2023.1.15主日礼拝「安息日は誰のために」マルコの福音書2章23~28節

今朝は聖餐式にあずかりました。

イエス様が十字架刑で亡くなる前の最後の晩餐で、今後記念としてこれを行いなさいと、弟子たちに命じられ、自らパンを裂き、葡萄酒を注がれ、弟子たちを祝福されたのが最初で、聖書の教えの通り2千年経つ今でも、教会では洗礼を受けた信者はこれを受けることができます。イエス様の体と一体になる。
聖餐式のたびに、イエス様を思い心を新たにいたします。
私事ですが、昔、3歳だった娘はこのパンとジュースが自分も欲しいと言い、喜んで洗礼を受けることになりました。今ではその意味もわかって信仰に成長しています。コロナ禍でパンは袋入りの軽い麩菓子に、ジュースはパックに入っています。(Re)

 [礼拝説教] 中尾道程牧師 

昨年の12月に町の公報に挟み込みとして奈良県の交通協会から「交通安全だより」というパンフレットが入っていました。

 その中に「道路交通法の改正により、自転車利用者の全世代にヘルメット着用が努力義務になります。」ということが書かれていました。
 これは自転車に乗る人の安全のための「道路交通法という」決まりということでしょう。
人が集まって何かを一緒にするとき、決まりがないと上手くいきません。
ところが、その「決まり」が長い年月とそれを守る人が変わっていく間に、本来の意味が失われることがあります。
神様は、モーセによってエジプトから救出されたイスラエルの民に、神様に従っていくための「決まり」を与えられました。
 それは、シナイ山でモーセを通して与えられた十戒でした。
 その中に、「安息日」のことがありました。
このことは重要な事でしたので、このことでイエス様とパリサイ人たちの間にしばしば衝突が起きました。
そうして、ここはその事の一つの所となります。
  ―この個所からー
  「安息日はだれのために」
との題で、共に学びたいと思います。
1、弟子たちが穂を摘み始めた          23,24節
 弟子たちがイエス様に伴って麦畑を通っている時、麦の穂を摘み始めたとあります。
 このことは、申命記23章25節(旧356p)を見るとー他人の畑であっても麦の穂を手で摘み取ることは許されていました。
 さらに、穀物の束の置き忘れの一つさえ弱い立場の人のものとすべきでした。
 ところが、このことが「安息日」だという事で問題が起きたのでした。
イエス様の時代に、異邦人とユダヤ人を区別するものが特に三つありました。
その第一は、安息日の遵守でした。パリサイ人は、この点に特に厳格でした。
第二のユダヤ的生活に特徴として、割礼がありました。
第三は「汚れた」食物を食べることに関する禁令でした。
この中の第一のことに関することがここで扱われています。
ですから、24節でパリサイ人たちが ―「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」―と、イエス様を責めていることばは、彼らにとって重大な事だったと分かります。
出エジプト記20章8~11節(旧134p)には、十戒の第四戒が記されていて、安息日には「どんな仕事」をすることも禁じられています。
そこでは、何が「仕事」になるかということが問題視され、数百の細かく小さなことまで規定が決められていきました。
その中に、手で穂を摘むことは収穫をすることで、麦からもみ殻を取り除くことが脱穀に当たり、それらは安息日に禁じられている仕事に当たるとされていたのです。
それで、「空腹のために弟子たちが穂を摘み始めていたのは仕事だから、安息日にはしてはならないことだ」と、いうのです。
どんなに人間的な必要があっても、「安息日には仕事をしてはならない」といって人の生活を縛ったのです。
そこで、イエス様はパリサイ人たちに反論をされました。
 
2、ダビデがしたこと              25,26節
 26節に、「大祭司エブヤタルのころ」と言われていますが、その時大祭司だったのはエブヤタルの父、アヒメレクでした。
 このことについては、いろいろと言われていますが、この所では取り上げません。
さて、イエス様は、パリサイ人たちに対する反論の為に、ダビデがしたことをたとえとして用いられました。
それは、サムエル記第Ⅰ・21章1~6節(旧519p)に記されています。
 ダビデとその供の者たちが、サウル王から逃れる途中祭司アヒメレクの所に立ち寄りました。
 その時、空腹でいたダビデとその供の者たちの求めに従ってアヒメレクは聖別したパン(臨在のパン)を与えました。
そして、その時は「安息日ごとに、聖別したパンを主の前に絶えず整えておく」と言われているように安息日でした。
「そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。」と与えた理由が述べられています。
ところが、この聖別されたパンは、祭司とその家族だけが、聖なる場所で食べることができる聖なるものでした。
これは、今日のように安息日で空腹だったダビデたちが、祭司とその家族だけが食べることができ、他の者が食べられない臨在のパンを食べたではないですか!というものでした。
聖書は、ダビデの行ったことを認めているのです。
ですから、弟子たちのことも責められないのですよということです。
 
3、安息日が設けられたのは           27,28節
イエス様は、さらに「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」と、言われました。
神様は、創造の初めから人間のためにと事を行ってくださいました。
それは、神様が天と地を最も善きものとして創造し、その最後の仕上げのようにして、神のかたちに人間を造ってくださいました。
それは、ある意味で人間のために造られたのです。
さらに、安息日についてー
出エジプト記では、「それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」とあり、神様が創造されたことに関連して語られています。
それに対して、申命記では、「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」とあり、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が、神によって救い出されたことの関係で語られています。
ですから、安息日は主なる神様の創造の祝福を覚え、エジプトからの救いの恵みを心に刻む日として、定められたのです。
私たちにとっては、神様が私たちを生まれさせ、罪から救ってくださった救いの恵みを心に刻む日ということでしょうか。
いずれの場合も、祝福をもって顧みてくださった神様を覚える日、喜ぶ日が安息日です。
それで、人は安息日の規則や規律の犠牲となり、奴隷となるために造られたのではありませんでした。
安息日が制定されたのは、私たち人間の霊的・精神的・肉体的安息のためでした。
神様は、私たち人間を祝福し恵むために安息日を与えてくださったのであって、パリサイ人たちが責めたようにがんじがらめに禁止して縛るためではありませんでした。
神様が、私たちに何かをなさるときは、それは私たちの最善のためであり、私たちを祝福するためなのです。
さらに、イエス様は「人の子は安息日にも主です。」と言って反論を閉じられました。
「人の子」のイエス様が、安息日を正しく解釈する権威を持っておられる主であることを語られました。
そのように語り、弟子たちがしたことを正当化されました。
―お祈りをします。―

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