2022.10.30主日礼拝「神の国ついに」ルカの福音書1章67~79節


この間から月1回ぐらい、主日の午後、牧師を囲んでフリートークの会が開かれています。ざっくばらんで楽しい交わりの時です。コロナ禍ではできなかったことがぼちぼち回復してきていることが嬉しいです。今日は、イザヤ書に苦難のしもべとして表されているイエス様が400年の神様の沈黙を破って新約聖書に現れてくださり、神の国を宣べ伝えてくださいました。神様の祝福のお約束を伝えてくださいました。それは世の与える祝福と違って、最も小さい貧しいものにも与えられる祝福の約束ですと。その美しいイメージに希望が湧いてきます。(Re)
[礼拝説教]中尾敬一牧師
おはようございます。10月最後の聖日を迎えております。クリスマスを前にして、慌ただしくなってくる時期ではありますが、今日も変わらず、主の御前に集い、感謝と喜びの朝をみなさまと共に過ごすことができる恵みに感謝しています。
 先週の午後は、2回目の午後の会を開くことができ、有意義な時間をもてたと思います。説教を聞いて、もっと詳しく説明がほしいという部分を質問していただき、私が答えるという会です。私にも勉強になっています。そのようにしていく中で、聖書とはどんな書物か少しずつ見えてきているのではないかと思います。聖書は、はるか昔にモーセの律法と呼ばれ、後に歴史書、預言書、諸書が加えられ、さらに福音書と使徒たちの手紙が加えられ完成した書物です。この書は主の民に向けて語られている書です。律法を思い出してください。律法はシナイ山で与えられました。エジプト脱出の前ではなく、脱出後です。神に救われて、神と契約を結んだ民に与えられた書物です。律法を守れたらエジプトから救ってあげるよと言われたのではありませんでした。聖書は、神である主に救われて、「あなたを信じ、わたしの主として従います」と約束した民に与えられた書物なのです。
 この聖書によると、主のご計画は、すべての人の中から主の民を起こし、民が主と共に歩むことで、周りの人々がそれを見て、主を知り、主の民に加わってくるというものです。一つ例を挙げましょう。イエス様のいろいろな言動の中で、人々に人気のある出来事と、人気のない出来事があります。イエス様が、あるカナン人の女性に《「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」(マタイ15:24)》と言われました。これはおそらく人気のない出来事だと思いますが、神様の計画が表されています。神のことばであるイエス様が目の前にいる人を差し置いて、わたしはユダヤ人に語るために来たとおっしゃいました。これにカナン人の女性は《「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」》と言いました。こうして彼女は主の民を通さずに、イエス様の癒やしを受けました。神のあわれみによって、後のものが先になったのです。
 教会の歴史を振り返ると、神のご計画によってよりも、神のあわれみによって後のものが先になりイエス様の弟子に加えられたことが多かったと私は感想として思います。しかし、神のあわれみによって、ここまで福音が広がったのなら、もし私たちが神のご計画に従順であるなら、なおさら、福音は広がるはずではないでしょうか。
 クリスチャンである私たちに語られている聖書を今日も開きましょう。ルカの福音書1:67-79(109ページ)【聖書朗読】
 
