2023.1.8主日礼拝「永遠の命」ヨハネの福音書3章1~15節

年が変わって光の暖かさが増したように思います。コロナの状況はまだまだ気を許せませんが、希望を与えてくださる神様の恵みを日差しの中に感じます。会堂内の壁は何の飾りもなく真っ白で、まだ今年の標語も掲げられていませんが、無の中に新しい期待を抱きます。メッセージは新約聖書の福音書から。「ユダヤ教徒は…」の話に、ええっつ!?そうなの?って話も。また、イエス様のお話をいっぱい聞くことができます。お正月は何だかうれしいのは、何歳になってもですね。(Re)

 [礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。先週は元旦礼拝でしたが、お正月の都合があっていらっしゃれなかった方もおられるでしょう。今年は「キリストを主とし、聖なる方としなさい」の御言葉をいただき一年を踏み出しています。目に見えない主イエス様のみ名によって働く年といたしましょう。

 クリスマスには礼拝の喜びは神の救いから来るとお話いたしました。今朝もイエス様の十字架と復活を思い出しましょう。イエス様の血を飲み、肉を食べる者はいのちをいただいているのです。来週は聖餐式ですが、今朝も目に見えない霊的な聖餐にあずかっていることを思い出しましょう。
 礼拝の喜びを知るには3つの段階があります。聖書が「生まれながらの人」と言っている段階において、人は平安があります。礼拝に出席して、讃美歌を歌い、お祈りをして、聖書のお話を聞き、その雰囲気が素敵だなと感じるのです。ところがそれは「知らないことによる平安」なのです。崖の淵に立っているのに周りが闇で見えないために、自分には危険がないと思っています。この時、その人は幸せですが、それは「知らないことによる平安」です。しかし、ある時、主が聖書を通して霊の目を開かれる瞬間が訪れます。聖書を読んでいるうちに、説教を聞いているうちに、光が指してきて、自分のいる場所が見えるようになるのです。すると、恐ろしくなります。「律法(聖書)の下にいる人」になったからです。礼拝に来て、平安を感じますと言っていた人が、ある時から「怖ろしい、怖ろしい」と言い始めるのは、聖霊に触れられ自分の状態が見えるようになったからです。「生まれながらの人」より「律法の下にいる人」は不幸なのでしょうか。いいえ、「律法の下にいる人」の方が本当の意味で幸せです。自分がどこにいるか見えるようになったのだからです。イエス様がどうして来てくださったのか、ようやく分かる状態にきたのです。イエス様はあなたのために地にきてくださいました。どんなに努力しても抜け出すことができない罪の束縛から解放し、自由を与えるためです。エジプトから解放し、カナンに入れるためです。イエス様の十字架と復活にあずかった人は「恵みの下にいる人」となります。この人に与えられているものこそ、本当の平安と喜びです。
 さて、待降節からしばらく脇道に入っていましたが、大通りに戻ります。旧約聖書から新約聖書に入り、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの福音書を読んでいました。イエス様が神の国の福音を宣べ伝えられたこと、その神の国がイエス様とともに来たことが書いてありました。今日はヨハネの福音書を開きます。
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書3:1-15(179ページ)【聖書朗読】
 
