2022.11.13主日礼拝「良い麦と毒麦」マタイの福音書13章24~30節、36~43節

 

先週の主日の午後はクリスマスの飾り付けでした。みんなで協力してすっかり美しく飾り付けられた会堂がその日、夕日の中に姿を現しました。高いところにも上がりましたが、誰も怪我もなく感謝でした。美しく飾られた会堂の外も中もどうぞ見にきてください。
12月17日(土曜日)にはコンサートがあります。
礼拝メッセージは新約聖書からです。イエスさまのたとえ話から神の国の話が語られました。
オンラインでいつも礼拝を聴いている家人が毒麦の話に興味を覚えて調べたら、毒麦って本当にあるんだ、そしてそれは根っこが絡まる性質があるから、早く抜いたら良い麦も一緒に抜いてしまうってイエスさまの話、本当だなと驚いてました。(Re)

[礼拝説教]中尾敬一牧師

おはようございます。一週間守られ、今日も集まる日が与えられたことを感謝します。

11月は教団の世界宣教月間ということで、先週は世界宣教についての歴史を少しお話しました。エルサレムから始まった福音宣教は時代を経て世界に広がりました。イエス様がからし種やパン種(イースト)の例えで話されていたとおりです。園芸や農作をしておられる方はたくさんおられると思います。小さな種を植えて土をかぶせてしまえば、植えてあるのかないのか見た目には分かりません。しかししばらく待っていると、忘れた頃に芽を出し、茎や幹が伸びて分かれ、大きくなります。イエス様が天に昇っていかれた時には数えられる程の人数しかいなかった弟子たちです。彼らを地上に残して、主は昇っていかれました。まるでイエス様が来られる前と何も変わらないように見えていたのですが、しばらくすると世界に広がり始めました。種は植えられていたのです。イーストは混ぜられていたのです。ですから、イエス様の弟子の群れは広がり続けてきたので、どの時代を見ても前と同じということはなかったのです。

 宣教師とは、自分の国を離れて伝道する人を指します。同じ「宣教師」と呼ばれる人たちでも、その時代によって神様から用いられる形が変わってきます。現代の宣教師の役割は、前の時代の宣教師の役割で測ることができないのです。現代の宣教師は見方を変えれば、外国から来た移民です。グローバル社会では珍しくなくなってしまった、アチラコチラにいる移民のひとりです。外国移住の敷居はこれまでになく低くなっていますから、いわゆる一般人でも移住しようと思えばできる世界です。情報化社会ですから人よりも情報のほうが早く簡単に行き来できます。新しいことを知るのに人から聞かなくても良いのです。現代の移民は、外の世界からやってきて画期的な働きをする人というよりも、現地人よりも色々なことが上手にできない人たちとみられがちだと思います。
 イエス様が地上に来てくださった時、その状況は今の宣教師たちに似ていたのかもしれません。天におられたお方が苦難のしもべとして地に来てくださったのです。イザヤ書には苦難のしもべの姿が記されています。《彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:2-3)》宣教師たちの存在が福音を運ぶ器として用いられるように祈りつづけましょう。
 今日の聖書箇所をお開きください。マタイの福音書13:24-30,36-43(26ページ)【聖書朗読】

