2022.11.6主日礼拝「御国はイエス様と共に来た/来る」マタイの福音書24章45節~25章13節

爽やかな秋日和がやっと戻ってきました。でも、王寺教会にとって今日は、例年より早くクリスマスの飾りを出す日で、数日前からバタバタしています。今月は宣教地のために特にお祈りする月間のようです。2年前までこの教会にいらした先生方も長い間、宣教師として海外に行かれていましたので、特に身近に感じます。今日メッセージではイエス様の神の国に関するたとえ話を解き明かしてくださり、とても興味深く聞きました。その解釈によって歴史的にさまざまな派がうまれてきたことなど。聖書を深く広く読んで理解している牧師先生から正しい解釈を教えていただくことの大切さを思います。(Re)

[礼拝説教]中尾敬一牧師

おはようございます。11月に入りました。毎年11月は世界宣教をおぼえる宣教月間となっています。第3聖日は世界宣教聖日礼拝をもち、インマヌエル綜合伝道団から派遣されている宣教師たちの働きをビデオで拝見する予定です。
 教会の2000年の歴史を振り返って、世界宣教がどのように進んできたかをみると、とても興味深いです。パウロの時代から福音は世界に広がっていきました。実は西だけでなく東にも福音は伝わっていました。景教と呼ばれるものです。中国やモンゴルにまで到達し、日本文化にも影響を与えたと言われています。神社の造りなどを調べるとユダヤ人の祭儀と似ている箇所が色々と見つかるそうです。それで日本人のルーツは失われた北イスラエルの十部族ではないかという噂が発生し、一時は物議を醸しました。現代はDNA検査ができますので、それは否定されていますけれども、景教として福音が目前までやってきていたのです。2回目に福音がやってきたのは、ローマ・カトリック教会のイエズス会の宣教によります。時の織田信長はキリスト教に寛容であり、多くのキリシタン大名が信仰をもち、下の者たちはそれに従いました。しかし、豊臣秀吉のバテレン追放令、そして徳川家の鎖国という時代が後に続きました。3回目に福音が来たのは、開国後の明治時代です。多くの欧米の宣教師が日本で活動し、福音を伝えました。ミッション系の学校が出来たのもこの時代です。三度目の正直と言えるでしょうか。この時期からようやく福音が根付き始め、今日に続いています。
 世界宣教はエルサレムから始まりました。エルサレムからみると、日本は世界の果てです。日本に福音が届き、日本人がイエス様の弟子として根を張り、広がるまで、幾度も宣教の働きがありました。主の宣教の愛と情熱をおぼえ、私たちも宣教のために祈る一ヶ月といたしましょう。
 今日の聖書箇所をお開きください。マタイの福音書24:45-25:13(52ページ)【聖書朗読】
 
