2022.9.25 主日礼拝「見えざる主の臨在」エステル記4章7~17節

(写真はSさんから)

台風は奈良では被害が少なく通り過ぎました。彼岸花の赤が田んぼの畦道を美しく彩り、朝夕の気温がめっきり低くなって来ました。今日は、旧約聖書を学ぶ最後の回になるようです。(何だかうれしい。新約聖書のメッセージの中でイエス様が登場する日が待ち遠しい!)

今日のところは、エステルという美しい王妃が出てきてストーリーが劇的に展開する読みやすい書です。でも、聖書の中でも神様の影の見えない不思議な書だ、と中尾牧師。なぜか?(Re)

 [礼拝説教]中尾敬一牧師

 おはようございます。台風が2つも接近した週で、災難が続いています。地球は現在見つかっているあらゆる惑星の中で最も大気が安定していて、すべてが整い、人が住めるようになっているそうです。神様の備えが素晴らしいことを思いますが、環境破壊、温暖化といったことが引き起こされ、台風も大型化していることは悲しいことです。今日は港について錨を下ろし、主の御前で共に静まりたいと思います。

 先聖日の午後には奈宣協の講演会が行われました。私は講演会委員に入っていましたので、委員会を重ね、また準備をしてまいりました。みなさまにもお祈りしていただき、この働きのために送り出していただいたことを感謝いたします。教会が超教派の働きをすることを、みなさまの視点からどのように映るでしょうか。王寺教会に派遣された牧師が時間と労力を割いて、無償で超教派集会の準備をする。教会が何かを知らないでこれを見たなら、不思議なことに見えるかもしれません。
 その謎は歴史を見ると分かってきます。教会はイエス様が始められた弟子たちの群れです。そこにイエス様を信じる人たちが次々と加えられて、帝国中に広がっていきました。エルサレムの教会、アンテオケの教会、エペソの教会、ローマの教会といくつも群がありましたが、それは住んでいる町が違うという意味であり、すべてイエス様のひとつの教会でした。それから世界中に広がっていくわけです。ところがその後、教会が分裂していった罪の歴史がありました。イエス様は今の教会を見て、どれほど心を痛めておられるでしょうか。私が王寺教会に遣わされたということは、王寺の町に置かれたということでもあります。イエス様に遣わされたのですから、やがてイエス様にお会いする時に申し開きできる働きをしなければなりません。イエス様が見ておられるように教会を見ることが大切です。そのためには歴史を知る必要があります。
 また牧師給が何を意味するのかも何度も説明してしつこい話ですが、誤解するとすれ違いの元になっていきます。主の民が捧げ物をしてきたのには意味があります。十人の捧げ物によって1人のレビ人が他の十人と同じ水準で生活できる。こうして「全ての人が自分の努力によってではなく、神の恵みによって生きていること」を証してきたのです。会計上の名称は給与ですが、宗教法人法は信仰には介入できません。それは私たちの信仰によれば、働いた分の報酬ではありません。法人が牧師に払う人件費ではなく、神の恵みです。
 そういうわけで、私たちは歴史を知らないで教会に加えられた人々です。いろんな不思議なことが教会にはあります。大切なことは、世で習ってきた価値観に乗って今見えることだけを見ることないように、聖書を通してイエス様の教会とは何かを知ることです。
 今日の聖書箇所をお開きください。エステル記4:7-17(866ページ)【聖書朗読】
 
 今日は急ぎ足で駆け抜けてきた旧約時代の歴史の最後にあたるエステル記を開きました。王寺教会にはエステル会という組会がありますので、みなさんにも馴染みのある書だと思います。旧約聖書の順番は、まずモーセの五書が来て、次に歴史書となっています。ヨシュア記からエステル記までが歴史で、エステル記の次のヨブ記からは知恵文学の書となっています。歴史は全体の土台になります。知恵文学の書は時代を超える知恵を扱います。イザヤ書から始まる預言書は預言者の働きと彼らが伝えた主のことばを記したものです。これらの預言書は歴史の土台に、時間軸ができていますので、その上に乗せて読んでいくものです。そういうわけで、エステル記が歴史の最後で、沈黙の400年を経て、次の時代はイエス様の時代となります。
 旧約聖書の最後の時代にいた古代ユダヤ人たちは、ペルシャ帝国のあちらこちらに散らばり生活していました。一部の人々はエルサレムに帰り、神殿と城壁を再建しましたが、生まれ育った国にそのまま残る人たちのほうが多くいました。モルデカイやエステルは、バビロンからさらに東にあるスサという都市に住んでいました。モルデカイやエステルの名前はヘブル語ではありません。彼らはユダヤ人であることを公にしないで生きていました。ある時、エステルはスサの王クセルクセスの王妃となります。王宮には王の次に権力をもっていたハマンがいました。ハマンはモルデカイを憎んでいました。モルデカイがユダヤ人であることを彼は知っていたので、憎しみからユダヤ人を民族ごと滅ぼしてしまう計画を立てました。彼は言葉巧みに王を誘い、王は民族虐殺を承認してしまいます。その虐殺がこれから実行されようとしていた時、今日開いた箇所の出来事がありました。ハマンはエステルがユダヤ人であることを知らなかったようです。王妃であったエステルは勇敢にも召されていないのに王の前に行き、王の好意を得て、事態を覆すことができました。
 さて、このエステル記を読んでいて、何となく物足りなさを感じることはないでしょうか。モルデカイは虐殺計画の知らせを聞いて灰を被って叫びましたが、誰に叫んだのか書いてありません。出エジプト記には《イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。》と書いてあります。ダニエル記ではシェデラク、メシャク、アベデ・ネゴが《私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。》と宣言しています。ヤコブの子ヨセフの物語では《しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。》とナレーションが入っています。一方で、エステル記では14節《助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。》「主の助けと救い」と言ってもいいのではないでしょうか。16節《私のために断食してください。》「断食して主に祈ってください」と言ってもいいのではないでしょうか。その後続けて読んでいきますと、エステルは一か八かの場面で王の好意を受け、金の笏が差し伸ばされ、ハマンは道ばたでモルデカイを見かけて処刑台を作り、王が眠れなかったので年代記を読んでいたらモルデカイの功績が書かれているのを見つけ、ハマンはエステルに命乞いをしている正にその場面を戻ってきた王が見つけ、そうしてついにスサのユダヤ人は虐殺をまぬがれたのです。神が王の心を動かされたとか、ナレーションが入っていてもいいのではないでしょうか。話はめでたく収まるわけですが、ダニエルが獅子の穴から無傷で出てきたときのように、帝国の王が主を賛美した場面などは記されていません。
 私たちクリスチャンは証詞をするといって、自分の体験談を語ることがあります。もし誰かが体験談をエステル記のように語ったとしたら。目くじらを立てる人がいるかもしれませんね。聖書の引用を入れなければいけません!とか、神様が導いてくださいましたとハッキリ言いましょうとか、言われたことがある人がおられるでしょうか。ところが、主を証しする書(啓示の書)である聖書にエステル記が入っているのです。そこにはモーセ五書の引用はなく、ヤハウェという字もなく、神の働きを示すナレーションもありません。これでいいんですか。これで良いんです。
 先程は物足りなさを感じると言いましたが、それは私がひねくれているからでしょう。旧約聖書をここまで順に読んできた方は、先程足りないと言ったような言葉を自然に補ってエステル記を読み、出エジプトの救い主がスサのユダヤ人たちを守ってくださったと良く分かるのではないかと思います。同じく主の姿が見えない書であった士師記とは、読んでいて恵まれ方が違いますね。士師記の方は、何でこうなるの?の連続です(そこには忍耐の主がおられるわけですが)。エステル記の方は、“偶然”を記せば記すほど、主の臨在が浮き出てくるのです。ヨセフの話と重なる、出エジプトと重なる、またダニエルの話と重なるからです。
 私たちが自分の体験談を通して、主を証しする時、一体どのようにして目で見ていない、耳で聞いていない、肌で触れていないにも関わらず、そこに主が働いてくださった、守ってくださった、癒やしてくださった、導いてくださったと言えるのでしょうか。どのようにして、世の人々が「偶然」とか「運が良かった」と表現する事柄を神の業だと告白できるのでしょうか。それは、私たちが聖書を通して主を知っているからです。この聖書の物語と私の体験談が重なり、私の体験談には書いていなかった文章が補われていくからです。