 新約聖書にある福音書はイエス様の弟子(使徒)の証言です。マタイとヨハネはイエス様の12使徒です。マルコはペテロの付き人で、彼の証言を沢山聞いていました。ルカは使徒パウロの同行者で、復活のイエス様と出会ったパウロから話を聞き、また他の使徒たちの証言をまとめた資料(Q資料)やマルコの福音書をよく調べて書いています。4つの福音書はすべて使徒たちが生きている間に書かれ、間違いのないものとして教会で回覧されていました。イエス様は有名人でありましたから、イエス様を信じなかった人たちも色々な言動を目撃しており、でたらめな事を書けば必ず指摘されるでしょう。イエス様の十字架から数十年後の、目撃者が多数生きている時代に書かれたものです。
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書と4つありますが、これらはバラバラのものではありません。しかし単純に重ね合わせることもできません。主イエス様は生きておられるお方であり、絵のように一面で捉えることができないからです。4人はそれぞれ別の方向から同じイエス様を見ており、それぞれ別の一面を教えてくれています。こっちから見たら左を向いているイエス様も、あっちから見れば右を向いているイエス様になります。左を向いている絵と右を向いている絵を重ねてもおかしな事になるだけです。そこから立体像と動きを見ていただきたい。それが福音書の読み方です。
 マタイ、マルコ、ルカの福音書では、イエス様が神の国を宣べ伝えられことが何度も語られていました。今日開いたヨハネの福音書でも、神の国が出てきます。しかし、ヨハネの視点には特徴があります。それは「永遠のいのち」に、より注目しているということです。イエス様は良い知らせを人々にお話になった時、神の国に入ることを永遠のいのちを得るともおっしゃいました。「永遠のいのち」は、ヨハネが考え出したことばではありません。イエス様がおっしゃったことばであり、マタイの福音書(19:16)にも、マルコの福音書(10:17)にも、ルカの福音書(10:25)にも出てきます。ただ、ヨハネは特に「永遠のいのち」の面から神の国を語っておられるイエス様を見ているのです。
 さて、ニコデモがイエス様のところにやってきました。彼はパリサイ派でした。4節で《どうやって生まれることができますか。》9節で《どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。》とイエス様に尋ねていますが、この言葉は当時のユダヤ教徒の姿勢をよく表しています。ここで、ちょっとした豆知識ですが。みなさん、旧約聖書の人々はユダヤ教徒だと思っていませんか。それは間違いです。旧約聖書の人々はユダヤ教徒ではありません。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、ダニエルもユダヤ教徒ではありません。旧約聖書の後の時代に起こって来たのがユダヤ教です。ユダヤ人は捕囚からエルサレムに帰り、神殿を再建することができましたが、エルサレムは外国の帝国に支配されたままであり、民族は各地に散らばったまま。主の約束のことばが半分くらい実現して、半分くらい実現していないような微妙な時代を生きることになります。その中で出てきたのがユダヤ教なのです。ニコデモは尋ねています。「どうやって」「どうして」。サドカイ派は神殿の儀式を規定通りに守ることで神の国が到来すると考えました。パリサイ派は律法のルールに従った生活することで神の国に入ると考えました。エッセネ派は熱心に祈り、世から離れて禁欲的に生きることで到達すると考えました。微妙な時代、神の沈黙の時代にユダヤ人が向かった先がユダヤ教です。イエス様は彼らにズバリ指摘なさいました。救いは人の宗教によって得られるのではない。どうしてあなたがたは、主を信じ、主に従い、主のあわれみによって救われてきたアブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤたちを忘れ、その生き方を宗教にすり替えてしまったのか!と。これは私たちにも刺さります。今でも主に従う本当の弟子と、キリスト教をしているだけの人がいます。イエス様のことばを聞いてください。
 イエス様は言われました。《「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」》生まれながらの人は死に向かっていく肉のいのちしか持っていません。ニコデモもその事は知っていました。熱心に聖書を読んでいたからです。彼は霧の中で何も知らないで踊っていた人ではありませんでした。神の約束がまだ実現していない。私は神の国に入れていない、永遠のいのちを持っていないと知っていました。彼は少なくとも律法の下にいた人でした。だからイエス様のところにやってきたのです。
 彼は、風がどこから吹いてくるのか突き止めようとするように、イエス様に「どうやって」と尋ねました。しかし、風がどこから吹いてくるのか突き止めたところで、彼はその風を起こすことができるのでしょうか。いいえ、できません。アブラハムも、モーセも、ダビデも、エリヤも、主のあわれみがどこからどうやって来るのか知りませんでしたが、主のあわれみに拠り頼み、背きの罪が赦されることを経験していました。ニコデモはイスラエルの教師でありながら、それを知らなかったのです。「私はどうしたら新しく生まれ、神の国に入り、永遠のいのちを得ることが出来るのですか」とのニコデモの問いに、「モーセが荒野で蛇を上げたように、イエス様が呪いの十字架にかかることで、人は永遠のいのちを持つようになる」とイエス様は教えてくださいました。すなわちニコデモに出来ることはないのです。宗教で得られるものはありません。風が吹いてくるところが分かったところで、風を吹かせることができません。永遠のいのちを得るために必要なことはイエス様がしてくださったのです。それを信じ受け取るなら、人は永遠のいのちを得て、神の国に入れられます。