 先週は、神の国がイエス様と共に来たこと、また同時にまだ来ておらず、やがてイエス様と共に来ることをお話しました。恵みの日が到来し、裁きの日は延期されています。私たちは旧約聖書から順番に聖書を読んできましたので、何が起こっているか分かると思います。聖書がなければ、私たちは土の下に種が植えられたことを知ることができません。神の国が来て、成長しており、やがて誰の目にも明らかで、すべての人がその高価な価値を認めるようになります。しかし今は目に見えない事柄を信じなければいけないのです。聖書は神の愛と情熱と忍耐だと私は思っています。
 何かを人に説明しようとするとき、一生懸命、丁寧に詳しく伝えようとすればするほど、分かりにくいと言われることがあります。現実の出来事は実際には複雑です。事細かに伝えようとすると、情報量が多すぎて聞いている方は分からなくなってしまうことがあるのです。一方で、詐欺師のような人が大切なことを隠して「シンプル」に説明し、「感覚的に矛盾しないような」話をすれば、分かり易いということで人々が信じてしまうこともあります。しかし現実は、感覚的に矛盾することも色々とあるものです。例えば、物質は冷やすと縮みます。でも水は冷やすと膨れます。「なにそれ矛盾してるじゃん。そんなこと信じない」とは誰も言いませんね。どうなっているのかなと思って、さらに詳しく調べるでしょう。調べた結果、同じ物理法則によってほとんどの物質は冷やすと縮み、水は冷やすと膨れると分かるのです。
 ある人は伝えることを半ばあきらめてしまって、せっかく一生懸命説明しようと思っても伝わらないのなら分かる人だけ分かっていればいいわと思って話すのを止めてしまいます。しかし主はそれを諦めておられないのです。「耳のあるものは聞きなさい」音が入ってくる、文字が入ってくる人は、詳しく調べて知りなさいと呼びかけ続けておられます。
 さて、イエス様の例え話はひとつだけに集中しないで、色々な例えから総合的に考えるようにしましょう。マタイはイエス様の例え話をこの章の中にまとめています。一部だけ朗読しましたが、他の例え話も念頭に置きながらお話しています。先週お話しましたのは、神の国はイエス様と共に実現し、やがてイエス様と共に到来するということです。すると私たちはその間の時代を生きているわけで、感覚的には矛盾するような事が現実に起こっています。今の神の国には(神の国にですよ!24節、41節)良い麦と毒麦があるのです。イエス様が2000年前に来られて、神の国の種が蒔かれました。しかし、すべての人が福音の種を受け入れたのではありませんでした。種が植えられれば、そのうちに芽が出てくるのですが、種が入っていない土地からは何も出てきません。イエス様が蒔いたのは「わたしを信じなさい」の種です。イエス様を主として信じること、主イエス様に依り頼んで生きる者となることです。それを受け入れた人たちだけが、一面に現れているのが神の国のはずです。ところが芽が出ないはずの場所からも何かが生えてきて、イエス様の種から出た植物と全く同じ見た目で一緒に生えているというのです。イエス様を信じて、イエス様に従い、イエス様だけに依り頼んでいる人と、そうでない人が神の国の中に一緒にいる。それが今の状態です。47節以降には網で集めた魚の例え話がありますが、これも同じ事を言っています。
 ちょっと抽象的すぎて分からないという方には、具体的な話があります。古代イスラエル人の話です。彼らはアブラハムから始まりましたが、アブラハムは主の呼ぶ声を聞いて、それに従った信仰から始まりました。アブラハムの子孫、神の民イスラエルは主に従う信仰の人たちの国であったはずです。アブラハムから生まれたのですから、彼らはみんな主に従って歩む民であるはずでした。しかし現実には主に従う人と従わない人が同じ神の民の中に一緒にいました。マタイは詩篇78篇を引用して(35節)、古代イスラエル人を思い出すように促していますね。かつて神の民の中で起こったことが、イエス様の国(神の国・天の御国)に、いまも起こっています。
 え!?それは大変なことですね。「どうしよう、どうしよう。早く毒麦を引っこ抜いてしまわなければ!」と思ってしまうのが私たちです。しかし主は何と言っておられますか。28-30節《主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。》イエス様に従う弟子がすべきことは、イエス様を信じて従う人と従わない人を、両方とも抜かないで育つままにしておくことです。どうですか。そのようにできていますか。イエス様が言われた通りにしていますか。私たちには麦と毒麦を見分けることができません。そう言うと、「いや、先生。だいたい分かりますよ。そんなこと人を見ていたら大体分かります」とおっしゃる方がおられるのです。でも聖書には、それは人に分からないと書いてあります。裁きは神のものなのです。神が判断するのは嫌だから善悪の知識の実を食べて人間が良いことと悪いことを決めることにしたのが、最初のアダムの罪でした。後にパウロもこのように教えています。《愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19-21)》そういうわけですから、イエス様が帰ってこられる日まで、両方とも育つままにしておかなければなりません。