 箴言3:6にこんな言葉があります。《あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。》私たちが神である主を知る方法は、まず第1に聖書です。聖書は主がご自身を世に示された啓示の書です。主は、人が「神」という概念で何となく思い浮かべたり、感じ取ったりするようなぼんやりとした何かではなく、聖書に記されているすべての出来事によって特定される、あの御方です。ですから聖書を読む時に、私たちは主を知るのです。その主を「あなたの行く道すべてにおいて、知れ」と言われています。私の人生の日々の歩みの中で、あの御方がおられることを知りなさいということです。どうやって?聖書の物語と私の出来事が重なり、主がそこにおられること(おられたこと)を知るのです。
 このように主を知った私たちは、主の御元に引き上げられる前に、主の証人としての使命を与えられ、地上に残されています。エステル記を読んで、どこにも神がいないじゃないかと考えてるような人々に、「そう思うでしょう。でもここには主がおられるよ」と教えるために。キリスト教も心に気休めを与える宗教のひとつでしょと考えている人々に、「私たちは宗教をしているんじゃないですよ。偶然じゃない、運が良かったのではない、イエス様がそこにおられたのだよ」と伝えるために。何を根拠にそんな事を言えるんでしょうか。聖書に、主はこの時にこうなさった、あの時にああなさったと書いてある。それと同じ事が起こっているでしょうと言えるのです。
 また過去の出来事に主の姿を見つけ出すことも証ですが、いま目の前で起こっている出来事に主を見て行動することも大切な証です。エステルはこの点で勇敢に行動しました。主が王の心を動かすことができると信じて、また主が祈りの叫びを聞いてくださることを信じて、死の危険をものともせず王座の前に出ていきました。私たちの人生にも度々、このような場面があります。どれだけ主を知っていても、どれだけ経験を重ねていても、その瞬間には信仰を働かせなければなりません。ヘブル人への手紙11章には旧約時代の人々が信仰によって歩んだことが記されています。そのひとつにはこのように書かれています。モーセは《信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。(ヘブル11:27)》次の章のはじめには《このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている》と書いてあるように、彼らはその信仰の一歩によって証人となったのです。証をするのに、巧みな言葉は必要ありません。特別な技能も、強い力も、豊かな経済力も、人びとを驚かせる奇跡も必要ありません。私が知っている主がそこにおられることを見て、主の後を、目に見えない方を見ているようにして従っていくだけです。何も片肘を張ることはありません。「キリストを信じる者として生きていること」が証となるのです。
 さてここで、次回の予告をしましょう。聖書には繰り返しがあります。「はじめに神が天と地を創造された」から始まる聖書ですが、段々と神である主の姿が表に見えなくなっていきます。話がバベルの塔まで進み、人が神様抜きで塔を立てている様子を後になって主が見に来られるという状況になりました。その後どうなってしまうのか。すると《主はアブラムに現れて言われた》です。アブラハムからヤコブの子ヨセフの時代になっていくにつれ、また同じように主の姿が表から下がっていってしまいます。すると出エジプトです。主は燃える芝の中から「モーセ、モーセ」と呼びかけられました。イスラエル人の歴史がエステル記まで進み、主の姿がまた表から見えなくなってきました。さて、次は……イエス様の登場です。《すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:9)》次回へ続く。
お祈りいたします。《もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。》
 
 天の父なる神様。宇宙のすべてを創造され、すべてを目に留めておられる主よ。あなたはエルサレムから遠く離れたスサに住む民を守られました。私たちの安全は人間の王によるのではありません。私たちの砦であり、盾であるあなただけが私たちの隠れ場です。
 あなたの姿が表に見えないからといって、世界が物理法則によって回っているだけだと考えている現代人をあわれんでください。彼らはあなたを知らないので、今も働いておられる主を見ることができないのです。私たちが日々触れる出来事や様々なニュースには、神である主がどのように働かれたか、どのような思いでおられるのか、ナレーションがつくことがありません。しかし私たちはみ言葉に照らして、それを補うことができます。
 主よ。どうか私たちに、さらに深くあなたを知らせてください。目に見えない方を見ているようにして歩むことが証になるというのですから。難しいことはできませんが、それなら私たちにもできます。聖霊なる主よ。私たちを助けてください。信仰の一歩一歩を踏み出していく私たちを力づけてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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