 しばらく前に、神の国の話をしました。神の国はやがて来るものであり、同時に信じる者のうちにすでに来たものだと話しました。神の国と永遠のいのちは同じものを指しています。つまり永遠のいのちは、やがて頂くよみがえりのいのちであり、また同時に信じる者のうちにすでに鼓動しているいのちです。36節《御子を信じる者は永遠のいのちを持っている》と書いてあります。そして、その永遠のいのちは「信者の心にあることになっているので盲目的に信じ込んでいるもの」ではありません。使徒ヨハネが、いつも強調して書いていたのは「私は(彼/彼女は)見た」という言葉です。(以前、黙示録を開いたときにも話したとおりです。)ヨハネはペテロと一緒にイエス様の墓に行って、それが空っぽになっているのを見ました。マグダラのマリアは復活のイエス様と会話し、すがりつこうとしました。トマスは復活のイエス様の体に触れてみるように言われました。弟子たちはみな、復活のイエス様と40日間、共に過ごしました。それは、魂がどこか霊的な世界で浮遊し続けるような生命ではなく、確かに見ることができる、触れることができる復活のからだでした。イエス様は永遠のいのちを弟子たちに見せてくださったのです。
 主イエスを信じる者には永遠のいのちが与えられています。今、すでに与えられているのです。確かに、私たちはまだ滅びゆく肉の幕屋を着ています(IIコリント5:4)。《この幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。》しかし、うめきながらも、主イエスを信じる私たちは永遠のいのちを持っているのです。このことを知らなければ、地上生活はただ苦しみを我慢して、復活の日を待つだけの日々だと勘違いしてしまうかもしれません。
 体に重い障がいを持ちながらも、主に救われて永遠のいのちをいただき、それを証しした(証ししている)クリスチャンがいます。水野源三さんや星野富弘さんのお名前をみなさんもご存知でしょう。水野源三さんは脳性麻痺による障がいで話すことも書くこともできませんでした。目の瞬きでことばを伝え、沢山の詩を詠んだ人です。星野富弘さんは頚椎損傷で手足が動かず、口に筆を加えて絵を書き、そこに詩を添えた作品を作っておられます。その絵や詩から受ける感動は、「重い障がいがあっても頑張って生きています」という感動とは違うのです。〇〇時間テレビとは違うものが、そこにあります。
 水野源三さんの詩をひとつ紹介します。彼は話すこと書くことだけでなく、体を動かすことも自由にできませんでした。瞬きが出来るだけ。「讃美し語りたい」という詩です。「もり上がる入道雲 わき出る泉のごとく 心のあふれる言葉をもって とどろき渡るかみなり はげしく落ちる滝のごとく 力のかぎり大きな声をもってまことの御神の愛とみざを 讃美し語りたい」この詩から見えてくる水野さんは、永遠のいのちによって生きている人です。彼はすでに永遠のいのちを持っていて、そのいのちによって生き、まことの御神の愛とみざを、心からあふれる言葉で、力の限り大きな声で、讃美し語っています。その声が肉のからだを通して出て来ないのが残念だという詩です。でも、この詩を読めば、水野源三さんの讃美が聞こえてくるではありませんか。
 主イエス様の十字架が私の罪を贖ったと信じる人には永遠のいのちが与えられています。これはただ神の愛と恵みによるのです。そのことをどうか忘れないでください。
お祈りいたします。《モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。》
 
 天の父なる神様。深遠なこと、隠されていることを明らかにし、闇の中に何があるかを知り、ご自分の内に光を宿される神である主よ。この朝も、あなたの光が私たちとその周りを照らし、闇が取り払われました。私たちはあなたの聖なるみ前に立つに相応しくない者です。また安全だ、平安だと思っていたところは、深い穴の縁であることが見えてきました。あなたは手を伸ばし、叫んでおられましたが。私たちの目はそれを見ず、耳はそれを聞こうとしませんでした。
 主よ。どうか私たちをあわれんでください。御子イエス様の十字架の元に連れて行ってください。私たちの肉のいのちは、イエス様と共に十字架につけられて死に、私たちは復活のイエス様から永遠のいのちをただでいただきました。私たちの霊の目を開き、永遠のいのちが私たちのうちですでに鼓動していることに気付かせてください。肉の幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいていますが、それが何でしょうか。
 あなたの恵みの下に本当の平安と喜びがあります。それは溢れ出てきて、うちに留めておくことができません。今週も私たちを恵みの流れの通るところとして用いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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