、天からのマナと岩からの水で養ってくださいました。民がカナンに入った時、「さぁこれからは自分で生計を立てなさい」とおっしゃったでしょうか?いいえ。荒野を忘れてはならないとおっしゃいました。カナンで収穫を得た時、《「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい》とおっしゃいました。目に見えるところが変わっても、主が民を養っておられることには変わりがないからです。
 私たちは主の栄光をほめたたえている時、父なる神様が私たちを救い、養い、導き、守り、愛していてくださることを思い出すのです。この方の他に頼るべきものはないことを思い出すのです。私たちの礼拝の喜びは主からの喜びです。恐怖からの“作られた喜び”ではありません。独裁国家とは全く違う世界が神の国にあります。礼拝に来ると「喜ばなくてはならない」のかなと感じ始めたら、無理して喜ぼうとせずに、静かにして主の働きに心を向けてみることです。イエス様は安息日に「わたしの父は働いている」とおっしゃいました。そしてイエス様自身も安息日に人を癒やされました。今日、あなたがこうして礼拝の席に座っている時、天の父があなたのために働いておられることを知っていますか。王座にどかんと座って、扇子を仰ぎながら下々が讃美しているのを聞いていると思っていませんでしたか。主はそのようなお方ではありません。私たちが主のわざのひとつひとつによって、子供のように喜んでいる様子を嬉しく思っておられます。
 私たちは主から「してもらった」ことに感謝して礼拝すると考えていないでしょうか。それは確かに間違いではありませんが、完全ではありません。私たちは主から「してもらった」だけでなく「してもらっている」からです。人生の荒野でしてもらったことは、カナンに入ってからもしてもらっているのです。主は「してあげてるよ」なんて恩着せがましく言うお方ではないし、私たちの目にも見えないので(自分の力で出来ているように見えるので)、「してもらっている」ことに気が付かないのです。荒野で救われたことに感謝して礼拝していても、そのうちに「だんだんお礼の方が多くない?」と思い始めてしまいます。しかし、荒野の試練を経験した人なら、カナンに入ってからも、主が私たちを救い、養い、導き、守り、愛し続けていてくださることに気が付けるはずです。目に見えないことが見えるはずです。それを目で見て経験したことがあるのですから。
 私は常々、教会を建てあげる(エペソ4:12)と言っています。教会を建てあげるとは、立派な教会堂を建築することではないし、優れた制度やルールを決めていくことでもないし、強力な奉仕者チームを結成することでもないし、活発な活動をこなし続けることでもありません。キリストのからだであるひとりひとりが主を礼拝する人となり、一生の間、それが心から離れることがないように。それがキリストのからだが頭に結びつくということ、教会が建て上がるということです。救われて神の子とされて、完成ではありません。祈りの栞を確認してみてください。伝道のためにどこまで祈り続けますか。その人が礼拝者となるまでです。
 お祈りします《神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。》
 
 天の父なる神様。イエス・キリストによって私たちの背きの罪を赦し、私たちをご自分の子として再び迎え入れ、み前に聖なる、傷のない者にしてくださった主よ。あなたの豊かな贖いの恵みゆえに、心から感謝し、み名を賛美いたします。
 私たちは人生の海の嵐に悩まされていた時、あなたを知りました。あなたは暗闇の中、また死の淵においても私たちと共にいてくださり、力強い御手で救い出してくださいました。約束の地に入っても、わたしが共にいることを忘れないようにとおっしゃいました。あれからしばらく時が経ち、私たちは今、どのように過ごしているでしょうか。過去を振り返るばかりで、今、私たちと共にいて養っていてくださる主を見失っているかもしれません。荒野の主は、カナンの主です。
 主よ。どうか私たちをあわれんで、あなたのみ前にへりくだる心を与えてください。私たちの礼拝は、私たちの力を誇示するものではありません。あなたが用意してくださったパンとぶどう酒があります。私たちが用意したのではなく、あなたが備えてくださいました。この喜びの祝宴に、私たちを招いてくださりありがとうございます。私たちは今週もあらゆる所に出ていって、どんな人でもあなたの食卓に招かれていることを伝えに行きます。
 感謝して。主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages