2022.10.23 教団創立記念礼拝「イエス『わたしはある』」 ヨハネ:8章23~30節、52~53節、58~59節















教団創立記念礼拝です。先に生きて私たちに福音を伝えてくださった先生方や先輩の信徒の方々がいらして今の自分があることを思い出し、深い感謝を覚えます。また今朝のメッセージの中でイエス様が語られた不思議な言葉、「わたしはある」が、旧約聖書で神様がご自分の紹介のために言われた言葉と同じであることを知り、長い長い年月を超えた一致に驚き感動しました。旧約聖書の難しいお話を聞き続けてきて、いきなり視界が開けた場所にたどり着いたような気がしました。三位一体の奥義はまだしっかりと理解できていませんが、なんとなく感覚でうなづきを覚えました。(Re)

[礼拝説教]中尾敬一牧師

 おはようございます。今日はインマヌエル綜合伝道団の教団創立をおぼえて、記念礼拝をもっております。インマヌエル綜合伝道団は10月21日に77回目の創立記念日を迎えました。イエス様の教会の歴史から考えますと、まばたきの瞬間ほどの期間ですが、その枝として芽吹き、ここまで歩みを守られたことを主に感謝したいと思います。教報に教団創立記念日に寄せた代表の言葉が載っていましたので、そのページだけみなさまにお配りいたしました。私は教団の歴史の強調点に変化があるなと感じています。誰が用いられたかよりも、背後で働いておられる主を見ようとすること、また創立時から始まる歴史ではなく、中田重治、ムーディーまで遡って見るということが近年の傾向だろうと思います。そこまで遡ってようやくイエス様の教会の流れが、私たちにも繋がっていることが見えてきます。自教団至上主義にならないようにしましょう。イエス様の教会の木に芽吹き、77年が主のあわれみの内に守られ、成長を与えられてきたことを心から感謝したいと思います。

 さて、今日の説教は一ヶ月前に予告していましたナンバリングタイトルに戻りたいと思います。前回までに旧約聖書の歴史書を全部(エステル記まで)終えました。私たちが共に旧約聖書を読んでまいりましたのは、お勉強のためではありません。試験勉強のために色々と解き明かしてきたのではありません。私たちは主を知ろうとしてきたのです。旧約時代に世界と人を創造され、古代イスラエル人によってヤハウェと呼ばれていた神である主は、ご自身を世界に示されたお方です。アダムに現れ、ノアに現れ、アブラムに現れ、ヤコブに現れ、モーセに現れ、イスラエルの民に現れてくださいました。その合間には主の姿が見えないように思える時もありましたが、たしかに主の手の業が歴史に残されていきました。主は偶像を作って拝んではならないとおっしゃいました。アブラハム・イサク・ヤコブに現れてくださったお方を信頼すべきであって、金の子牛を作ってそれにヤハウェという名前をつけて拝むべきではないということです。古代イスラエル人はこれを守ることができませんでした。現れてくださった主を忘れて、金の子牛に主の名前を被せて拝んだのです。私たちも他人事ではありません。私たちの主は、あのアブラハム・イサク・ヤコブの神です。旧約聖書を読まずに、主を知っているつもりになっていることはないでしょうか。
 私たちクリスチャンは、「歴史に足跡を残してこられた、この主が生きておられて、私の人生に伴ってくださっている」と証しているのですから、ますます主を知るようにしていこうではありませんか。
 さて、それでは予告していましように、新約聖書を開きます。ついにイエス様の登場です。ヨハネの福音書8:23-30,52-53,58-59(196ページ)【聖書朗読】
 