 毒麦が育っているからといって、神の国がなくなるわけではありません。闇は光に打ち勝つことがないので、心配することはありません。やがて麦をパンにする時、食べたら大変じゃないかと心配する必要もありません。収穫の日には、麦と毒麦が判別でき、別々に集められるからです。魚の例え話では、49節で、このようにあります。《この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。》
 もし神の国が現在このようになっていると知らなければ、私たちは現実をみて苦悩することになります。一体何が起こっているのか、私は間違った場所に来てしまったのではないだろうかと悩んでしまいます。でも、イエス様の説明を覚えていれば、現実はその通りなのです。恵みの日が到来し、裁きの日が先延ばしにされている状態なのです。神の忍耐は私たちの限界を超えています。その神の忍耐のゆえに、私たちは救われたのです。
 とある家庭では、毎日夕方になるとこのような光景が見られます。お母さんが赤ん坊をおんぶして、晩ごはんを作っている。そこに上の子たち(4歳、3歳)がやってきて、「お母さん。何か食べたい。」と言います。お母さんは「ちょっと待ってね。もうすぐ、あと20分したらご飯ができるからね。」子どもたちは「やだー。何か食べたい。」そうして全力で泣き出します。「ヤダー!!!」_ 子どもたちはどうしたら良いのでしょうか。食べ物を探しに行きますか?もっと力を込めて泣きますか? そこでもう少し待っていたら良いですね。
 主が愛と情熱と忍耐をもって、私たちに与えてくださった聖書です。これがなければ、種が植えられているプランターを見て、「このプランターは土が入れてあるだけで何も生えてない」と言って捨ててしまうように、イエス様から離れてしまうかもしれません。みことばに親しみましょう。52節でイエス様は言われました。《「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」》 旧約時代に神の民に起こった出来事を見て、イエス様の国で何が起こっているか知る人は幸いです。新約聖書を読んでいくと、沢山の旧約聖書の引用が出てきます。イエス様がされたように、マタイもマルコも、ルカもヨハネも、パウロもペテロも、イスラエルの出来事を思い出して、イエス様と共に来た(来る)神の国を説明しているのです。
 正しい裁きが先延ばしにされている世界を生きるのは辛いことです。イエス様のところに隠れ場がなければ、とうてい耐えられるものではありません。しかし、神の国はやってくるのであって、心配して探し回る必要も、大声で泣く必要もありません。《ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。(Iペテロ4:19)》《あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Iペテロ5:7)》と聖書は言っています。

お祈りいたします。《そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。》

 天の父なる神様。奇しいみわざを行われるお方。あなたはみ腕をもって私たちを贖われました。イエス様と共についに到来した神の国に、私たちは入れていただけました。ありがとうございます。ただただイエス様の十字架と復活の恵みのゆえです。
 どうして神の国に良い麦と毒麦が一緒に生えているのか、どうして羊飼いの囲いの中に、門から入ってきた人と塀を乗り越えて来た人が一緒にいるのか、私たちの感覚では理解が難しいことです。あなたの深淵なご計画があることを認めます。
 そうであっても心配しないようにと、あなたは語りかけてくださいました。まるで曇り空から光が指すように、あなたのみ元にはいつも私たちの救いがあります。《【主】よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。ほめたたえられる方、この【主】を呼び求めると、私は敵から救われる。(IIサム22:2)》とダビデが告白したとおりです。
 救いは主のものです。私たち王寺教会が、まるで自分たちに救いがあるかのような間違った知らせを伝えることなく、主イエス様に救いがあると知らせる群れでありますように、どうかあわれみ、助け、導いてください。あなたを指し示すために私たちはこの町にいるのです。御心にしたがって私たちを用いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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