 主イエス様が来てくださったことによって、約束されていた神の国が私たちのところに来ました。預言者たちがバビロン捕囚からの解放を告げたときに、主が約束してくださっていたことです。ユダヤ人たちがエルサレムに帰ったことで、半分くらい成就したような、成就していないような状態でしたが、ついに主のことばは現実のものとなったのです。イエス様自身がイザヤ書の預言は実現したと宣言されました。私たちが用いている祈りの栞の表紙に、その箇所を記してあります。イエス様はユダヤ人の会堂で礼拝が行われていた時、イザヤ書を読み、《「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(ルカ4:21)》とおっしゃいました。
 またマタイとルカは、単にイエス様が言葉で宣言したから神の国が来たと思ったのではありませんでした。イエス様は人々の前に姿を表す前に、荒野で欺く者(サタン)の誘惑を退けられました。これはアダムが出来なかったことです。エデンの園でアダムとエバはサタンを退けることができず、自分たちが神の園から追い出されてしまいました。後に神に選ばれたアブラハムの子たちも、荒野で誘惑にあって、主に不平不満を言い、神の約束の地に入ることができませんでした。しかしイエス様は試みをうけてなお、神を讃美されました。イエス様はこの世を支配し、死の力を持ち、死の恐怖によって人びとを一生涯奴隷として繋いでいるサタンを退けなさいました。サタンが退けられたことは、神の国がイエス様の元にある証拠です。アダムの日から失われていた神の国の新しい創造が現実となりました。
 イエス様の元に来た人たちは病が癒やされました。食べ物が与えられました。災害から助け出されました。悪霊が追い出されました。死からよみがえりました。まるで曇り空の一部が開け、天から光が指してきたようでした。また使徒の働きによると、イエス様の奇跡は、主が天に昇っていかれた後も、イエス様のみ名によって働いたと記されています。今日においても、クリスチャンたちがイエス様の力が現実のものであると証ししています。
はるか昔から預言されていたとおり、主イエス様が来てくださった時、新しい創造は始まり、神の国が地に来たのです。
 バプテスマのヨハネはイザヤ書で預言されていた、キリストの道を備える者でした。預言されていたとおりに荒野に出て、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから(マタイ3:2)」と宣べ伝えました。そのヨハネですが、しばらくイエス様の様子を見ていて、困惑し始めました。事の成り行きが彼の予想と違っていたからです。
 イエス様は神の国が来たと語りながら、同時に「御国が来ますように」祈りなさいと教えられました。また数々の例え話によって、やがて来る神の国を解き明かされました。バプテスマのヨハネは父であるザカリヤの預言を知っていたでしょう。イエス様がユダヤ人を救うためにきたキリストであると確信していました。キリストが来た時、神の国は到来し、神の民は救われ、敵は打ち負かされ、すべての人々が主を礼拝しにやってくると信じて疑わなかったのです。彼は形だけバプテスマを受けようとして出てきた群衆に《まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(ルカ3:7)》と叫んでいました。まもなく人々の上に火が下ってソドムとゴモラのようになると思っていたのでしょう。確かにイエス様はキリストであり、曇り空が開けて光が指すように、神の国が実現していました。しかしすべてのことが直ぐに起こったのではありませんでした。イエス様は病を癒やされましたが、そもそも神の国が来ているなら、癒される以前に、病が一切無くなるはずなのです。災害から救われる以前に災害が無いはず、食べ物が与えられる以前に食べ物は豊かで不足が無いはず、死人がよみがえる以前に死ぬことはないはず、悪霊が追い出される以前に悪霊は居場所が無いはずです。イエス様の奇跡は神の国が来ていることの証拠であり、来ていないことの証拠でもありました。
 イザヤ書61章をもう一度読んでみましょう。イザヤ61:1-2《【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。》イエス様がユダヤ人の会堂で読まれた箇所ですが、イエス様はある部分を飛ばしました。どこでしょう。_ 「われらの神の復讐の日を告げ」の部分です。預言されていた神の国の実現は、主の救いと主の復讐がセットになっていました。ぜひイザヤ書40章以降を読んでみてください。すなわち、イエス様が来てくださった時、恵みの日は実現し、復讐の日は先延ばしにされたのです。《今は恵みの時、今は救いの日です。(IIコリント6:2)》
 今日開いたイエス様の例え話は、やがて来る神の国についてイエス様が教えてくださった箇所です。あえて2つの例え話を引用しました。イエス様が神の国を説明するために話された例え話はいくつもあります。私たちは例え話が出てくると、ひとつの話だけに集中して、これが何を言っているのか考えようとしがちです。しかし例え話はあくまで例え話です。実物を分かりやすく説明するために例えられているのであって、実物そのものではありません。どの例え話も、実物とは違う部分があります。神の国という実物があり、それを多方面から説明しようとして例え話があるのですから、色々な例え話を総合して考える必要があります。重要でない些細な部分を取り上げて、Aさんはこう思う、Bさんはこう思うと議論していてもあまり益にはならないということです。