 旧約聖書と新約聖書は分断された書物ではありません。話は続いています。ですから、旧約聖書を読んできた記憶をリセットしないでください。前の時代を思い出してみましょう。バビロン捕囚からユダヤ人たちがエルサレムに帰ってきた時代です。エズラ、ネヘミヤ、ダニエル、エステルの時代でした。彼らはバビロン捕囚からの新しい出エジプトを経験しました。ところが新しい出エジプトは不完全のままだったのです。
 古代イスラエル人は主に背いた罪のために外国の帝国に滅ぼされてしまいました。北イスラエル人は民族を保つことができず、消え失せてしまいました。しかし、南ユダ王国の人々(ユダヤ人)は神のあわれみによって、民族を保つことができました。彼らはバビロンの地で辱めを受けながらも、消え失せることはありませんでした。南ユダ王国はエルサレムを首都とする国であり、ダビデ王家によって治められていました。ダビデの家とは、神の恵みを受けたユダヤ人のことです。北イスラエルは滅ぼされ、ダビデの家は新しい出エジプトを経験した。これが旧約聖書の後半の物語です。
 ダビデの家が残ったのはなぜでしょうか。ダビデが主の神殿を建てようとした時のことを覚えておられますか。ダビデは主の家を作ろうと計画しましたが、主は「あなたがわたしの家を建てるのではなく、主であるわたしがあなたのために一つの家を造り、ダビデの王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしの恵みはサウルからそれを取り去ったように、ダビデの家から取り去れることはない」とお答えになりました。その約束の通りになっているのです。救いは主のみ業だという神様のメッセージです。最初の出エジプトも、主の救い。2回目の出エジプトも主の救いです。ただ主が、人の力によらず、愛とあわれみによって、御手を伸ばし、ご自分の子らを救い出してくださいました。
 しかしその2回目の出エジプト、バビロン捕囚からの救いは不完全のままでした。_ どういうことでしょう。バビロン捕囚からの救いは預言者たちが伝えた主のことばによって約束されていました。例えばイザヤ書の40章以降に記されています。何ページもありますので、全部朗読する時間が取れませんけれども、最初の部分だけ少し読んでみましょう。イザヤ書40:1-5《「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる── エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」》このように捕囚が終わることが最初に告げられました。続きを読んでいくと、ユダヤ人はエルサレムに帰還し、ユダの町々が再建され、神殿が建て直されることが約束されています。さらに、民が喜び歌いながらシオン(エルサレム)に入り、悲しみと嘆きは逃げ去ること、主がシオンに戻られること、主が彼らを国々の光とし、地の果てにまで主の救いをもたらす者とすること、その都の門はいつも開かれ、国々の財宝が運び込まれ、その王たちがやってくること、新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての人類が主の前に来て礼拝することが語られました。また主の救いのみ業は、苦難のしもべによってもたらされることが明らかにされました。主の救いは苦難のしもべが人々からのけ者にされ、蔑まれ、神に罰せられ、打たれ、苦しめられて、殺されることによって、それが罪の代償のささげ物となり、民の罪がゆるされるのだと。だから滅ぼされて消え去るはずの人々は、神のあわれみを受けて、神の国を受け継ぎ、さらにすべての国々から人々がやってきて、主を受け入れる人たちは神の国を共に受け継ぐのだと、イザヤ書で約束されていました。さて、この約束とバビロン捕囚から帰還したユダヤ人が得たものを比較してみましょう。キュロス王の政策によってバビロンから解放されたユダヤ人たちは、エルサレムに帰り、町々を再建し、城壁と神殿を建て直しました。祭司とレビ人たちが帰ってきて神殿で仕え始めました。人々は律法を思い出し、神殿で主を礼拝する生活を取り戻しました。良いじゃないですか、と言いたいところなのですが、そこまでで止まってしまいました。神殿と律法があるということは、祭司と預言者が戻ったということです。しかし、王様はどうなったのでしょうか。王様がいなくて国があるのでしょうか。ユダヤ人の国は帝国の一地域にすぎません。帝国から派遣された支配者がいました。悲しみと嘆きが逃げ去って、楽しみと喜びがついてくるはずが、実際はどうでしょう。国々の王がやってきて、財宝を運び入れるのはいつでしょうか。新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての人類が主の前に来て礼拝することは、まだ起きていません。苦難のしもべが現れて、代償のささげ物となる話は何だったのでしょうか。例え話か何かでしょうか。エズラやネヘミヤは苦難のしもべを見ませんでした。
 イザヤ書の主のことばは実現しなかったということなのでしょうか。ユダヤ人たちはエルサレム周辺の地域と、帝国のいろいろな町に散らばって、半分くらい預言が成就したような、微妙な状況で生きていました。1年経ち、2年経ち、5年、10年、100年、400年。何も状況は変わりません。自分たちを支配している帝国が変わっていくということだけ。ああ、もう駄目なのか。
 その時、主はついに姿を現し、地に来てくださいました。イエス様は地上に来られて、あることをなさいました。「それは十字架でしょう」と即答されそうですが、その前に福音書は言っているのは、イエス様は神の国の福音を宣べ伝えられたということです。あのイザヤ書40章から始まる預言が、ついに成就し、神の国が来ると宣べ伝えられました。
 今日開いた箇所は、バプテスマのヨハネの父であるザカリヤの預言です。生まれてきた息子が「いと高き方の預言者」であるといいますが、救いは彼の息子によるのではありません。彼の息子、バプテスマのヨハネが備えた道を後から来られる方がダビデの家を救うために来られると言っています。このザカリヤのことばは、一体どうなっているのかと思っていた預言者たちの預言がついに成就し始めたと語っているのです。完成しておらず、微妙な状況で過ぎていたバビロン捕囚からの救いが、ついに完成しようとしているということです。そしてルカ3:3-4《ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。》この出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書に記されています。イザヤ書40章がついに実現し始めたのです。
 イエス様はいろいろな奇跡を行い、神の国の義があることをお示しになりました。《目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられ》ました(ルカ7:22)。神の国が絵に描いた餅ではなく、イエス様の元に実際にあることを弟子たちは見ました。イエス様は様々な例え話を語り、神の国(天の御国)はこのようなところですと教えてくださいました。イエス様の例え話は道徳の話ではありません。神の国を宣べ伝えておられたのです。
 先週の午後の会でも天国の質問が出ました。「天国」という概念は、実はギリシャ哲学やヨーロッパの土着宗教などから影響を受け、聖書が伝えている神の国(天の御国)から外れてしまっているところがあります。近年、クリスチャンの比率が欧米からアフリカやアジアに移ってきています。それで新約聖書時代以降に他所から混じってきた哲学や宗教の考えが聖書と違っていると指摘されるようになってきたわけです。(今度は逆に私たちは自分たちの土着の考えを混ぜてしまう危険がありますが。)ですから、イエス様が何を教えてくださったかを知ろうとすることが大切なことです。そしてそれは旧約聖書と繋がりのある話です。イエス様は旧約聖書を捨て去って、別の話をされたのではありません。むしろ旧約聖書を解き明かし、その預言をご自身で成就してくださったのです。
 イエス様は神の国を宣べ伝え、苦難のしもべとして十字架で死に、3日目によみがえられました。この十字架と復活を、後の使徒パウロは神の奥義として宣べ伝えたのです。十字架と復活が、神の国のカギだという話です。神の国がなければカギは必要ありませんし、カギがなければ神の国は決して入ることのできないところとなってしまいます。
 来週以降もイエス様の宣べ伝えられた神の国を聖書から見ていきます。私たちは神の国の福音を宣べ伝えるために国々の光とされたのです。聞く耳のあるものは聞きなさいと言われたイエス様のことばをよく聞きましょう。
お祈りいたします。《「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。》
 
 天の父なる神様。私たちが生まれるはるか昔から、救いの計画を立て、人々に約束し、誠実にその約束を守ってくださった主よ。あなたの愛の深さに私たちは圧倒されます。
 これほど壮大な救いの計画の中に、私たちひとりひとりを覚えてくださり、ありがとうございます。小さな雀の一羽にも目を留め、それよりも優れたものとして私たちを覚えていてくださいます。あなたは私たちの髪の毛の本数さえも知っておられるお方。私たちの些細な出来事も気にかけてくださるお方です。
 私たちが世で見かける壮大な計画は、小さな人びとを無視する計画です。計画した人たちだけが得をするような計画です。ひとりひとりを覚えて、すべての人が救われる計画を立て、実行してくださったお方は、あなただけです。計画したご自身が苦難のしもべとなられたとは、他では聞いたこともありません。どうか私たちに神の国を教えてください。イエス様の元にある国がどれほど優れているかを知り、心からみ名をあがめることができますように、どうかあわれみ、助けてください。
 あなたは私たちを国々の光としてくださいました。今週も主のみこころがなりますように。アブラハムとの契約を顧みて、私たちをそれぞれの場所において祝福の源としてください。

 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 

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