 今日の注目点は説教題にある通りです。ユダヤ人はイエス様に「あなたはだれなのですか。」と尋ねています。イエス様は「わたしは『わたしはある』なのです」とハッキリとお答えになりました。そういうことだったのですね!これで今日の説教は終わりですと言いたいところですが、みなさんの頭の中はクエスチョンマークで一杯でしょう。もう少し説明していきます。
 イエス様が言っておられることを理解するには、旧約聖書のある出来事を知っていなければなりません。モーセの時代にこのような出来事がありました。出エジプト3:13-15《モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。》モーセはファラオと対決する前に、イスラエル人たちのところに行って、主があなたたちを救い出すと言っておられると伝えなければなりませんでした。しかし、モーセは思ったのです。「イスラエル人たちから離れて何年もミディアンの地に住んでいた私が、いきなりイスラエル人たちのところに行って、一体どのように話したら良いのだろう」と。モーセが主に尋ねると、主はご自分の名前を教えてくださいました。《「わたしは『わたしはある』という者である。」》_ あれ?でも待ってくださいよ。主のお名前は「ヤハウェ」ですよね。「ヤハウェ」はどこから出てきたのでしょう。それは15節です。《「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【ヤハウェ】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。》ここに出てきます。
 実は「ヤハウェ」というヘブル語は直訳すると「彼はある」という意味です。14節では「わたしはある(エヘイェ)」、15節では「彼はある(ヤハウェ)」となっているわけです。なぜでしょう。よく読んでみると、14節は神ご自身のことばの中で名前が出てきています。15節はモーセが言うようにと言われたことばの中で名前が出てきています。神ご自身が名前を言われるときは「わたしはある」が名前であり、モーセが神の名前を伝えるときには「彼はある」が名前だということです。主ご自身は「わたしはある」でも「彼はある」でも、どちらでも良かったようですが(14節)、イスラエル人は神のみ名を呼ぶことを非常に恐れますから、モーセが神のみ名について「わたし」と言ってしまうことは、それ自体恐ろしいことであり、以降は「彼はある(ヤハウェ)」と呼ぶようになったのではないかと思われます。
 さて、この出来事と今日のイエス様のことばをつなげてみましょう。イエス様は人々に「わたしは世の光です。わたしに従いなさい」と語っておられました(ヨハネ8:12)。パリサイ人たちの目は釣り上がりました。「『わたしに従いなさい』だと!?こいつは何を言っているんだ!」しかし、イエス様は毅然としてお答えになりました。「わたしは『わたしはある』なのです。」これは腰を抜かすほど驚くべき言葉です。もしイエス様がモーセのような預言者であるならば、主のみ名を呼ぶときには「わたしはある」ではなく、「彼はある(ヤハウェ)」の方を使うべきでしょう。しかもユダヤ人は、「ヤハウェ」という単語でさえも発音することをせず、代わりに「主」と呼んでいたのです。ところがイエス様は「わたしは主です」ともおっしゃらず、「わたしはヤハウェです」ともおっしゃらず、「わたしは『わたしはある』なのです」とおっしゃいました。全部同じ意味の言葉ですが、その重みは違います。神である主、アブラハム、イサク、ヤコブの神であるヤハウェご自身でなければ発することがない言い方で、「わたしは『わたしはある』なのです」と宣言なさいました。敬虔なパリサイ人たちはこの発言を聞き「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。… あなたは、自分を何者だと言うのか。」と激怒しました。イエス様はさらにおっしゃいました。《「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」》パリサイ人たちは律法を厳格に守る人たちです。殺してはならないという戒めを厳格に守っていた人たちでした。彼らが石を投げつけてイエス様を殺そうとするのは只事ではありません。それほどの大きなことだったわけです。ついに彼らはイエス様を完全に拒否し、無実の罪で裁判にかけ、ヘロデ王に十字架につけろと要求し、その通りになりました。
 私たちはこのイエス様を指して、「イエス・キリストは主です(ピリピ2:11)」と告白しています。イエス様が「わたしを信じなさい」と招いてくださり、それにお答えしました。それはイエス様があのヤハウェであるという告白であり、イエス様があの「わたしはある」のお方であるという信仰の告白です。
 さらにイエス様は三位一体の主の姿を説明しておられます。ユダヤ人は何を言っているのか見当もつかなかったことでしょう。今まで、天の神を指して「父」と呼ぶことはほぼありませんでした(イザヤ63:16)。ユダヤ人は、19節「あなたの父はどこにいるのですか」と尋ね、39節「私たちの父はアブラハムです。」と言っています。彼らがとても混乱していることが分かります。今日の私たちも、イエス様が解き明かしてくださらなければ、神である主が三位一体のお方であることを知ることはなかったでしょう。イエス様ご自身が、「わたしはある」のお方が三位一体であることを人々に教えてくださり、弟子たちがそれをしっかり覚えていて、人々に伝え、福音書を記し、数百年後の公会議で確認されました。
 旧約聖書と新約聖書は繋がりのある聖典です。旧約の神から、新約のイエス様にバトンタッチしたのではありません。父なる神が御子に変身したのでもありません。天地創造の時、いえもっと永遠の昔から、主は三位一体のお方です(コロサイ1:17)。
 旧約聖書の歴史をもう一度思い出してみましょう。主はノア、アブラム、モーセ、イスラエル、ソロモン、預言者たちに現れてくださいました。主のハッキリとした臨在があった後、時が経つにつれ、人が前に出てきて、主の姿が見えなくなっていきます。エステル記は目に見える主の姿が書かれていません。(主の救いの業があったことは明らかでした。)しかし、それから400年もの間、主の声も聞かれない沈黙の時代がありました。旧約聖書と新約聖書の間の時代です。主はついに民を見放して、去ってしまわれたのでしょうか。それとも400年も前に古代イスラエル人が信じていた神は、古い宗教の作り物の神だったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。400年の沈黙を破り、ついに主は現れてくださいました。なんと主ご自身が人となって地に来てくださったのです。このナザレのイエス様が「わたしはある」と呼ばれるお方です。
 これまで旧約聖書の歴史書をずっと読んできました。そこには主がどのようなお方か、何をしてくださったかが記録されています。しかしそれでも、あまり詳しいことはわからないのです。主の臨在は火や雲、至聖所の中にあって、人は近づくことすら恐ろしいと感じていたからです。でも、イエス様なら見ることができます。話すことができます。触ることができます。福音書は数千年に渡って、人々に読まれ、また解き明かされてきました。それだけ重箱の隅をつつくほどに読まれてきた書物ですが、そこに記されているイエス様の一挙手一投足に、神の愛と義ときよさを見出し、今日にも私たちの驚きと感動、尊敬、感謝の的であり続けています。イエス様を見る時、私たちは旧約時代の主をより深く知るのです。イエス様を見る時、主が旧約時代に約束しておられたことは本当であったと深く知るのです。(ヘブル1:1-2)
 またイエス様によって過去の主を知るだけではありません。イエス様が十字架と復活を経て、天に昇っていかれた後、パウロは復活のイエス様と出会いました。永遠の昔からおられた三位一体の主は、天に昇っていかれた後も、パウロに出会われ、また今日の私たちに現れてくださいました。私たちは聖書を通してイエス様の言葉を読んだのですが、ある時に分かったのです。「これは生きておられる主が、ここに記された言葉を使って、いま私に語っておられる」と。
 旧約時代と新約時代を分断してはいけません。これが分かれているのは、イエス様を主であると信じる人と信じない人がいたからであり、人間の側の都合です。イエス様は主ヤハウェ「わたしはある」であるお方です。永遠の昔から人を形造り、愛し、そして今も私たちに現れてくださる主です。
 
お祈りいたします。《イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」》
 
 天の父なる神様。アブラハムに現れてくださった父と御子と聖霊の三位一体の主よ。あなたは私たちひとりひとりにも現れてくださいました。あなたの愛が絵に描いた餅ではないことを教えてくださるために、わざわざあなたの方から出向いて、私たちの心の戸をたたいてくださいました。ありがとうございます。主よ、最初の愛を今日も思い出させてください。
 シナイの山に炎と共に降りてこられた時、雷鳴と地震が伴うほどの恐ろしい有様でした。それほど偉大なお方であるあなたが、人となり、仕えられるためではなく仕えるために、しかも苦難のしもべとして、のろいの十字架にかかり、私たちの罪の贖いの代価を払うために来てくださいました。あなたのあわれみは海よりも深く、愛と恵みは空よりも高いと歌われているとおりです。あなたのみこころは私たちの想像をはるかに超えています。私たちはもっとあなたを知りたい、あなたの恵みに近づきたいと願っています。
 イエス様、あなたは主ヤハウェ「わたしはある」であるお方です。私たちはあなたを信じ、あなたに従います。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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