 イエス様が教えてくださったことを総合的に見てみますと分かることがあります。やがてイエス様は王として、また裁判官として、誰が神の国に入り、誰が追い出されるのかをお決めになるということです。イエス様はこのように言われました。《だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。(マタイ10:32-33)》イエス様との関係によって、神の国に入れるのか、入れないのか決まるのです。
 当時のユダヤ人はどうして神の国の預言が途中までで止まってしまったのか、どうしたら輝かしいダビデ王国が戻ってくるのか、それぞれに意見を持っていました。パリサイ人は律法をもっと忠実に守れば、主は約束を果たしてくださると信じていました。律法を厳格なルールに変え、ルールを守るように教えました。荒野のエッセネ派は、この世の生活から離れ、禁欲と祈りに身を置く者を神が引き上げてくださると考えました。バプテスマのヨハネはこの1人です。サドカイ派は神殿で生贄をささげる伝統儀式を正しく守っていれば良いと考えました。ヘロデ党は、ローマ帝国に協力し、賞賛され、承認を得ることができれば神の国は成就すると考えました。熱心党は、神はローマの権力に武力で立ち向かい、戦いによって王国を復活させるように願っておられると考えました。これらは現代の私たちにも時々入り込んでくる間違った考えです。
 イエス様はそれらの考えをすべて退けられました。パリサイ派の真似をしてはいけないと弟子たちに教えられました。律法を守ると言っていることは大切なことですが、彼らの行いを真似てはいけませんと言われました。律法はルールではなく、神と人を愛することです。イエス様は安息日のルールを破り、これを示されました。またイエス様はこの世から離れるのではなく、ツァラアトの人々に触れて聖め、サマリヤで命の水を与え、墓場でレギオンの悪霊を追い出しました。また神殿での神の祭りを守るためと言って異邦人が祈るための場所を占拠して両替場としていた人々に怒り、彼らを追い出しました。また世と妥協してはならないことを教え、「誰も二人の主人に仕えることはできません」とおっしゃいました。そして、神の国は政治的、社会的な革命によって来るのではなく、ひとりひとりが悔い改めて、神に立ち返らなければならないとおっしゃいました。敵を暴力で打ち負かすのではなく、むしろ苦難のしもべが打たれることによって救われると示してくださいました。イザヤ書の預言の通りです。
 やがて来る神の国に入れられるのかは、イエス様との関係によります。聖書はそれを教えています。イエス様もそれを分かりやすく教えてくださいました。とても単純な話です。
イエス様を信じて、洗礼を受けることを、どちらでも良いことと思わないでいただきたい。聖書を読んでいたら良いでしょ?ではないのです。お祈りしていたら良いでしょ、讃美歌を歌っていたら良いでしょ、礼拝に出席していたら良いでしょ、人々から賞賛される生き方をしていたら良いでしょ、世界をよくする活動をしていたら良いでしょ、ではないのです。イエス様を信じ、受け入れ、正しい関係を持ち続けているかどうかが問われるのです。その日、イエス様が神の国に入る人と入らない人を振り分けなさるからです。2つの例え話は、イエス様をいつも待ち望み、帰ってこられる日までいつも歓迎の準備をしているようにと教えています。恵みの日を先に実現してくださった主は、復讐の日が人々が予想するよりもずっとずっと先まで延期されていることをご存知でした。ですから、待っている間に、イエス様を待っていることを忘れてしまわないように心配してくださったのです。
 イエス様が帰ってきてくださる日に、すべてのことが解決します。もう病が癒やされる世界ではありません。病が無いのですから。災害から救われる世界ではありません。災害はないのです。食べ物が与えられる世界ではありません。食べ物は不足することがないからです。死からよみがえる世界ではありません。死が無いのです。悪霊が追い出される世界ではありません。悪霊の居場所はもはや無いからです。主イエス様こそ私たちの救いです。いま、曇り空から指す恵みの光の中をイエス様と歩む私たちは、やがて来る復讐の日をイエス様の血によって過ぎ越され、イエス様と共に夜のない都へと入ります。
お祈りいたします。《ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。》
 
 天の父なる神様。あなたの怒りはつかの間、あなたは永遠の真実の愛であわれむお方です。どうしてあなたを見捨てられるだろうかとおっしゃって、私たちを救い出してくださいました。あなたを知らずに生きていた私たちに現れ、私たちを招いてくださいました。あなたの愛と情熱に心から感謝いたします。
 私たちの救いは、私たちの行いによるのではありません。あなたが救ってくださいました。イエス様、あなたはいつでも私たちの王です。この世にあって、私たちは主の恵みの時を生きています。様々な悪に圧倒されそうになりますが、あなたに目を向け、あなたに祈るなら、どんな試練も乗り越えていけることを知りました。どうかこれからも光の中を歩ませてください。
 主よ。御国が来ますように。あなたが帰ってきてくださる日にすべてのことがまっすぐにされます。忍耐の日はついに終わります。主よ、はやく来てください。あなたが帰ってきてくださる日を早めるために、すべての人が悔い改めて、イエス様を受け入れるように祈っています。御心をなしてください。私たちはいつもあなたが帰ってきてくださることを待ち望んでいます。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

 

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